人類が地球に登場して以来、他の生物とか違い、死体処理ということが課題となった。
それは種の保存と繁栄の為に、経験値から導き出され特定集団(コミュニティ)の行動様式となって、今日に至る。
葬制・墓制は、一に自然現象としての「死の伝染」を防ぐためであり、かつ「死」をその集団がどう受けとめるのか(理解・解釈)の表現である。
法制度化した行動様式は、「火葬」にし「決められた土地に埋める」ということ。遺体を殺菌し腐敗をさせないことは、防疫と同時に遺体を損なわないことで、死者のイメージを保つ。
しかし、白骨となるのであるから、一方で「生命の物質化(モノ化)」を生み出す。
仏教は「生きる」教えであるから、そもそも「具体の死」には冷淡である。予兆としての「死」は十分に語るが、それは実体験の死ではなく、有限性の意味である。そして、生命が運動であるとして、それに方向を与える。
しかし、江戸の寺請制度を経て、具体の死に立ち会いかかわる文化を、我が国の仏教は生み出したのであるから、それからは自由にはなれない。つまり、制度化された葬制墓制の一部として機能するという社会的役割を果たしてきたし現在も(制度が消滅している以上はオプション化しているけれども)、機能することを期待されているのである。
葬制墓制の行動様式として、僧侶の参加が要請される、それはそういう文化が主流であることを意味する。だから、そこで機能することで、僧侶の存在価値をキープしようというのは、当たり前のことである。
そlして注意してほしいのは、江戸期以来そうして葬制墓制にかかわってきたことと、念仏相続や伝道とはそもそも直接的に関係していないということである。
「100回お墓詣りしたって、信心獲得はない」これは厳しい事実である。浄土へ往き易くして人無し、ということである。
ここからが大事なのだが、では、それらの機能を果たさず、墓制葬制から脱出することが、伝道を確立することになるのか、という問いである。
真宗はそもそも在家仏教であるのだから、答えは自ずから否である。ではどうするか?
先ほど述べた葬制墓制におけるもう一つの側面、「個別死」を否定して物質化するという行為、また、死者を巡るイメージの担保、これらをいったん受け入れて、矛盾に気がついてもらう。それが現場の一歩である。
お骨を拝む。お骨を修めたお墓を拝む、写真を拝む。位牌を拝む。
ここには阿弥陀仏への帰順はない。ないが「常落我浄」の四顛倒はある。
既に仏教へ傾斜し、生死無常を課題とされていた御開山、親鸞聖人には当然ながら「死」や滅びを他者事とする言説はほとんどない。また、情無常(愛別離苦)を説いた言葉も少ない。
しかし、現代葬制墓制文化からの入り口は、「客観的無常→情無常→生死無常」という展開であり、こここそをステップ化していく伝統法語や既成法語をこそ、紹介しといていくことから始めなくてはいけない。一般的な理解と解釈をふまえた上での展開である。その出発点は、例えば「天国へ行ったというけれど、それはどこでしょう?」と言う問いである。
浄土真宗ではなく仏教の話をする。無常を知らないところを出発地点として、私も死ぬのだというところへ一緒に歩いていく。常無常の転換である。
次に、四諦へと導き、「死」が異常で「生」が通常という邪見がひっくり返って、「死」が通常で生きていることが不思議というところへ導く。苦楽転換である。
「別れ」は必然であり、別れ方に問題を立てない。具体から予兆としての「死」、転換されれば「後生の一大事」へと視点が映っていくステップを考察していかねばならない。
そこで、予兆される「死」自体を課題とすることも視野に入ってくる。これは今回の考察からは外しておく。いわゆ臨床における伝道である。伝道しないことも「伝道」スタイル(前述した宗教的感化)であるから、別途考える。
そして、常楽を顛倒させることから自由でない私たちの根本である「煩悩成就」から、我を離れて無我に至るという筋道を仏道として、仏教を説いていく。
これらの前に「儀礼」があるから、スタートから「称名念仏」ははたらいている。僧侶が機能として読経していくことが、僧侶側で正行雑行分別し、五正行から助業と正定業を意識して、前三後一は全て「称名」につづまるとひたすら称え、称えることを儀礼として強制し声の共同体を現出させる。
さあ、こうしてやっと、浄土教へのゲートが開くのではないか。遺族には、ここまですぐという方もあろうし、数十年かかる人もあろうけれど、ゴールである「称名」は既に届きはたらいてあるのだから。疑蓋を指摘して砕かれていくことを共にできる、人間関係を構築していくために全てを方便すればいい。
こういうステップの教学を、大雑把だけれどカンで展開しているのが現状である。これから精緻に理論化できればいいなあという願望だけであるけれど。
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