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勇気を得た書でした こうして新たな方向性を抱えつつstartした壽光寺。
この時期には組の役員をし、教区の機関運動本部の委員会にも所属して、主として教員側で蓄積されていた「部落解放教育」や「歴史認識」それから「参加体験型の教育」を、宗派の方へ提案し始めた頃だった。
共産党と社会党の立場の分裂と、解放運動側の分裂によって、政治的社会的に混沌として、一般大衆の生理感覚から遊離してしまい、「差別」「反施別」「解放」というような言葉が手垢に染まってしまった中で、経済的優遇措置がなくあったあとの「運動」。
さらには、其の中に「ジェンダー差別」や「障害者差別」そして「外国人差別」と、「差別者退治では解決しないフェイズ」が生まれてきた。
政治レベル社会レベル心理レベルでの「人権保障」、という概念が要請される。それは同時にどのような「対立点」を有しているのか、その対立を隠蔽することが、「差別」ではないのかという、新たな問題を照射して、日本における議論や言語文化の有り様、さらには地域コミュニティの形成と崩壊、その維持という小社会の様相、そして家族や家族史が無効化される市場経済の支配と進行などが、全て関係性のある世界として視野に入ってきた。
世界的なイスラム圏国家とキリスト教圏国家の対立緊張(実は政治利権であったり、パイプライン建設という経済的利益問題であたりする)やユーロ誕生に至る融和の方向とが、同時進行するという世界史状況とリンクする問題の階層化と複雑化を目の当りする時代がきた。
それはIT革命と同時進行で起こり、結果、いよいよ釈尊と提示された「世界は全て連動していて誰しもがその外側ではいられない」ということが、より多くの人が実践的に実感される時代になった。
時代感覚として「仏教が要求される時代になった」と現在も感じるが、当時の宗門や仏教界の空気は、ゆるゆるな感じ。創価学会や幸福の科学という新興第宗教集団に於いてすら、「除災招福」レベルが中心で、権威の象徴のような「本部」「支部」ビルを建てるが、自らの宗教を拡大することと世界情勢がどうリンクしどう有効化というような考察を示さず。
そういう中で2005年、『お寺の経済学』が生まれた。http://1000ya.isis.ne.jp/1498.html
カール・ポランニーやモーリス・ゴドリエらの「経済人類学」が示す、市場経済以外の経済活動を寺院という場で展開してきた歴史事実(網野史学でも指摘されてきた無縁化からの貨幣経済)、キリスト教圏での教会の果たした社会的役割というものを照射する考察など、読みながら「そうだそうだ、そのとおり」「それが私がやろうとしていることだ」と、大応援団を得た気分であった。
そこで早速、著者の中島隆信慶大教授にコンタクトして、研修講師として大阪へ来て講演をしていただいた。けれど、残念ながら他寺の住職方の関心は薄かった。
しかし、10年後20年後、お寺が潰れていく時代が来て、さらには「選ばれるお寺」「捨てられるお寺」を社会や政治の側だけでなく、檀家・門徒そして一般大衆から選別されるだろうという予想をして、そこで「選ばれるお寺」「社会から必要とされるお寺」をハード・ソフトの両面から構想していた。現在に至るまで、この方向性には揺るぎはない。(ただ、日本全体でいくと、有難いことに我が宗派は、教えの力、その歴史と伝統で、都市部以外では、旧態のお寺で十分機能していることもこの6〜7年の布教体験で知らされた嬉しい事実であるが。それにしても、政治学や経済学を踏まえないと、過疎と地方棄民問題には僧侶は対抗できないと考えるけれど)
2005〜6年の2030年の予想
①個人・社会を支える「生きた教え」として「真宗」は、世界からニーズされている。だから、習俗に載らずとも「まっすぐに仏教・真宗を説く」ことで、よりコアで多くの支持者をえることができる。時代はホンモノ志向。
②しかし、それには、一定の大衆性のある「表現」が要請される。いわゆるPOPな芸術芸能ジャンルでプロとして通じていくぐらいの力量のある宗派やお寺の「パイロット(水先案内人)」たるプロ僧侶、スター僧侶を育成する必要がある。
③その舞台は、お寺に限らない。むしろ都市的な場へ進出ししかけていくことで、内から外へと宗門を開いていく。これが活動の柱である。より大衆的な展開を築きうるということである。
④しかし「マス・メディア」に乗るということはイコールではない。露出は消費される。特にTVは限定され矮小化されてエネルギーを失う。それを承知で利用しされるルーツである。
そしてそのときお寺は、
①公益法人としての価値、つまり市民国民がいつでも入ってこられて、恩恵を受ける空間として機能する。奈良京都の観光寺院の如くであるが、そこでのパフォーマンスはあくまで、現在的恒常的価値が優先されることで、差異化される。すなわち「個」が漂流するなら繋ぎとめるアンカーとなり、制度や因習に縛られて「個」がつぶされるなら軛を断つ利剣とな利『自由』を描く。そういう場が寺。
②具体では、建物や庭園や歴史遺産が一般に無料で開放され、定期的にイベントがあり、地域文化や芸術や芸能が行われる場であり、市が立ち等価交換や贈与、互酬という「市場経済」でない経済活動が行える場であり、その宗派宗教に限らず多くの宗教や哲学や社会科学、そして百科全書の如くに、あらゆる先行知見を提供する営みが可能な場であることである。ただし、規模は小集団に規定され大量消費を行わない。
③真宗僧侶はそも在家僧であるから、サンガの活動は土日に限定されていい。即ち上記の理想のお寺の運営主体は、寺族ではなく門徒であるべきである。すなわち、真宗寺院は門徒の道場であるから、門徒がそこを利用して地域文化地域芸術地域経済を断仕上げ支え発展させていくのである。このとき住職や法人役員たちは、そのファシリテーター(活動支援者)である。
④僧侶は道場の管理人夫婦としての報酬と個々のファシリテーターとしての報酬を受ける。現行の「葬儀」「年回法要」「墓地管理」など「死者祭祀」は継続して行うが、それはパートの一部となっていくべきである。
⑤この場合、対象地域を巡回したりできるアクセスを有していればよいので、平日は近所で門徒に雇われてpart労働や社員をしていても差し支えないし、むしろ素晴らしいこととなる。
⑥お寺は、憩の場、出会いの場、学びの場、楽しみ(遊び)の場、として地域に根付いていく。
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お寺のくらし





