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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

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古典の再構成によるオリジナル説教台本。台本なので実演の3割部分である。4割はその日のこちらの状態や台本にはないマクラのお話などで言い回し屋細かい語尾が変化する。大筋は変わらないが。


さらに、何度もいうように説教はライブであるから、その日のお聴聞の様子やご住職から聞いたメンバー構成を参考に、法説や比喩の部分をさしかえたりもする。まあなかなか、それは難しい。だから、反応を見つつ話を落ち着いて展開することが、nazunaの今の課題である。


では台本。真実信心説教。初演は2006年の常例法座で。立った形で行った。二度目は門徒さんの年回法要で。これは座布団の上で。あと、数回、短縮バージョン(法悦の部分を簡単ないいまわしにかえる・「花咲けば葉もすてられぬ鬼薊」の比喩に変える等)で行った。今回、久々(2年ぶりくらい)の蔵出しである。


掲載するにあたって、手を入れようかとも思ったが、5年前の実力ではこれが精一杯であったことを見ていただくのもいいかと。(だからといって今が上達したかというと?????であるなあ)



真実信心説教 太字は節がかかる

一、讃題  
真実信心うるひとは すなはち定聚のかずにいる 不退のくらいにいりぬれば  かならず滅度にいたらしむ

二、法悦(法説)
 さて、みなさん、本日はご縁をたまわりしばしの御取次に及ぶ次第であります。ご存知のように、御開山聖人は、信心こそが浄土往生のたねであるとおっしゃり、信心決定のとき、往生が決定するとされました。称名念仏はそれによって、往生が決定するのではなく、信心決定(往生決定)後の報恩行とされたのです。ご讃題は、その真宗の現当の二益をば「信」の姿におさめられ、讃えられたご和讃であります。
 わが、御開山は、念仏そのものを三つに分けられ、さらにそれを自力と他力のお念仏に分けられていかれました。その際「往生成仏」の要は信心であり信心決定する時往生決定し、現世で正しく定まった人となるとおっしゃいます。これを定聚、正定聚と申し上げるのです。であるからこそ、念仏についても自力(方便)他力(真実)とを峻別して、真実信心がともなった念仏を他力念仏とされたのであります。これらは、当時既に阿弥陀仏の救済と浄土往生についての様々な教説があり、それらと法然さまが導かれる「他力」の世界とを峻別するために、立てられた教相であるといただけます。さすれば、あくまでも現世においては凡夫を生きるのでありますが「真実信心をともなった称名念仏」一つをいただき、後生の一大事の解決をまるごといただく今は、もう必ず成仏が決定している今でありますから「不退の位」とも申すわけです。これをば、蓮如上人さまは「平生業成」とおおせになられたのであります。
「凡夫といふは、无明煩悩われらがみにみちみちて、よくもおほく、いかりはらだち、そねみねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらずきえずたえず」という私をば、捨ててはおけんと大悲の中に摂め取られた如来が、南無阿弥陀仏と名乗りたまい煩悩具足の我等の人生を共に歩まれる。さすればこそ、ご開山さま、第十九願に誓われ浄土教の祖師においても大変重視された「臨終来迎」をこえて「臨終まつことなし、来迎たのむことなし、信心のさだまるとき往生またさだまるなり」と絶対他力の境地をば悦ばれたのが親鸞聖人、ご開山さまやねえ。
 こうなりますと、この身の往生成仏、滅度というのは、おのずとしからしむ。自然でありますから、われわれの持ち分ではない。いただいたものに安心し仏恩をよろこび報謝する人生しかのこらんのではありますまいか。

三、比喩
 仏さまのお姿には二つございます。そのもののお姿をこれ実相身といい、われら衆生のためのお姿を為相身と申します。船は渡らねばならん水があるから必要となった。水が無ければ船は要りません。弥陀弘誓の船は、衆生悪業煩悩の水があるから初めてでけた。「さざ波や幾度水のそそげども、鵜(う)といふ鳥の足の黒さよ」なんど、波に洗われましても鵜という鳥の足は黒いままや。白くはならん。その境涯を変えることはでけんのです。
 だから生老病死の苦に沈む。沈むのがわかっておれば船をばたのみます。ところが、ご互いの本性は「わしだけは大丈夫」「わしには関係ないことじゃ」と己の足元が見えていません。だから、気がつくときは沈むときなんです。それでは間に合わんぞーと。「たのむより助くる弥陀を先に聞け・たのむ心にほねはおれまじ」、さ、ここが御当流の聞きどころ。溺れることを承知じゃから先に船にのせておいたということなら、沈みようが無い。決めた決めたお前と二人連れ〜や真実の親が同道されたら、往生成仏になんの疑いがあるもんか。ようこそようこよそと、親のおおせをうけいれて喜ぶ姿こそ念仏の人と申せましょう。

四、因縁譚
 毎年、1月に本山報恩講に団参させていただきます。バスで1時間ぐらいでご本山につきます。ご開山さまお木像に参拝させていただき、温顔和語をちょうだいしたてまつります。といっても、毎年40名程度でありましょうか?なかなか日曜日でもご参加いただけない現実がございます。
 これが、ひと昔前ですと、電車・汽車しかございません。北陸や安芸のご門徒さまがたには、ご正忌の報恩講さま参拝を習慣としてなさる方も多く、一泊・二泊としてご参拝になられます。
 さて、北陸の山深い真宗信心の厚い村の娘さん。郵便局で働かれていましたがいよいよご縁がつくような年齢になられまして、この機会にご正忌詣りとお剃刀をいただこうとなりました。ご家族もよろこばれましたが、そんなに裕福なご家庭ではない。父も母も冬場の畑仕事に内職がございますから、じゃああんた一人でいっておいでとなりました。 村からバスで1時間。駅につきますと、知らない人が沢山。その人いきれにまず圧倒されますが、胸は希望でいっぱいでありますから、京都行きの切符をかねてためておいた貯金からと自分で払いまして、ホームへ。やがて列車が参りまして乗り込みました。が、まわりは知らない人ばかり。不安と緊張で気分が悪くなり二駅も進まんうちに降りてしもた。今日はあかんとあきらめて、家へもどります。
 事情を聞いたお父さんが「一人でいけんのならやめとくか」とお尋ねになられたが、どうしても行きたいという。そこで、お父様「駅についたらな。必ず、本山詣りの団体がいらっしゃる。お寺の名前の入った旗やら幕やらもっておられる。またな、ぱっと見ですぐわからんかってもな、団体さんがいらっしゃったらちょっとそばで皆さん方のお話、おしゃべりに耳をすましてみい。お話しの中に、本山やらご開山やら出てきたら、その人らとご一緒させてもらえ。」
 さ、次の日また同じ時間に駅へ参ります。こんどはお父さんから聞いた知恵があるので安心です。よくよく見ますとあちこちに団体、グループの姿がある。けれども、旗やら幕やらを見せているものはない。困ったなあと思うた時に、父の言葉を思い出した。そっと団体のそばに行きますと「あんたはん何回目やな」「わしゃばあさんの納骨に本廟さんへ行ったのが初めてじゃから二回目じゃ」ああ、この人たちはご正忌参りやなあと合点がいった娘さん。さっそく、話しかけましたらまさしく団参のお方。「なに、あの村からおひとりでお参りか。そりゃあ心細いことじゃ」とんとん拍子に話がまとまり、ごいっしょさせていただけた。
 さあこれで無事京都までと思うたけれどもそうはいかん。車中は安心でしたがね、ごいっしょされた方からいろいろと話しかけられる。また、好意でこれ食べなさいあれ食べなさいといろいろとおやつをもらう。気づかれと慣れない電車で、酔いまして気分が悪くなってしまいました。ところが、行き先は同じといえども心安いことはない。もうけっこうです。ちょっとしんどいので一人にさせてくださいと言いだせません。団体の方は若い娘さんが珍しいということもあって、入れ代わり立ち替わりこられる。とうとう吐き気、胸が悪うなりましてもうがまんでけへん。たまたま止まった駅で降りてしまいました。 さあ、又家に戻ってしまった娘さん。さすがにがっかりして、そうそうにお布団に入り、心配する家族にぷいと背中をむけて寝てしもた。
 次の日の朝、これこれと起こされびっくりしますと一昨日昨日と同じ旅支度がちゃんとできたある。それだけやない。もう1つの旅支度。「娘よ、心配するな。今度はこの父がお前といっしょに京都へ行くわい、はよう鞄をもて〜」なんと、父との二人連れ。バスに乗りますと日頃できない世間話やたわいもない世間話に花が咲く。駅につきますと父が二人分の切符をかってもたせてくださる。電車に乗れば「お前はみかんが好きやったなあ」とミカンをこうてくださる。すっかり安心した娘さん。電車の中で知らんうちにぐっすり眠ってしまった。目を醒ましたら京都で、親子二人で無事ご本山にご参拝、晴れてお剃刀をいただけたという。

五、結辧
 さあ、この話をなんときく。一人で仏道に向かうのは艱難辛苦の茨の道。途中で苦しくしんどくなる。ならばと皆で渡れる易行道。念仏往生と向うてみても、道中はげましやら差し入れやらいただいても、向かうことには変わりなし。同中に真の安心はないわい。
 そこで、諦め果ててご縁に背中を向けて寝ているものを、十方衆生と呼び起こし、至心信楽欲生我国、ほんまは往生成仏したいはずと全部準備をととのえて、お前は黙って言ううとおりにせよ。この親はいっしょにいくからまちがいない。そうでなければ親と名乗らぬ、若不生者不取正覚の親心。「真実信心うる人はすなわち定聚の数にいる」こうなったらぐっすり眠り込んでも安心じゃ。まちがわさんの仰せじゃから村へもどることはない。不退のまんまに京都へつくわい「必ず滅度にいたらしむ」 さて、かくのごと聴聞の上からは、シャバ逗留も長いこととは思うまじ。上は大聖世尊より初め下は悪逆の提婆にいたるまで、のがれがたきは無常の風。今にも無常に吹きつめられ目のくらんだがシャバのいとまごい。苦い薬を口いがめ、体が痛いとなげくのも今しばらく、たった今も息切れとまれば、苦い薬は百味の飯食、痛い褥が応報の妙服、汚い座敷が七宝の宮殿、枕元を取り巻いて涙流すけん属はにっこりほほ笑む仏菩薩と、転じかえてくだされるのは、今じゃ今じゃと存ぜられてあるならば、南無阿弥陀仏と、万事にかけて御恩報謝に油断なきようにせるるが大事。と申しあげまして、本日はここまで。

☆肝要はご文章にて(信心獲得章)
信心獲得すというは、第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるというは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆえに、南無と帰命する一念の処に、発願回向のこころあるべし。これすなわち弥陀如来の、凡夫に回向しましますこころなり。これを『大経』には「令諸衆生功徳成就」ととけり。されば無始已来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもなく、願力不思議をもって消滅するいわれあるがゆえに、正定聚不退のくらいに住すとなり。これによりて、煩悩を断ぜずして涅槃をうといえるは、このこころなり。此の義は当流一途の所談なるものなり。他流の人に対して、かくのごとく沙汰あるべからざる所なり。能く能くこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 

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