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九州は、日本列島に成立する政権にとって、玄関口にあたる島であるから、佛教寺院史や信者史を単純に述べられない。それこそ、日本書紀の記述やヤマタイ国、倭国の宗教から始って、遣隋使・遣唐使期の中国・朝鮮との交流と仏教、さらには宇佐八幡の存在や宗像三神、などなど。 神道史としても仏教史でも重要である。真宗史でいえば、16世紀『天文日記』に登場する端坊下、大分で端坊(興正寺六坊の一つ・在山口県で現本願寺派)が開発した門徒集団が、もっとも古いといわれる(臼杵にも1つあるが)。 現在大分市にある専想寺さまは、豊前守護の大内氏出身の天然・釋浄祐が開基もしくは復興した寺院で、九州における最初の真宗寺院。天然はもともと浄土宗の僧侶であったが、蓮如上人の教化によって真宗に帰依した。 天然の墓は、「天然塚公園」になっているぐらいである。 また、大友氏の時代には、この専想寺門徒からキリシタンが多数でて、いろいろとあったようである。 このように、九州は、別立てして「九州仏教史」もしくは「筑前仏教史」など国別などで、言及すべき地域であって、真宗史としても重要な地域なのである。 そんなこんなの予備知識の中で、節談説教研究者には、徳栄寺さまは「大野義渓」のお寺として名高く、nazunaはこの「徳栄寺義渓」本から、節談説教の研究や実演が始ったので、原点ともいえるこのお寺を一度は訪問したく、残された時間(なんせ実際、甘木から博多へもどったのが午後5時半)で、訪問をお願いした。 御本尊に手を合わせるだけで帰る、まあもしも何か「義渓」師にかかわることが分かれば、少々はお話を聞いてもええかと思い、お電話する。当日アポという失礼な話であるが、予定の立たない僧侶なのでなかなか事前のお約束ができないのも事実。 電話は留守電に切り替わったので、ああご縁がなかったか、と思った瞬間、プツっと音がして女性(おそらく坊守さま)がお出になられた。そこで、お参りしたい趣旨を伝えると「住職か父(前住さま)のお知り合いですか」と聞かれたので、いいえと答える。「ではお越しください」とおっしゃったので、喜んで出向いたのであるが。 この日、ヤフードームではなんと五万人の観客、「SMAP」のコンサートがあった!!! 福岡は交通渋滞。結局、五時四〇分にお寺につくと、美しい和服の坊守様がお迎え下さった。本堂でお参りして、降りると、お茶を下さったので、主旨を申してお土産を渡す。 お話を引きだされるのが上手な方で、ついつい甘木行きのこと、節談説教のことを、話しこんでしまう。福岡でも、「節談」へのアレルギーは強いそうである。 坊守様、「教学に力をいれるのはいいのですが、いつから真宗のお話はこんなに難しくなったのかと」「受け念仏があったあおの御取次が大事ですね」「お寺を留守にしてまで勉強会をするのはちがう、と思うのです」「実は、今日は娘の結納でして。頂戴したお電話は私の携帯に転送されたのです。でも、お参りにこられるというので私は帰ってきたのです。住職は組の会合に行きまして、娘たちは今結婚式の衣装を決めているところなんです」 わあーーーである。申し訳ない。しかし、ご教化に遇わせていただきました。家族の記念日であっても、ご縁をたまわりたいという不審の人を優先する。御法義第一の人生とは、そうでなくてはならんなあと、恐れ入った次第である。 ご住職とは数分の邂逅であったが、歴代住職に義渓はないようで、また「こういうもの(説教ネタ)は、真宗皆の財産でありますから生きていれば許可もいるでしょうが、お使いになられて結構ですよ」とおっしゃっていただいた。 結局六時半すぎまでオジャマしてしまい、大迷惑をおかけしてしまった次第である。坊守に「あんたは相手の都合を考えンと、自分が興が乗ったら際限なくしゃべる。ええ加減にしとき!」と叱られるのも無理はないなと、あやまりはてて大阪へ。 帰阪は、午後九時四五分。帰寺は十一時前。朝八時からの強行軍、日帰り九州弾丸ツアーであった。それにしても新幹線は早いです。 |
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2010年08月23日
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8月20日。安居の一日を利用して、福岡から朝倉・甘木へ 法泉寺さまという浄土宗の名刹を訪問した。 永代経をあげて、お墓をお寺におまかせするためである。 これが、残っていたお墓。五世まで記名されている。 壽光寺は前にも書いたが、1540年の創建。山城国西岡今里邑・天神堂道場、極楽寺として、今の長岡京市に創建された。本願寺実如の弟子と寺伝にはある。その後、西本願寺の御堂衆として『慶長日記』等の史料に顔をだし、秀吉亡きあとの徳川の隆盛によって、3世了加(賀)は伏見桃山城下に通寺を建立する。この城下町が大阪夏の陣の後の、壊滅した大阪城下を再建させるために、移転させられた。門徒が移動すればお寺も動くのが真宗。元和六年には大阪入りしたようで、この時期・本願寺御堂衆から極楽寺が消える。以来明治維新まで大阪上町・天満・船場・島之内の門徒の寺として護持発展してきた。 その初期、大阪北新町・極楽寺は、5世のとき貞享年間に寺号を「壽光寺」と改号した。御堂衆とは本願寺の勤行や法事にかかわり、声明や読み物、さらには能役者として芸能も行った存在。この少し前の寛永期に本願寺御堂衆としての極楽寺が史料で見えるので、通寺と本寺が分裂したことようである。そののち何らかの事情で、大坂の方が改名した。残っている史料では良如上人の御絵像下付との関係があり、寺にはそのとき寂如上人から下付された「御文章」が現存するので、本願寺側の裁量での寺号変更のようである。というのは、この後も已前として、「極楽寺」を名乗っていたので、屹度のお叱り≂閉門、を受けているからである(『摂津国諸記1』)。 (そののち、14世の急逝と15世の継職までの空白に、大阪市からの移転命令を受けて今の地へ、大正15年に移転して現在に至るのである。) そんなこんなの江戸期からの門徒が七家いづれも200年のおつきあいである。 そのうちの伏見屋O家。ご当主が去り奥様が残られていたのであるが、体調を壊されて東京の娘婿さんのところへ行かれた。そこで、代々の過去帳の写し(ホンモノは空襲で焼失)と残された古文書を読ませていただいた。 先祖は甘木・水町で薬屋を営み、代々善三郎を名乗った家。その三代目傳兵衛で大阪へ出られたこと。そしてその背景に甘木の大火がありまた、傳次郎という弟の存在がわかってるので、大阪伏見屋は相当に古いと思われる。 こう言う経過で、甘木がルーツであることに疑いがないので、今度は甘木側の史料をあたった。歴史資料館のお世話になり、市史に「水町・伏見屋O」の記述があること、水町のお寺は法泉寺さまであること、を示唆していただき、法泉寺に問い合わせたら、現存するO姓の檀家さんでは不明なO姓の墓が、中途半端な場所に残っていて、真宗の法名があるといわれた。これが2008年のこと。 そこで、このたびご縁が整って、門徒家族の代理で住職が代参し、事実確認を行ったというわけ。これも夏の安居(僧侶の学習)の1つである。地方史の中の寺院史・門徒史はnazunaがコツコツとフィールドワークをし門徒家の古文書を探索して調べていることの1つである。 いやあ、現地にいってみるもんです。秋月は秀吉の島津攻めで降伏した土地であって、この島津攻めには本願寺教如が同行していたので、朝倉・甘木には真宗寺院が圧倒的に多い。それも、お西が。それはデータで知れたのだがいってみて??? 福岡から1時間余。山中の盆地。法泉寺さまの大黒さまのお話では、「しょうっちゅう市が立つ商業地であった」とのこと。街道筋の集積地であったのか、まわりが農村なだけに謎が多い。そして真宗伝播と繁昌の経過も知りたくなった。 肝心のO家のことは、関連ありだが石碑では善三郎と惣太郎もしくは辧太郎がかろうじて読み取れるぐらいであったので、O家先祖の墓とは断定できなかった。けれども、現甘木にはO姓は二軒しかない。そのいづれもが、伏見屋とは無関係とのこと。もっとも大阪の伝承では、写真の竹屋さんが本家であるそうだが、それも遠い昔の分家本家であるから当代にはチンプンカンプンであろう。 一応お話を聞いたが、「水町のOは知らない」とのこと。真宗寺院の教法寺・清原さまも訪問したが、伏見屋、Oとも記憶無し。したがって、関係は江戸の内に記憶をとどめ、歴史の彼方へとフェイドアウトした。 O家の意志で、永代経を納めさせていただき、壽光寺からは手土産を、法泉寺さまと甘木歴史博物館(写真)にお渡しして、この旅は終わった。 博多での一幕は次回に。 |
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