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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

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「救済」への不審感

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「竹取物語絵本」から「火鼠の皮衣」

若い頃から、先輩諸氏の真宗解説を読ませていただく度に、ノドに小骨が刺さるような感をもったのが、「弥陀の救済(きゅうさい)」という表現である。

直観的に「キリスト教っぽい」ということと、語感自体に明治維新以降の「文明開化」の風潮の中で、漢語や漢語からの造語で使われるようになった、翻訳語の匂いがしたので、胡散臭かったのだ。

そこで、後付としていくつか調べてみた。管見であるが、三部経には「救済」はないだろう。

親鸞さまの用語としては「権化の仁、斉しく苦悩の群萠を救済」であるが、これは「くさい」と読ませる。御本典「化身土巻」末の「魔王波旬星宿品」引用部分に、「汝、四種の衆生を救済すべし」とあるが、これも「くさい」であろう。

既に読経や読経者研究において、官制では繰りかえし「漢字の漢音読み」を正式とすると訓令されるが、一般庶民は民間で伝わった「呉音』読みを捨てなかったと考察されているから、「くさい」であろう。

つまり用例としては、「救済(きゅうさい)」はやはり近代以降の用語であると判断する。

では、次に課題となることは、この新しい表現と親鸞さまや元祖の理解等に、ズレがあるのかないのかである。

そこで字義に戻ってみよう。

「救済」の「救」は、「裘」かわごろも、からとった音と「攵=攴」という字義でできている文字で、攴は「手でうつ」という意であるから、皮衣を手元に引き寄せる、まとめるというのが字義である。ここから広げられて「手元に寄せてかくまうたすける」というイメージとなってきた。

一方、「済」は「濟」で、「齋」はでこぼこをなくすならすという意であるから、水量を偏りなくする意となる。

そうすると、「救済」は、「全ての人にお慈悲が偏りなく平等に与え、自らの御手許(浄土)へ寄せてたすける」というはたらきの姿を、阿弥陀さまにおいていただいているという意となる。

しかし、これは「偏り(不平等)を受けている=被差別意識や劣等感」「我が力で及ばない=無力感・絶望感」に苛まれる存在があるからこそ、「救済」を言い説く必然があるのであって、仏願の生起において、聞く人が「我が事」として聞いていくというイントロデュースがないまま、ひたすら「救済」を当たり前の如く使用ですれば、客観的事実としての「救済」を述べていることになってしまう。

教学的にはそれでもOKなのでだろうか?これこそが「ありがたやありがたやの押しつけ」と批判される根元になっていないだろうか?

「機の問題」や御本願のはたらき所を捨象して、普遍として「阿弥陀様の有り難さ」を説くところに、私の違和感の正体があったといえる。普遍ではない。普遍なら言わずとも法華一乗を軽視し自力修行を否定することになってしまう。

そうではなく、この時代のこんな私にこそという、愚にして粗な私が、落ちるしかない私だけが、おめあての仏道であるという構造の中でこそ語られるべき「救済」であろう。

あたかも自動的にそうなるように、保険のように、受け取っていく話じゃない、というところが私の違和感であり、どうしても「救済」を使うべきでないという答えである。

☆とある日にお説教したあと、若い僧侶から「先生、阿弥陀さまの救いとは何ですか?」と聞かれて、反射的に抱いた違和感から始まっ立論です。違和感をを抱えながら私は「南無阿弥陀仏」です、「お六字」ですね、とだけ辛うじて回答しましたが。ずっと「なぜそんなことを聞くのだろう」という疑問がぬぐえませんでした。どこかに「弥陀のすくい」というものがあるわけないじゃん!という感じでした。







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