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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

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『行信学報』で、堅田玄宥さんが 「伝道教学」という提示を、丁寧にしてくださっている。
 
私は教学の徒ではないので、堅田さんのような引証はないのだが。
 
僧侶として活動するとき、ずっと同一方向のことを実践してきたつもりである。もちろん、失敗も多くしていて後悔も多いけれど、「伝道」ということをここで少し書き置いておく。
 
自分もそうであったが、教学というと「書き物」と出会うことから始まる。テキストがあって、読んで解釈する。これを先生が解釈されたことを覚えたり、解釈の道筋(論理や証拠づけ)を教えてもらう。これが「学ぶ」ということだと、無批判に前提される。
 
ファースト・フードショップでの、店員としてのふるまいがコード化された「マニュアル」しかり。そのマニュアルの成立根拠が問われることがなくなるのである。(テキスト←コン・テキスト)
 
これらの「学習スタイルモデル」は、一人の先生が多数の生徒に講義する、という「学校」が作り出した。教室で教師の話を聞き、内容を批判せず受け入れることが、「自明」とされて、そこからの逸脱は許されない。

四書五経等、江戸期の武士町人の素養もまた、講義型であり「漢文訓読法」を教授されるものであったが、それらは、「家・階級の教育」や「個の希望」を前提としたものであり、強制的に全員をという制度ではない。 


イヴァン・イリイチによれば、「現代社会が学校化」しているという。


子どもの教育は学校で為され、学校での評価がそのまま社会で通用していくようになり、社会が学校化するというのである。


教育は遥か昔から行なわれてき、教育の成果が、社会・集団の中で評価されることはあった。腕の良い親方の下で修行した弟子を採用する、あるいは藩校で優秀な成績を収めて重用されるといったことがあり、社会の価値観に照らしてそれらは、有能だと判断されてきた。

したがって、学校教育での成績が良いことが、社会で評価されること自体には問題はない。しかし、他者が「将来役に立つかも知れない」という可能性で設定した、特定の知識や技能の「押し付け」が、だから正当化されるとするのは乱暴なことである。実質的・実用的な技能かどうかの検討抜きで、その教育の成果が社会で評価されることは、極めて不自然である。

そこで、教育課程や教育方法、あげくは教授法(先生の授業スタイルや教える技能)に問題を見出し、課題化する。

イリイチは、こういう学校教育の価値観は、それ自体を問うことなく、「学校教育のシステムを存続させるために、つまり、学校教育の権威を支え、学校教育の意義を創りだすために」自己増殖して存在していく、と見た。

こういう構造自体が「偏っている」という視点こそ、私たちが仏教、阿弥陀仏の願いから信知されれることであったろう。

真宗教学が、個人の要求や真実への探求心から構築されてきたことは事実である。しかし、それが地域学寮や各地域での伝道の現場、すなわち「法座」「法要」での、説教・唱導を通して、「語り事、聞き事」として伝道されていた時代と、それをカリキュラム化し「教えるもの」としたとき、教学が「学校化」されたといえる。近代社会で存在する以上、本願寺派もそれを免れえない。師と行動を共にすることで宗教的感化されることや、「声」の魅力や語りの力で芸能的感動を受けて、他者と交感していく場が成立して、教えを身体化する。そういった実は、宗教の本質的な「共感・讃仰」行動を起こさせる強い揺さ振りより、「論理」が優先されていく。

そして、それは(学校化した教学)は、自己増殖し権威化する。気がつけば、あるレベルの水準は維持されながらも、「記録」「書き物」と蓄積されて水準となり、多くの僧侶を規制ししばりつけていく。いつのころからだろうか、本堂のお聴聞で、メモをとる人が登場したのは。

(一方で、私のように何か違う、と感じて歴史の陰に向かったり、社会参加こそが「伝道」とする、いろいろなアクションがあり続けている。実はこれおこそが伝道組織としての「本願寺派」において、健全であることだと考える。)

さて、結果として見えてきたことは、学階や龍谷大学等の教育組織でカリキュラム化された「教学」を絶対視しヒエラルキーをつくり、結果として現れたのは、、既に1億1千万の大衆から、「興味」も「関心」も得る手立てが見えず、葬祭や墓守に終始して、辛うじて経営されていく寺院の姿である。法座をやめて、食べるために兼業するという真宗僧侶の姿である。

「自信教人信」としながら、社会生活と教えが乖離し、実態と教えが(「本音」と「建て前」のように分離していて、それを問題としないほど、感性がマヒしているため、門徒さんや一般大衆が辛うじて「教養」や「常識」のレベルでしか、「教え」と対応していないことが問えない。宗教は知識や教養ではなく「生き方」であるから、自己撞着してしまえば、形式だけが機能することとなる。

実態から導きだされる課題は、その辛うじて保たれている葬儀・墓守という習俗との接点から、真宗信心へ至る道筋を立てることが一つ。

そして仏教・真宗が人類を世界を支え救う教えであることを、自身の生き方(現生正定聚の喜び)を社会へ展開しつつ、社会の価値観を問い、自己を疑い、真実信心へと進んでいく道筋を明らかにして、入口かつ裾野としての真宗文化を構築していくことだと考える。

以下具体を考察していきたい。

  • 私に抱いていた「違和感」が、この学校化なのだと腑に落ちまさた^^;

    [ 竹光侍2008 ]

    2017/6/20(火) 午後 7:27

  • 顔アイコン

    > 竹光侍2008さん
    ちょっと文字落ちのまま投稿したので、手を入れました。

    nazuna

    2017/6/20(火) 午後 9:14

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