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大乗仏教は、戒律を形成して小集団を維持し、そこで独自の仏教解釈を主張し合って大衆への教化をおきざりにしいている仏教教団への批判として形成された。 釈尊の入滅から500年たった頃のことであった。実在の釈迦を帰依の対象とする有様から、在家信者が拠り所とした仏塔(ストゥーパ)信仰から永遠のブッダ(法身仏)という観念が育ち、やがて菩提薩多という概念を提出する。 これは大変おもしろいことである。釈尊のお墓が在家信者の拠り所となりそこに集まる大衆に、釈尊の事績を「物語」として語り、さらにはその前世譚が形成されて、仏陀が菩提薩多と現実世界に現れて、大衆を導き大衆と共に「サトリ」に至るというベクトルのある仏教運動が語られていく。現在の真宗の原型であろう。 こうして、釈尊伝や弟子伝から新たに語られ紡がれたテキストが、大乗経典となり、中央アジアへと伝播することで、ガンダーラ仏教美術が誕生する。 仏舎利塔にかわって、永遠のブッダを形象する「仏像」が礼拝の対象となり、それらを岸壁に彫刻しその石窟が、サンガの集会場所となっていく。 この形式は、美術表現と音声表現(読経・唱導)を伴う一大スペクタクルとして、シルクロード北路を経由して、亀茲国(クチャ)から遊牧民族の手で五胡十六国といわれる河北へ入る。そして北魏で花が咲くのである。 さて、この新しい仏教を伝来させたのが、亀茲国出身の仏図澄(ブッドチンガ)であり鳩摩羅什(クマラジーバ)である。北伝仏教といわれる由縁である。 この仏図澄の弟子が釋道安である。今日僧侶が「釋〇〇」と名乗る法名の創始者である。彼はまた、鳩摩羅什を中国へ将来して人である。この道安の弟子が、廬山の慧遠であり、師の弥勒信仰を発展させて、般舟三昧経に依る阿弥陀仏信仰に基づき「白蓮社」を結成して、念佛(字義どおりの座禅観想)を実践した人である。 これが拡大して、出家者は「釋〇〇」と名乗ることとなった。では女性はどうであったろうか。或いは在家信者はどうであったろうか? 不勉強でデータが十分でないのだが、時代が下って唐代の在家女性信者の法名については、墓誌という史料がある。 趙振華・『洛陽古代銘刻文献研究』(三秦出版社 二〇〇九年)
第五編「唐代墓誌経幢研究之─宗教階級篇」一「洛陽新出比丘尼墓誌与唐代東都聖善寺」より
會如墓誌
「1 大唐故韓氏劉夫人墓誌銘幷序
2 夫人彭城劉氏、法名會如、號金剛山、宗釋典也。(略)」
とあり、この史料から、戒・定・慧といわれる中国仏教から尼僧戒を受けた、「韓氏劉夫人」の法名が「釋會(会)如」であったことがわかる。つまり、出家グループにおいては「持戒」のためには、男女の区別が必要であるから、僧・尼と区別して呼ぶが、法の上からは男女区別がなかったことがわかるのである。
仏法を前提にしたとき、7〜8世紀の時点の中国では、女子側にのみ区別の責任を負わせる(符号を女性側にのみ付与することで区別する)ことはなかったといえよう(続)。 |
浄土真宗をカタル



