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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

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蘇我徒物部の崇仏廃仏戦争において、物部の手で難波の堀池に廃棄されたという仏像。これは阿弥陀三尊像であったといわれる。原像は欽明天皇13年に百済(くだら)聖明王(せいめいおう)より、仏典とともに貢献された像で、これをもって日本史上の「仏教伝来」とされたものである。

1で述べたように悪疫流行により廃棄されたわけであるが、推古十(602)年、信濃の国・麻績の里、本田善光がその子善佐と「難波の堀江」を通りかかったところ、光輝くものを発見した。伝説では、仏の方が呼びかけたといわれる。


こうして善光は背中に仏像を背負って帰り、自宅の臼の上に安置した。すると仏像が光を放ったという。こうして善光は自宅をそのまま持仏堂として、後に一寺となる。これが
坐光寺である。このまま40年が経過し、皇極朝において改めて、移転させてできたのが「善光寺」である。

この間、伝説では、聖徳太子とこの阿弥陀様との間に手紙のやり取りがあったとされる。


さてさて。このことからわかるように、我が国においては、教学としての「仏教」、おシャカさまの説く「悟りへの道」に帰依する仏弟子、という理解はないのである。


「外国からきた極めて効き目の良い呪い」、呪力のある仏像を拝むことで、病を治癒し避けることができる、というのが大衆理解であった。


今でも、宗派僧の中には、「日本仏教とは呪いあって、それでいい」という立場の方が沢山いらっしゃる。御札やお守りをせっせと販売している方々である。


しかししかし。聖徳太子における仏教は、呪いではない。やはり哲理を踏まえた、「さとり」「目覚め」の仏教であり、利他の極致、ブッダを目指す大系であった。ちなみに、上記の伝説(明らかに後世の付託であろうが)、のやりとりを記す。



御使 黒木臣
名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
         斑鳩厩戸勝鬘 上

一念構揚無息留 何況七日大功徳
我待衆生心無間 汝能済度豈不護
            二月廿五日勝髪調御


上は、善光寺に残るもの。下は法隆寺に残る三通のうちの一通。こっちは秘物で永遠に封印されているものであるが、例の廃仏毀釈のときに無理やり開けられて一通だけ筆写されたものが、東京国立博物館に蔵されている。

読めばわかるが、念仏を報恩とし、太子自身が衆生を済度(仏道へ帰依させること。すくうこと)を願う態を示す。返書の方も太子の仏法繁盛を支える内容となっている。

時代において「済度」を、救済とし、さらには具体的な問題の解決とすると、欲望を満たすことが「済度」と理解される。そういう問題はあるが、仏教への帰依は天皇家から地域豪族へと展開し支持されていった経過はうかがえよう。

これも伝統である。




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