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10月3日 日中法要。
「入西観察」。原稿がうまくない。前日まで、ああだのこうだの。気持ちと体があわないというか。疲労か?元原稿はそもそも、武藤幸久師より頂戴した原稿。武藤師の整理されたものに再度手を入れたが、言葉がこなれない。内容的には、9月初めに聖徳太子の絵解きを体験して、善光寺如来の由来と聖徳太子をからめて、仏かねて衆生をみそなわして、という流れにしているのであるが。伝説部分と法悦がかみあわなくて乗らない。苦心して行ったのが以下。武藤師への讃として、不十分でありまだ、改良せねばならんが一部掲載する(なお五段法を付しておく)。
讃題 子の母をおもふうがごとくにて 衆生佛を憶すれば
現前当来とをからず 如来を拝見うたかはず 法悦(前略)
いったいわが親鸞聖人は、六〇歳をすぎられたから京都にお戻りになられましてお住まいをいくつ変えられておられます。法然門下であらせられても京都を長く離れておられたこと、また、ご出身が支援の望めるようなお家柄ではなかったことからでありましょう。最後は弟君のお家にいそうろうなさって御往生となりたまいたのですが、その間にご讃題のようなご和讃を沢山ご制作なされた。 中でも引用のご和讃にては、われわれ衆生の根機をふまえて、如来のお徳をご讃嘆なされてある。衆生の根機とは、曇鸞大師の曰く、「如来、三界をみるに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、尺蠖の循環するががごとく、蚕繭の自縛するがごとし。哀れなるかな、衆生はこれ三界に縛られて、顛倒不浄なり」というもの。どうにもこうにもならん苦に苛まれてじっとしてられんと逃げ出すが結局同じことを繰り返しておる。こういうわれらが境涯に目覚めたとき、つまりは弱ったとき困ったとき、さびしいときかなしいときふと親を思う。それは、私たちの心に親の身口意の三業がはたらいたものやね。ああお母さんあのときこういわはったなあ。ああ、わーって泣いたらだっこしてよしよししてくりゃはったなあとね。せやから、私たちが仏さま、阿弥陀様のことをふと思うということ、お会いしたいなあと思うとき、それは親の慈悲のはたらきなんです。だから、實はもう親に会うとる。今ここに親がある。ならば、やがて浄土にて阿弥陀様をはじめ先の仏さまとお会いすることを疑う余地はないですね。
譬喩・因縁譚
親鸞さま御年七〇歳の時のお話ですが、その余間に飾りましたる御絵伝の二幅目の最上段にございます、入西観察といわれる一段。 絵の右が入西坊道円。左が蓮位房。蓮位房は、下間宗重といい親鸞さまのお父上と打倒平氏を戦われた源頼政公の孫にあたられる方。では、入西房はと申しますと、一昨年語らせていただいた日野左衛門、すなわち親鸞さまや蓮位房西仏房を雪の中で石を枕に寝かせたという邪見のものが御本願におうて懺悔しお弟子となった姿、枕石寺の開基。さて、その入西房に御影すなわち肖像画を描くことをお許しになられた所がこの図。「世の中にかくし おきたる身の咎を しるや佛の こころはづかし」、御開山さま入西房の心をとっくに見抜かせられて知って御座ッたのですが、入西房は「聖人の真影を寫し奉らん」つまり肖像画を描かせていただきたいと思う志があり、少しそれをも他人に話さねば知らぬことと思っていたわけ。ところが、聖人は入西の様子を御鑑察あって、「一体、師は水の如く弟子は魚の如しというではないか。遠慮には及ばぬ故。入西房心願あれば。何なりとも申されよ」と仰せらるる。入西、あら恥ずかしやと恥ぢ入りたる顔の色の紅葉した色の濃さを、もみじを以て知らせてある。
「日をへつつ ふかくなりゆく紅葉々の 色にも秋の ほどぞしりぬる」
我々御互いも御法義の秋の日に照らされたれば、自づと赤くなりゆくのでしょう。さすれば入西房、かねて志たる真影圖絵の事は、御開山さまの御鑑察によって京都七條辺に居住する、定禅法橋というものに寫さしむべしと仰せになられたので、「入西房鑑察の旨を隨喜して、すなはちかの法橋を召請す」となったのです。さて、「定禅左右なくまいりぬ」とその法橋が、朝顔咲く早朝より參られた。そして真影を寫さんとて、尊顔に向い奉って驚いた。「あら、昨夜見たる夢に、善光寺の本願の御坊がこのお方であるとあった聖僧の姿と、少しも変わらんやないか」と。 「咲きまじる 千草はわかで 白妙の 尾花ばかりぞ 月に見へける」外の色花は昼は見えることなれども、夜は見分けにくい。他流の祖師方は上代の昼はよく其徳も見へ分かり諸人の帰依もあるけれども、末代の夜分は光りかなし。吾祖は、「善光寺の本願の御坊これなり」と云ふ位なれば、さながら尾花・すすきの穂ように御徳もすぐれて立ちのびさせられ、其上より衆生済度の為に、肉食妻帯の在家と同じき宗風になびかせられた。せやから、諸人の見分けが易くあり、御帰依申すべきは御開山方でありましょう。この親鸞さまが善光寺の阿弥陀様の生まれ変わりであると定禅法橋は確信されたというのがこのお話。 そもそも善光寺の如来のおいわれを聞けば、東インドの月蓋長者が娘、如是姫は十三才の時疫病を病み、町中一同も同じ病気にかかった。月蓋長者が大層の金を費やして、名医耆婆を招待したれども、如何とも致し方がない。就いては町中一統と申し合わせ釈尊を請待し佛力を乞われた。しかるに月蓋長者を始め、この町中一統のものはブッダを嫌い、かつて釈尊が七日の間托鉢せられたれども、佛に一粒の供養も差上げず佛や他の弟子が町中に入ることを停止せられた。釋尊はそういうものほど御不便に思召させられ、月蓋長者は姫の難病のことをいいかけられると、釈迦如来は大に不便に思召され、「そなたの娘、如是姫は疫病のようやから、おれが見舞に行く」と仰せられ夫婦の者と共々に、少しの間に長者の宅へ至りたまい、如是姫の容態をごらんいなられた。するとオシャカサマは黙然としてさしうつむき、「サテサテ大病、己が手だけでは叶はぬ。西方の弥陀を念ぜよ」と命じられえた。藁をもつかむ思いで、一七日の間、町中「南無阿弥陀仏」と名号を称へたるに、一七日の念佛終ると其夜、月蓋長者の門の上に、虚空中に弥陀観音勢至の三尊顕はれ、釈迦如来は阿難、目連を召し連れて御見舞ひなされ、念々に相身互いを照らして広大の光となって、弥陀釈迦二佛の光明、長者の家内を照らしたもうと、不思議や姫の難病即座になおったという。月蓋長者、何卒御姿を御残し下されと願ふたれば。釈迦如来の御指圖に任せ、閻浮檀のあらゆる金を集めたまい、二佛の光明に照せば、金は忽ち融けて阿弥陀三尊の佛が出来上ったので、弥陀の真佛は御浄土へ、釈迦は精舎へ御帰へりなされた。
この御仏が不思議のご縁で我が国へ至り、かの崇仏廃仏論争のときに、邪見の守屋の手にかかり難波江に捨てられてしまったという仏さま。月蓋長者のほうは、次の生はもっと佛を供養したいとの心願で、貧者を望まれたは、終に日本では信濃の本多善光と云ふ貧者に生れた。この善光、国司にともなわれて大和の橘の京へ上りしおりに、難波の池にかつて邪見の守屋が沈めて置いた。閻浮檀金の御佛の光にさそわれてこれを救ひ上げ、背負いて信濃の国へ御供申し、佛間もなけれは臼の上に御安置なされた。すると妙なる光を放たれ近隣のものをご教化なさったので、この善光の家宅をが「座光寺」となった。其後、皇極天皇をも御済度申したれば、別置に一寺を設けたがかの善光寺。其恩を報ずる為め、善光寺には禁裏様の姫宮が御一人づつ御出家なされ、尼宮となり本願院の御住職、大本願尼宮と申し、今に相続していらっしゃいます。
ミクシばかりを書かさせられたは、一体首から上で世界が全部あるからです。わかりますか?ええわからん?ここにね、天地、森羅万象が全部そろたある。頭のてっぺん丸いでしょ、これが大天。両眼は日月。鼻の高ひは山。口は穴その穴と鼻の穴よりフウフウ出る息は風。叉、風引の時の咳は雷、身を震うは地震。のぼせてクワツとするのはカンバツ。汗の出るときは洪水。ソシテ目が二つ耳の穴二ツ。鼻の穴ニツ口の穴一ツぢや。この口だけは一ツでさえ困るにニツもあれは迷惑するから一つや。この七穴より出づる涙、鼻汁、涎などは雨や河の水や。。歯は石、髪は木、産毛ほ草、皮は大地としてみれば、ほらね、天地のことが皆収まる。「離中知合中知」というのが倶舎論にある。眼と耳とは離れてヾなければ見たり聞たりすることが出来ず。鼻と口の舌とは物に接せねば、嗅ぐことも味うことも出来ぬ。ソシテ目は一役。鼻はニ役(かぐと息の手伝)口は三役(息と食と、しゃべるとなり)ある。仕事が多いのう。せやさかい役人も四人(喉、舌、歯、唇)ある。口には一番沢山の人夫を遣って一番忙しいが、多くの者が口に遣われて難儀する。そこで鼻が腹を立てて口は多く物を喰ひ。眼は毎夜寝ると閉じて楽をさして貰うに。おればかりは其方達が寝ても。すうすうと挨拶をして居るに、おれには何にも喰はせも呑ませもせぬ、義理知らず奴といかるれば、口が答えには鼻殿は何か喰度と思ふても喰ふことは出来ぬ。その換わり鰻屋の店先で香をかいで鼻をヒクヒクさして居よと。口と鼻との云ひ合を。眼玉が聞きて目をむき出し、彼是と下の方で八釜敷云うな。この目玉様が明て居やこそ香も嗅げば、言うことも出来るが、おれが眠ると鼻も口も仕事はない。おれが眠りてさへそうぢやに、若しや白目むき出して死んたら。手前達は役揚りぢや。吾を大切に致せと云ふ所へ、耳が耳を欺てて。三人共黙りて居よ、この耳の役目は聞く計りぢゃが、この耳を讃めて解脱の耳と云はツしやる。おれに御教化を沢山きかせよ未来浄土へ手引する。御役柄はこの耳ぢやぞや。首尾よく浄土へ手引すれば。ロには百味の飯食を喰はすぞよ。鼻には清浄の香を嗅がすぞよ。目には七宝の樹を見するぞよ。其方達が喰ふの喰はぬのと小言ばっかり云うて、おれに腹立ツことや、欲のことばかり聞かせて名号の御謂れをきかさぬと、音なしくして居る魂が未来の行場がつまらぬと云ふた。耳の理解が一番尤もぢや。因りて首より上ですべてがそろうさかいに御首の御影を書かさせられた。
結勧 合法 セリ弁
さ、その其善光寺の如来の化身たる、御開山の御おしえを面のあたり聴聞するが我々の身の上ならば、たとえ信濃へ参っても、七重の御戸帳深く鎖して御姿は拝まれん。たとえお姿を拝んでも、目に拝んだ計かりでは往生は成らぬ。其如来のお誓の名号を聞て信を取らずば参られん。故に御一代聞記に、「他流には名号よりは絵像、絵像よりは木像といふことあり。當流には木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり」とありて、其名号を聞く一念が信心の姿や。ゆえに御和讃には、「子の母をおもふうがごとくにて 衆生佛を憶すれば
現前当来とをからず 如来を拝見うたかはず」と仰せらる。御助けが聞ヘた一念が真佛を拝んだ。只拝んで居る計りやない、追付自身も參って、帰命無量寿如来様なるとは何たるご果報。 「百歳と いのる心のはかなさよ 弥陀の御國は 無量壽なりけり」と、無量寿にさせて貰うことを忘れて、現世折りするとは真にあさましきこと。然るにこの無量壽になるは、往生してからかといえは、「善知識の言の下に帰命の一念発得しぬれば、そのときをもて娑婆のおはり臨終とおもふべし。」と、弥陀をたのむ一念の時、迷の命がきれて、心は無量寿に手をかけて居る。この安心をなんとしよ、さすれば、 華尽くしにて申すれば、「一、花の都に至るには、おみ法一つを菊の花。きけば信心瓜の花。うれば摂取の 抱き牡丹 。二、 たのめば弥陀はナデシコの 色にも見えたヤマブキの 香りも高き梅の花 さがりて嬉しや藤の花。三、迷いの綱はキリシマで 罪と障りはケシの花 疑いひとつは梨の花 聞くたびごとに初花で。四、行者の称名ツゲの花 月日も早くタチバナで 年もつもればコケの花 無常の風に花散らば 五、すぐに浄土の蓮の花 宝の花の数々を ながめてつきぬ悟りとは さても尊や 南無阿弥陀」 と頂戴せしめまして、肝要は御文章にて。
最後の方は、ややもうろうとした頭で、お慈悲の温さは讃嘆できたであろうか?不安な高座だ。
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2010年10月15日
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(お勤めがともにできるように、じゅげむではモニターで本堂を映した)
Bパターンである。写真の勤行のように、皆でお経をいただくのが法要。
さてところが、このお経を読むことは、死者供養であるという認識がかつて常識であった。
「死」を断絶としないで、永続する生命とする。プツンと切れてパー、ではないようにしたい。死を恐れ避けるというのは生物の本質である。でも、必ず死ぬ。この矛盾を解決せねば、私たちの「生」はいつも不安定なままになってしまう。
だから、ここでないどこか、『他界』が想定される。死者はここでないどこかに行き、そこにいる、というのだ。
そして、その世界は「善悪」「美醜」「好嫌」「楽苦」に二分される。天国と地獄とかj地獄極楽というやつ。
そういう観念が弱まっているからなのか、断絶することを恐れないほど、現在が孤独であるのか、とにかく、「死者」の行方への関心が以前よりも単純化されている。
そして、おそらくは「墓地」や「骨」への執着は変化していてもそれほど減っていない。
さらには、もう少し無機質な「死」が増大しているのは、キーパーズの吉田さんや引き取り手の無い遺体の増加によいって、明らかである。
Bパターンは、こういう状況の中の一大多数。おそらくはそれなりの葬儀をそれなりに勤めれば、どこかに輪廻転生する、というTVを中心としたメディアの共有概念に影響されて、一定の死生観を学び自己のものとするテマ・ヒマをかけない、という生き方につながっている。
この層が多数であるから、葬儀の経済的分析に一定説得力があると同時に、ゼニになる話題になる。
さてここで、まったく目を違う角度におく。すると、葬儀は遺族という家族を誕生させることに気が付く。戦後、夫婦が家族の基本単位になると幻想し、それによって親子関係、血統主義的共同体である「家」を分解する方向へと歴史はすすんだ。
しかし、今日に至って、夫婦関係は離婚によって簡単に解消し、単親家庭が生産されることが証明された。つまり夫婦は「家族」の基礎単位ではないことが証明されたのである。
生活共同体の基礎は「親子」である。時間軸をたてにとる共同体。実は葬儀の際に、まさしく「遺族」という形で、この真実が照らされる。葬儀はまず、家族で行うものである。
だから「家族葬」という言い方は葬儀葬儀といっているようなもの。改めてそういうことで実は上記の真実を遺族に意識させるから、受けて定着しつつあるのだろう。
今、葬儀を司るものには、①遺族としての家族を参加者に発見させること②その上で、死者を想うこととなる十分な形式を与えること、が要求される。
つまり、死をとりあえず個として扱わないという用意周到さと、礼儀・規範・挙式におけるパフォーマンスの優越性の担保である。
ひらたくいうと、坊さんが司るならば、衣装・挙措・声明にコストパフォーマンスを演じる。美しく悲しく演技的に葬儀する。
実は、経済的な価値に話題が偏るのは、司るものの不在、主導権が司会なのか司祭なのか、より高位なパフォーマーは葬儀社なのか宗教者なのか?
ここが、弱まっているのではなかろうか?
法要でのパフォーマンスに対する、大衆の反応がそのことを裏付けているのである。
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