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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

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8月

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(8月は逝った人をどうしても想ってしまうのです。そしてその言ノ葉を引き受けたいと…)


 河野裕子・短歌集 (住職選)

 

死ぬこと思わざる日は無くなりぬ 

死ぬ日のために体力温存


これからの日々をなつかしく生きゆかむ
去年せしやうにコスモスを蒔く


生きてゆく とことんまでを生き抜いて

それから先は君に任せる


一日に何度も笑ふ笑ひ声と

笑ひ顔を君に残すため


みほとけよ祈らせたまえあまりにも 

短きこの世をすぎゆくわれに


 八月十二日は、河野裕子さんの七度目の命日。一九六九年、京都女子大三回生(二十三歳)のとき、『夕闇の桜花の記憶と ( かさ )なりて はじ(初)めて聴(聞)きし君が(の)胸の音』-( )内が初期発表形、で角川短歌賞を受賞。以後、その身体性を通した短歌で大注目の歌人となった。生物学者で歌人の永田和宏さんと大恋愛の末、ご結婚。お二人とも宮中歌会の選者となるなど、日本を代表する歌人であられたが、二〇〇〇年九月、乳がんが見つかり手術。二〇〇八年に転移再発。以後、抗がん剤治療に苦しみながら、歌を作り続ける。


「手をのべしあなたとあなたに触れたきに 息が足りないこの世の息が」の絶唱が名高いが御子息の永田淳さんは、

「さみしくてあたたかかりきこの世にて 会い得しことを幸せと思ふ」

がいいとおっしゃる。

 私もまた同感である。めぐりめぐりめぐりあうを、如来さまは「宿縁」とお聞かせになるゆえに。

 旧暦の七月、八月は「おぼん」である。もともと仏教の行事ではなく、死者の記憶をリライトし礼を表す日本の「精霊会」がその起源。家筋を尊び儒教の「孝行」という考えがまざった、中国文化の仏教を輸入したためこれが先祖祭になってしまった。

 お念佛の教えは、これらの狭雑物を排して、仏法にたちかえりまっすぐに「いのち」を問われる。死に迫られ死に追い詰められてのジダバタを、率直に歌う河野さんのコトバの中に、「あなただの命をいっしょに生きてはたらいているよ」という阿弥陀さまのみ声が聞こえるのです。これらの歌に南無阿弥陀仏がいらっしゃる、真実の「私」に導かれて「今を生かされる生命の讃歌」がいま ( むね )にあふれ ( くち )におでましになられます。


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(著書から多くを学んだ前門様のお師匠、 中村元先生)


さて、「北伝仏教」から、仏像と荘厳を伴って「経典」を受け入れた倭国・大和朝廷である。

従って、天竺・震旦間での文化と言語体系の差異には、当然ながら鈍感であった。

さらには、仏教の発祥地である北部インドや、仏教教団がどういう歴史を辿ったかについても、遅れて知ることになる。

インドでは周知のとおり、インドゥ→シンドゥ→ヒンドゥ、という地域宗教が支配的であり、「仏教徒」は人口の1%にみたない。

袈裟(カシャーヤ)=褐色・赤黄色、遺体を包んだ布をまとい、殺生を制限して食を生存にかかわる分に抑え、法を拠り所として真実の自己を生きる、という仏法。

ESDであり、法の下の平等をいいジェンダー差別からフリーになる方向を提示し、行動主義である仏法悟法の道は、おそらく生産関係や経済構造の激変期において、われわれ真宗者がいう「安心(あんじん)」、煩悩の囚われからの解放、を最大の魅力として一世を風靡したと推測する。

しかし、経済構造が固定しその社会における経済配分が主たる政治課題となる社会では、より多くより強くというベクトルを基調としながら、より少なくより弱くという「社会的弱者」を生み出し固定化し合理化する。

「競争」と「平等」はフーコーがいうよう、その時代の利益配分を前提にくりかえし、言説化されて流布する。ここで重要なのは、既にその構造の中の「平等」をいうことに我々が無自覚であることである。

釈尊が悟り説かれた「人間主義」は、それを最大の拠り所とする「平等」である。他はそれに従うのである。

法蔵因位の18願「設我得仏〜 若不生者不取正覚」に信順する当流は、当然ながら歴史と時空を超えて、「釈尊のサトリ」が仏法であり、それを生きるのが、「釈」の名乗りをするものであるという地点から、外れてはならぬというベクトルである。社会構造と調和するか遊離するかは、社会の側の問題である。法は法である。我々の個の在り方が、「罪悪深重」「煩悩成就」と信知せらるるとは、変わるべきは我々であるということである。

さて、再び問う。釈の名乗りの上で、女性性を記述する「尼」号を誰が必要としているのか。必要である、という方はぜひその論拠を示していただきたい。


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仏光寺・絵系図 既に「尼〇〇」の表記が見える。本願寺三代覚如長男、存覚のかかわりが明らかなものである)

中世研究が進んで、古代から女性が相続権を有していたことが明らかになっている。

例えば仏光寺派では、九代を7代の了源上人の御連れ合いの了明尼が継がれている。在家仏教としての真宗に於いては当然であるが、歴代に女性住職が存在しない宗派も多い。仏光寺・興正寺においても江戸期にはこれが覆い隠されてしまう。

仏教が神仏習合で支配思想になるにつれて、邪淫戒が意識される。次に、存覚上人の「女人往生聞書」から考察しうる「五障説」の浸透、大乗仏教として輸入された「女性差別思想」が「触穢思想」からジェンダー化し、やがて家父長制が成立してくる南北朝期に、竜樹が既に説いたとされる三従説(中国古代にもある説ー『大戴礼記(だたいらいき)』本命篇に「家に在りては父に従い、人に適ぎては夫に従い、夫死しては子に従う」がセットされて、ヒンズー由来といわれるインドの「五障三従」説が強化された定説として、社会へ浸透してくると、従来の歴史学はいう。

しかし、これを丁寧に考察している史料や論文は未だ少なく、定説化されているとは言い難い。

そこで次に戒(法)名を調べて見ると、以下の例がうかぶ

安養院殿如実妙観大禅定(院殿号・道号・戒名・位号)北条政子
妙善坊慶山常眞(坊号・道号・戒名)日野富子
融誓→慶壽院(釈)鎮永(院号・法名)本願寺10世・證如母


北条政子は13世紀。日野富子は15世紀。そして慶壽院は16世紀の女性。それぞれに戒(法)名は、「妙観」「常真」「鎮永」で原則通りの名乗りである。ジェンダーは成立していないことがわかる。
 
もちろん程度の差があり便宜的であったり、不十分な論理だてかもしれないが、法然上人の遊女教化の伝説にあるよう、僧侶・仏教者は大乗経典における「女性差別」を意識しながらも、法においては男女平等を求め続けていたと理解される。
 
これらの程度を同時代の社会例と照らし合わせつつの解読は、私の手に余るが、やはり、江戸期の檀家制度において、在家仏教を標し社会からも「穢き宗旨」「危険な宗門」と視られる、真宗こそが、「かわた差別」のみならず、ジェンダー差別を最も現象化し易かったといえるのではないか。



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(玄奘三蔵→道昭→行基という師弟関係)

では古代の日本ではどうだろう。

北伝仏教は朝鮮半島の高句麗・新羅・百済と伝播して、6世紀に日本へ伝来する。
既におわかりのように、これは仏像を礼拝する仏教である。大蔵経が一時に輸入されたわけではない。以前指摘したように、古神道は「崇める」行為そのものが帰依の実態であるから、トツクニの異形の神〈仏像)をお祭りして礼拝することが大問題となる。聖徳太子の時代である。

このとき高句麗僧から授戒して出家したのは、「善信」「恵善」「禅蔵」jの尼僧であった。これを「戒名」と見るのは妥当である。戒師いついて授戒し、得度して法(戒)名を名乗る。

では在家者はどうであろう。東大寺大仏造営における行基に戒を受けたのが、聖武天皇・光明皇后らである。授けられた戒は「瑜伽戒」と推測されるが、ここに法(戒)名が授けられて「勝満」「万福」とあり、女性の法(戒)名にわざわざ尼を入れていない。

このあと鑑真が来日して、戒壇を設けて、正式な戒律を僧侶に授けることとなる。そこで焦点は、在家信者への戒名・法名の授与へと移る(続)



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北魏・386‐534 は、中国仏教のエポックであった。日本の仏像に北魏形式が多いことは知られる)

大乗仏教は、戒律を形成して小集団を維持し、そこで独自の仏教解釈を主張し合って大衆への教化をおきざりにしいている仏教教団への批判として形成された。

釈尊の入滅から500年たった頃のことであった。実在の釈迦を帰依の対象とする有様から、在家信者が拠り所とした仏塔(ストゥーパ)信仰から永遠のブッダ(法身仏)という観念が育ち、やがて菩提薩多という概念を提出する。

これは大変おもしろいことである。釈尊のお墓が在家信者の拠り所となりそこに集まる大衆に、釈尊の事績を「物語」として語り、さらにはその前世譚が形成されて、仏陀が菩提薩多と現実世界に現れて、大衆を導き大衆と共に「サトリ」に至るというベクトルのある仏教運動が語られていく。現在の真宗の原型であろう。

こうして、釈尊伝や弟子伝から新たに語られ紡がれたテキストが、大乗経典となり、中央アジアへと伝播することで、ガンダーラ仏教美術が誕生する。

仏舎利塔にかわって、永遠のブッダを形象する「仏像」が礼拝の対象となり、それらを岸壁に彫刻しその石窟が、サンガの集会場所となっていく。

この形式は、美術表現と音声表現(読経・唱導)を伴う一大スペクタクルとして、シルクロード北路を経由して、亀茲国(クチャ)から遊牧民族の手で五胡十六国といわれる河北へ入る。そして北魏で花が咲くのである。

さて、この新しい仏教を伝来させたのが、亀茲国出身の仏図澄(ブッドチンガ)であり鳩摩羅什(クマラジーバ)である。北伝仏教といわれる由縁である。

この
仏図澄の弟子が釋道安である。今日僧侶が「釋〇〇」と名乗る法名の創始者である。彼はまた、鳩摩羅什を中国へ将来して人である。この道安の弟子が、廬山の慧遠であり、師の弥勒信仰を発展させて、般舟三昧経に依る阿弥陀仏信仰に基づき「白蓮社」を結成して、念佛(字義どおりの座禅観想)を実践した人である。

これが拡大して、出家者は「釋〇〇」と名乗ることとなった。では女性はどうであったろうか。或いは在家信者はどうであったろうか?

不勉強でデータが十分でないのだが、時代が下って唐代の在家女性信者の法名については、墓誌という史料がある。

趙振華・『洛陽古代銘刻文献研究』(三秦出版社 二〇〇九年)
第五編「唐代墓誌経幢研究之─宗教階級篇」一「洛陽新出比丘尼墓誌与唐代東都聖善寺」より


會如墓誌
「1    大唐故韓氏劉夫人墓誌銘幷序
 2 夫人彭城劉氏、法名會如、號金剛山、宗釋典也。(略)」

とあり、この史料から、戒・定・慧といわれる中国仏教から尼僧戒を受けた、「韓氏劉夫人」の法名が「釋會(会)如」であったことがわかる。つまり、出家グループにおいては「持戒」のためには、男女の区別が必要であるから、僧・尼と区別して呼ぶが、法の上からは男女区別がなかったことがわかるのである。

仏法を前提にしたとき、7〜8世紀の時点の中国では、女子側にのみ区別の責任を負わせる(符号を女性側にのみ付与することで区別する)ことはなかったといえよう(続)。



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