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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

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(武藤コレクションになかった、『結辧百集』妙弁文庫第八・江峯菴主人 以下の引用とは無関係)

説教本を読んでみると、「これは明らかに差別だなあ」と思う表現や、聴衆が「阿弥陀さまのお慈悲、ご本願をいただく邪魔をしている」と思われる表現がある。問題になるのは譬喩の部分と因縁話の部分、そして結勧・結弁といわれる最後の七五調やセリ弁に表れる。


そこには、今日われわれが誤れる業論と総括した「親の因果が子に報い」「現在の苦悩は宿命である」などの理解がうかがえる。業縁というように、刺激と反応が現象で、それはもともと反応すべきタネが用意されてあるというのが業論である。


差別されるのも業のせい。病気で苦しむのも業のせいだから仕方が無いといったリクツ。こうして、たとえば、「障害者が社会から差別されてもしかたがない。」「女性が社会的な権利がなくても仕方が無い」「部落とは付き合わないと言われても仕方が無い」と全て、苦悩の原因を苦を受ける側に問題をおしつけるという誤りが「説法」によって温存されあるいは広まるということさえ起きた。


例をあげよう。法華経には「ハンセン病者は法華経を謗った報い」という思想が見られる。アンチ仏教は現世でその報いを受けるというリクツは本来、仏教への帰依を勧めるために説かれたのであろう。しかし、これはやっぱり紙一重。また、インド社会の価値観でもあろう。

五逆十悪のものが、輪廻して地獄におちるのは地獄という世界へ生まれる意味だけではなく、人間に生まれてきても差別され疎まれて苦しむ「地獄」を生きることになるとする。宿れる業、「宿業」によって現在の境遇が決まる。ならば、もしももしも彼らが仏教に帰依すればどうするのか。一遍上人絵伝には、一遍さまに帰依する癩者が描かれる。社会は彼らを極楽行きの正定聚として扱ったか?

否である。唯一、律宗を除いて、天台も禅も彼らを人間扱いしていない。一休禅師が先輩の養叟が「河原者に禅を教えた」と誹り、「穢多禅」と誹り、あげくのはてに「養叟が癩病になったのはその報い」だとおっしゃたことは記録に残っている。

仏教への帰依という前向きのススメが、後ろ向きに使われて排除の論理に転嫁しているのだ。帰依は常に焦燥感を生み、安穏は得られない。

縁とは自然社会の動きを主体的主観的な表現である。したがって業縁とは自己を語る際の用語であったろう。ブッダは絶対客観であるから他者を語っていいのであるが、われわれ真宗僧侶のような凡夫は、他者にあてはめてはならんのだが。

業縁というのは本来は関係性で人間をとらえるというダイナミズムである。歴史性(類としての人)と共時性(社会的分業)はそこでは自明の関係性である。だから、全てを個人に帰する宿業論は誤るのである。仏教は利他の教えであるから、本質的に共に生きる人(キリスト教でいう隣人)は想定されているんだよ。法を聞き生かされるものという、共遇を生きる意識があればこそ教団が成立したんだから。

しかし、仏教はそれを前提にしつつも社会や国家というこだわり(縛め)を解体していく。極めて自立する個を育て集団に埋没させない。「苦のもとが無明煩悩にある」ことは真理であるからといって、類存在は絶対前提であって捨象しては現実のよりどころから遊離する。観念の遊びになるよ。我々は今ここで時間と空間に縛られているのであるから。

だからこそ、無明煩悩とそこからの脱出・救済の具体は個別の立ち現われ方をする。さまざまだ。さまざまであるが共通である。個々のパフォーマンスと苦悩はしかしそれをみんながもっていて一定の量で個人に影響する動きを生みだす。この「共業」は凡夫であっても、客観的に語れる。


こういう立場で真宗をいただいていることを言いたかったのであるが、ちょっと難解な議論になった。あともどり。そこで、明治期の著名な僧侶の説教とその書き直しの例で考えてみる。なお、これは「差別・被差別を超えていく道筋を志向している」立場での引用であるから、原典を要約して掲載する。さらに、コピー転載は禁じる。


まず、屠牛所で牛を殺すには…と屠殺の方法を述べる。そこへ牛を連れていくには草を食わし荷物もたさぬから勇んでいくと。『いかに畜生なればとて、一足一足に消え行く命ともエエ知らず、ウカウカ行くとは哀れなものではないか。各々方わかるか。信なくてまぎれ廻ると、日々に地獄が近くなるとの御意見じゃぞ。かかる御教化を聞きながら、驚く心の起こらぬとは、畜生にも劣り果てたることではあるまいか…。』と譬える。


このあと、善光寺の牛王丸という牛は、と場から別院へ逃げ込んだのがご縁になって信濃の善光寺に飼われていると述べて、地獄から極楽へという比喩にしている。さらに、屠場=地獄という暗喩になっているのがおわかりであろうか。このとき聴衆の側は煩悩具足であるから自己中心的な価値観を既にもっていると見なければならぬ。屠場が地獄の比喩になるならそこで働く労働者はどう映るか?地獄の鬼に類推されないか。

そうすれば「部落の人はこわい」「殺生する人たちだからけがれている」「だから部落には犯罪者が多い」という、思い込みや偏見がこの説教では助長されることは間違いない。肉食だって幕末期には既におこなわれていたし、「日本人は肉食しない」というのは表面論理であるから、「知らなくて差別したのだから仕方が無い」とは言えないのだ。


精肉はおいておくにしても、牛骨から有効な肥料ができあるいは日本画の画材あるいは墨の原料となるニカワができている。また皮製品は雪駄・綱貫もふくめて庶民にも使用されていたし、武具馬具には必需であった。こういう事実はある程度知られていたから関連を示せば、この牛を殺しているのは「部落の人」ではなく、それを必要とする社会だと視える。そしてそれは結局、「この私が殺している」ことであることになるのだよ。


阿弥陀さまは、「よく衆生をしろしめして」おいでになった如来さま。私の無明を承知されたがゆえに私の命を共に生きられて仏に育てられる。ならば、阿弥陀さまのお慈悲を聞き語るものは、阿弥陀さまにはかなわないが同様によく衆生のありさまを学ばねばならぬ。中でも墨は寺院僧侶に不可欠なものであるから、墨を使うということは牛を殺すということである、というのはいつの時代でも気づけることではなかろうか。


だから、もしもこの話を現代で高座にかけるのであるならば、それは自らの悪業に目ざめる譬えでなくではならん。初めは同じ話では入ったとしても、向きが違うのである。例えばこう改作してみよう。

昔は牛をさばきますのに、牛においしいものを食わせつつ、と場に向かったと申します。そうしますと牛は目先のおいしいものに釣られて自ら死地におもむくということです。

こう聞きますと「なんと哀れやなあ」と思います。また、昨今のペットブームで家畜というよりも愛玩動物というとらえかたがあちこちで喧伝されますからな。「いやあ、牛さん可哀想ね!」となります。ほんでもって「あんな円らな目をした牛さんを殺すなんて残酷!」となりませんかいな。

ところがそういう口が「やっぱオージービーフより松阪牛に限るね」ぱくぱく。と、食う側に回ってる。己がおいしいおいしいと食う側に回っといて、精肉して下さる御苦労を見ないで「いや!怖い」「残酷」と責任を全部人におしつける。うちの娘は日本画ですから、絵具の顔料としてニカワを使います。お寺ですから墨もふんだんに使います。これみんな牛の骨からとりますね。『一頭の牛には無駄にするところは1つもない。いや、同じさばくのであるならば、ムダの無いように使うてやるんが本当や』と、と場見学に参ってお聞かせいただいたことです。

みなさんこれは牛の話ではありませんな。我々ご互いも美味しいもの楽しいことと欲を刺激されましてそれを求めているうちにあっというまに終わる。そりゃあ己の責任です。けれどもいざとなると我々は人のせいにする。己が殺生を命じていながら責任は現場の人に転嫁する。その上になお差別までする。本来引き受けるべき自らの悪業煩悩を見ずに私は清らかでございます、何の問題もありませんとやる。だから、仏さまのお慈悲に背を向けるのです。

どんなお前であったとて落としはせんぞのおまことが、とどいた姿が真実信心。そのみ光に照らされて、気づく己の根性は、「浄土真宗に帰すれども 真実の心は有難し 虚仮不実の我が身にて 清浄の心は さらになし」とのご開山のお示し。何より酷く恐ろしいものは、よそではないぞここにある、嗚呼お恥ずかしいと目覚めたら、誰も彼もが仏の子じゃという如来の仰せにしたごうて、人を差別する己の業を懺悔懺悔に日が暮れて、いただき上げての南無阿弥陀仏。梵我一体、彼我一体。互いに同行同朋や、おそかれはやかれやがて浄土で仏となる、互いを仏子と敬いて、念仏すれば安穏なる、世界が知らず知らずにできあがる。さてもトウトヤ南無阿弥陀仏。


うまくいっていないかもしれんから、ご批評は受ける。最後の部分が結勧である。

これは一例であるが、真宗説教では障害者差別・女性差別も深刻である。性役割分業というまでもなく、「五障三従の女人」と規定しきっている問題がある。また、「盲」「聾」「唖」を、無明の喩えにふんだんに使う。日本の経典は中国のフィルターをくぐりさらにはインド社会の思想が入っている。

もとは説教記録であるから、外典といわれるものや「輪廻説」や「中陰説」のようなインド社会の一般思想を前提にして、それを超えていく道をとく。だから 仏説を経典化していくときにさまざまな流行思想も組み込まれる。

だから、後世のものがどれが原初の仏説であったのかを判定することは極めて難しくなる。なので、伝承をそのままいただくとするのは、1つの弟子としての態度であろう。けれども、無批判にそのまま「五障三従の女人」とフレーズ化して説くのは、釈尊や元祖や宗祖の御心にかなうであろうか。如何なものか。


親鸞さまは師・法然さまを尊敬し、「親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」とよきひとの仰を被りて信ずるほかに別の子細なきなり」という態度を生涯とられた。がしかし、親鸞さまの著作にみられるお領解は、法然さまとは違う世界まで踏み込んでおられることも事実である。

「節談説教」の台本は、古典の姿をとっても擬古典であり、現代法話であるのだ。テープを聞いて丸暗記というのは、あくまでもその内容と表現によっての是非がある。説教の機微や表現を学ぶのにコピーして真似るというのは、どんな世界でも必要な修行である。だがしかし、それをそのまま他人に公開することとは一線を画しているのも事実である。そのときの聞き手を考えて肉薄するというのはキワドイ仕事である。綺麗な論理だけでは人の心は動かない。「五障三従の女人」という父権的な価値観にどっぷりつかっていて無意識な凡夫たちには、「五障三従の女人」も仏となる、「〜〜」こそ間違いなく仏となる、と論理を聴衆と共に深化させたからこそ、そのフレーズは残った。無量寿経の三十五願、御文章等々に。

これは場の論理である。語り手と聴衆と場によって、辛うじて成立する法悦なのである。したがって、さきほどキワドイと表現したのである。しかし文字は場と時代を超えて独り歩きする。文字の記録性のプラスとマイナスである。したがって「書かれたもの」を吟味するには批判をもっていなければならないというのが文献学の常識。さらには記号論理学では「テキスト批判」がなければテキストたりえないのである。

だから、不断に表現を吟味することは「反差別」のためにではなく、如来の御心を喜悦し讃嘆するために不可欠なのだ。


こうnazunaは考えるのであるが。

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