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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

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2月

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Seven Daffodils  Lee・Hays


I may not have mansion, I haven't any land
Not even a paper dollar to crinkle in my hands
But I can show you morning on a thousand hills
And kiss you and give you seven daffodils

I do not have a fortune to buy you pretty things
But I can weave you moonbeams for necklaces and rings
And I can show you morning on a thousand hills
And kiss you and give you seven daffodils

Oh seven golden daffodils all shining in the sun
To light our way to evening when our day is done
And I will give music and a crust of bread
And a pillow of piny boughs to rest your head
A pillow of piny boughs to rest your head


「七つの水仙」 作・リー・ヘイズ 蕚慶典・意訳 
 
                   僕にはマンションも土地もない。
                   皺だらけの一ドル札一枚さえ無い。
                   けれど、千の丘での朝を君に見せて。
                   キスと七つの水仙の花をあげるよ。
 
                   僕にはステキなものを買える財産は一つも無い。
                   けれど、指輪やネックレスを作るために月の光を紡ぐよ。
                   そして、千の丘での朝を君に見せて。
                   キスと七つの水仙の花をあげるよ。
 
                   ああ、七つの黄水仙が太陽に輝いている。
                   日が沈んだあとも僕らの夜道を照らすために
                   君に音楽と一かけらのパンをあげよう
                   そして、松の枝で編んだ枕をあげよう。
                   そこで君の頭を休めるために。

 ギターを手に歌い出したのは、中学二年生の冬。同居していた従姉が大学でサークルに入り、歌い始めたからです。アメ民、アメリカ民謡研究会などというサークル。今なら、「軽音」でしょうね。つまりはフォークソング。 従姉はP.P.Mのコピーバンドで、vocal担当。ラジオに出たりコンサートをしたりでずいぶん影響を受けました。私もやがて同級生とバンドを組み、最初に歌った曲が、この「七つの水仙」。ブラザース・フォー版でした。
 そのころはお寺の前庭にも、水仙が植わっており、こどものころに、最初に名前を覚えた花でした。水仙は書いて字のとおり、水辺の仙人。ギリシア神話でも「ナルシス」のまれかわりとされ、少し首をかしげた人に見たてられるのです。
 リー・ヘイズの詞は、幸せとは何かをもつことではなく、共に朝を迎え、あるものを分かち合うことでいいのだと教えます。水仙はギリシア神話では恋愛から逃げたナルシスが自死し水仙となる。つまり、水仙はエロスからタナトスへと引き込まれたものの象徴とも言えます。ならば、リー・ヘイズは、反対にその水仙をこの詞では、エロスの方へと引き戻しているともいえるのでしょう。浄土教は浄土を説き、そこへの往生一定を説きます。ですから、タナトスの流れで理解されることが多い。しかし親鸞さまはそれを「現生之正定聚」と切り返さて、今ここの命の讃嘆に収斂されました。信心歓喜とはタナトスの果て。しかし一念慶喜はエロスです。
 阿弥陀様は、究極の苦である「死」を「至福」に変換されて、その心を受けるものと共に生きて下さる。外から何かを持ってくるのではなく、今既にあるものが喜びに変じる。それを共に味わう。南無阿弥陀仏と称えると、「いつでもどこでもいっしょだよ」「喜びも悲しみも共に分かち合うブッダだよ」「安らぐ場所と心をあたえるよ」と、エロスとタナトスの総合唱が聞こえてくるのです。


今月の行事
2月12日(木)午後2時〜 新説親鸞聖人伝1「桜花の喩え」
2月28日(土)午後2時〜 新説親鸞聖人伝2「磯長の夢告」
       ★いづれも、DVD録画取りがあります。ご協力ください。
お朝事 7日、14日、21日、28日 午前7時半〜8時半

2014年コミックス・自己ベストです。コミックスの世界がすごく哲学していて、陳腐な道徳を説くオヤジたちを遥かに凌駕しています。おすすめ!

イメージ 1①『聲の形』 大今良時 7巻・完結

やや尻切れトンボ的であるけれども、今まで描ききれなかった世界をコミックスとして成立させた、その踏込に衝撃を受けた。
石田の内言と対照的に話せない西宮を外からのみ描くことで、「異化」された障害者が現れて、リアルさが生まれた。また西宮の内側を、少しズレを作って代弁する西宮家の面々のパフォーマンスもリアルであった。内部と外部を通じさせていく仕組みに、映画撮影をもってきたのも秀逸であったと思われます。新しい今の作品。イチオシです。



イメージ 2②『いぬやしき』奥浩哉 2巻まで。 

圧倒的な画力による、『寄生獣」の深化版になりそうな作品。エグさも十分。でも戦慄の中で善悪を相対化していく視点や力の支配の意味などが象徴的に描かれていきそうな予感が。エンターテインメントとしても、「なんなん???」と疑問符がいっぱいの現在です。






イメージ 3③『海月と私』麻生みこと 3巻まで

これまた絵が好きな作家さんです。説明的ではないくスケッチ風なのも好みです。ただ、ずーっとエピソードを読み重ねると、海の匂いと少しのエロスがほどよく配分されて、大人向きカクテルのような感じがします。何とも言い難いのですが、単純に好きです。








イメージ 4④『死にたがりと雲雀』山中ヒコ 2巻まで

またまた絵が好きです。1巻の表紙絵に、孫が生まれた心情が感応したのかもしれません。うさぎドロップのダイキチとりんとの始まりを時代劇にしたような、二番煎じかもしれません。けれども、なんだろう。コマ間にもすごい緊張感があるんですね。朽木さんの持っている何かが切羽ヅマッテいる感があって。なんだか目が離せない。こちらが老いたのか、朽木さんにも雲雀にも、胸が詰まるんです。




イメージ 5⑤『でぶせん』安童夕馬作・朝基まさし画 1巻まで
あの『サイコメトラーEIJI』のコンビで、スピンオフ的に福島満が主人公となった学園もの。端的に(笑)でした。いやあばかばかしくて面白い。それだけですが、コスプレーヤーみっちゃんが、女性教師になって教壇に立つという設定でわくわくします。まあ、もともとの「マガジン」好きの延長かもしれません。







番外『あれよ星屑』山田参助 2巻まで
戦後の空気感が描かれた作品で大注目ですが、今後の展開を待ってということもありますので番外。

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2015年 1月

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去年 金子みすゞ


舟、みたみた、

お正月、元日、

旗も立てずに黒い帆あげて、

ここの港を出てゆく舟を。


お舟、あの舟、

乘つてるものは、

けふの初日に追ひ立てられた、

ふるい去年か、去年か、さうか。

 

お舟、ゆくゆく、

あのゆく先に、

去年のあがる港があるか、

去年を待つて、たあれか居るか。

 

去年、みたみた、

お正月、元日、

黒い帆かけたお舟に乘つて、

西へ西へと逃げてく影を。


 新春合掌。明けまして南無阿弥陀仏。住職もとうとう還暦を迎えます。小さい頃に想像していた六〇歳と、実感がずいぶん違いますね。思いはずっと三〇代の感じです()が、身体は正直で、いろいろと老いを認めざるを得ない状態になってきています。本年五〇回忌を勤めます、祖父・十五世住職、了諦法師が六十四歳の往生ですから、リアルに「死」を想うようにもなりました。毎日の日暮しの中で、必要なことはやっておく。そういう気持ちの新年です。 みすゞが描いてくれたように、いつもの一日ながら、初日の出とともに昨日は「去年」になる。私たちの関心が新年へと向かっているうちに、その「去年」は人知れずに旅立っていきます。それは捨てられ忘れ去られていくのでしょうか。いえ、嬉しいことに静かに西へ西へとすすみ、帰るべき世界に向かっているというのです。それがアミダさまのおはたらき。「あがる港」でまちきれずに、ここにおこしの名号です。

12月

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    赤い木の実    竹久夢二

              雪のふる日に小兎は

                  あかい木の実がたべたさに

                  親のねたまに山をいで

                  城の門まできはきたが

            あかい木の実はみえもせず

                  路はわからず日はくれる

                  ながい廊下の窓のした

                  なにやら赤いものがあ

                  そつとしのむできてみれば

                  二の姫君のかんざしの

                  珊瑚の珠のはづかしく

                  たべてよいやらわるいやら

                  兎はかなしくなりました。


ナンテンの実。お寺の庭でも、夢二のいうようにまるで宝石のように輝きます。ナンテンは、葉も実も薬になります。彩だけではなく実用的でもあるのですね。「南天」と漢字で書くと、噺家の「桂南天(初代)」が思いだされます。本堂での落語会や、子どもたち相手の影絵芝居に紙切、余興の踊り。多芸博識の人でしたが、千本通りに引っ越されて壽光寺との縁が薄れました。人間国宝の桂米朝師がその晩年のお世話をやかれて、昭和四十七(一九七二)年の葬儀には、アチャコさんやら著名の芸人さんが集合して、にぎにぎしく玉出の光福寺で行われました。

 それから、四〇年すぎて、住職は高座で、「落語」のルーツである「節談説教」を本分としていそしんでいます。これもまた不思議の御縁、「遠く宿縁を慶べ」といただくことであります。南無阿弥陀仏。

 


11月30日の研究会に、若手メンバーが参加することがわかったので、基本スタンスを示す文章を、2010年に機関紙に掲載したものから、増補修正簡略化してまとめたものあである。御参考までに。
なお、メンバーから「節談説教」者が差別者の如き扱いや、「節談説教」そのものが問題視なされる、という報告もあり、それに対する説明としても、役立つであろうかと思うので掲載しておく。


「節談説教」の再構成とは―現代布教として(加筆増補版)   

①「節談説教」は、『説教の歴史的研究』その他にて、関山和夫氏により命名された。それを代名詞として使用する。実際は高座による譬喩因縁説教である。

②小沢昭一氏の「日本の放浪芸(語り芸)」の収集活動により音源化されて、芸能的に認知された。これ以降、随行修行者でありかつ、現役としての力を誇る、名古屋の祖父江省念師と、能登節の茂利宗玄師や広陵兼純師などが音源化され、真宗僧侶にも注目された。

③けれども、この真宗伝統の説教は、地域によってはなお盛んであったが、全体としては次世代への継承がなされず激減した。

④今日、研究会に集う仲間の僧侶たちの多くは、世間一般と同様に、レコードやテープにCD、そしてDVDという「記録媒体」で、この「説教」を知る。故に、研究会ができるまではそれら音源をそのままコピーすること、説教記録を丸ごと暗記して実演するのが基本であるという観念がある。

⑤これは、説教者以外の僧侶にも通じる理解である。そして、「そんな古いものを今さらひっぱりだしコピーする意味は何か」「江戸教学や戦時教学の問題をどう考えているのか」「人権感覚の鈍感なものの集まりではないか」等々という批判が生まれる。それは間違っているのかいないのか。

⑥先師の説教の丸暗記だから「古いものをひっぱりだして」というのは妥当である。随行修行という伝統的な師資相伝のスタイルはそうである。しかし、経典は説教記録。また、先師の著書もまた講義録や説教記録から生成したものがある。つまり、先達の言葉を丸ママ受け取ることそのものを問題にするなら、仏教そのものが成立しなくなる。

⑦そうすると、丸暗記が問題ではなくて、そうする価値や意味を問われていることになる。

その第一義が「説教の構成」法を学ぶということである。

⑧説教は「五段法」で構成されるのが基本。讃題、法説、譬喩、因縁、結勧、の五部分である。また、讃題→説法(法説・譬喩・因縁)→結勧と、三部分に分けてみると、これは序分・正宗分・流通分、という経典の構成と同じであることがわかる。つまり伝統説教の構成を実地の聴聞を通じて学び(自身が説教者たることを前提として)、自分でその構成法で台本を書き、実際に語るという、ローテーションは、真宗の根本である「自信教人信」の実際化といえるのである。

⑨次に「江戸教学や戦時教学の問題をどう考えているのか」「人権感覚の鈍感なものの集まりではないか」という批判である。これは「話の成立」が聞き手との関係性に依存することから起きる問題を指摘している。どういうことか。

⑩現存する多くの説教本(聞書や覚書)は、讃題について複数席、多い時は百席談となっている。現代でも二席一座。報恩講や永代経などでは、三日間五日間はざらであった。そうすると、一席一席がきちんと五段法にならない。各席で譬喩や引用文が重複したり、二席で五段法になったり。

⑪いうまでもなく法座はライブ。その時の会場や聴聞衆によって変化する。年齢性別、人数、聴聞経験、そして地域性などなど。実際の布教では現場の条件に合わせることが求められる。「随行修業」はそれをも教えたのである。目の前の同行との共同作業で「話」を成立させるには、聴聞衆の常識や先行経験に依る必要がある。そこで、既存の社会の価値観が持ち込まれる。「説教の譬喩・因縁、セリ弁に、和歌や俳句に俗謡や音頭、落語に講談や浪花節、歌舞伎・浄瑠璃の物語までが取りこまれる。一旦は「俗情と結託」する。それは最大の魅力(長所)であるが、欠点ともなる。ある時代の人々の価値観や感情を前提にするということは、時代や社会が変われば通用しなくなるということだから。また、人々の生活感覚や常識が変化し、有る時代の価値観が否定されれば、テキストとして残った音源や文章には、「今」に通じない表現が残ることになる。それだけでなく批判にあるように、「お慈悲をいただく邪魔」になったり「誤った仏教理解や社会観を生む」ことにもなる。

 『法華経』には「ハンセン病者は法華経を謗った報い」という思想が表現されてある。お経も説教記録であり第三者の手によって成立した仏説であるから、ハンセン病を特別な病と見るインド社会の価値観を前提として説教されたのであろう。この教説はもともと「仏教への帰依」「釈尊への帰依」を促すために用いられた戒めの譬喩であったろう。だが、ハンセン病が軽度の伝染病であり治癒可能な病気である今、この法華経の説は錯誤であるだけでなく「ハンセン病者は仏罰」にて救済不能と、差別を認めを広める教説になってしまう。

 真宗の法話説教でもよく取り上げられる一休禅師であるが、先輩の養叟を「河原者に禅を教えた」と誹り「穢多禅」と誹り、あげくのはてに「養叟が癩病になったのはその報い」と決め付けていることをご存じであろうか。また、毛皮をまとったものが寺の門をくぐろうとしてそれを押しとどめるのに、「お寺では革をまとったものは打つ(太鼓の譬喩)」と叩いて追い返したというエピソードは、子どもむけの「一休さん」にも紹介される。

 一休さんは賢い、面白い僧侶であるという枠には収まらない事実があるわけで、これらを批判できなければ「猟・すなどり」する者は仏教の救済外、社会から差別されて当然、という意識を助長はしても『撃つ』ことにはならない。

⑫以上をまとめると、

       Ⅰ.伝統説教を学ぶ価値はある。特に説教構成法としての五段法。

       Ⅱ.先師の完全コピーをすることは、学びとしての価値はある。しか

     し、それを自分の話として現代にそのまま実践してはならない。

      Ⅲ.時代と聴衆との共有として物語を語るのであれば、その表現は常に「上書き」されることが必然である。そうでないと偏見や差別を生むことになり、如来のお慈悲を傷つける。

以上からも、「聞き・書き・語れ」という伝統的な口伝の正確性がわかる。台本はやはり、自分で書かなくてはならないのである。

⑬さて、オリジナルの音源やライブの説教そのものには限りがある。しかし、台本(聞書きや覚え書き)やテキストの形で残っているものは多い。そこで、今後「節談説教」を豊かに発展させるには二方向が考えられる。

 一つは、手法の現代化である。五段法を学んだ上で、現代の芸能化を行う。楽器の弾き語り、既存の芸能(落語・講談・浪曲・謡曲・詩吟からラップやJ―POP等)のとりこみ、

 もう一つは沢山ある古典のテキストを生かす作業、再構成して現代化する作業である。これらの方向を見据えて研究・実践を続けていくことを提起しておきたい。

 

 

 

 

 


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