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報恩講という行事は、浄土真宗の中核となる行事です。
今回の旅で、島根県の大田市温泉津の真宗門徒のありようと、お寺の成り立ちについて、いろいろとお教えられることがありました。
お座敷の火鉢です。nazunaのお寺でも、その昔の「報恩講」のイメージは火鉢でした。御正忌は真冬。その前の報恩講ですから、火鉢の準備が本堂でもお座敷でも行われていました。
祖父の姉つまり、大伯母夫婦が岩おこし工場で作った「岩おこし」が定例のお供養。さらには、素焼きのおかきをカンカンにいっぱいつめこんで持ってこられて、こんな火鉢で焼く。
で、子どもだったnazunaは、火鉢の番であった。お寺へ入って案内されたお部屋にあった火鉢で一瞬にしてそういう記憶がよみがえった。
お斎を準備するのに、村中がお寺で作業される。そしてお勤め前に僧侶門徒いっしょにいただく。中身はお精進。これも懐かしい食卓。お寺さん自らが手打ちされたそば、うどん。いわゆる「共食」の伝統が生きている。
宿泊させていただいた宿は伝統の「ますや」さん。仲居さんもご門徒。いろいろとおしゃべりさせていただいた中で、「70代80代の先輩から、料理の味、お寺での作法、みんなとの協力で行事を支えること、若い者が覚えなあかん」というのがすごかった。
60代のかたであるからねえ。娘にもこれを継がさにゃならん、ともおっしゃってた。
そういう文化なのである。
旅に出て知る、ご当流の広がりと厚みでありました。
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2010年12月01日
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11月25日26日と、ご招請を受けて、島根県大田市のお寺へ、旅高座にでかけました。新幹線で広島。そこに息子さんが車でお迎えに来てくださいました。2時間弱でお寺へ到着。
昼のお座を二席勤めて、旅館へ。次の日はお朝事とお昼のお座二席。都合五席の高座を無事に終えました。
旅での高座は初体験でした。かえがたい法友の依頼でしたので、夜間中学のお休みをいただき参りました。
セリ弁を言い損なったりして、ドキドキものでしたが、とりあえず、昔のお前座レベルのものが、特別に主賓にしていただいているとの思いで、精一杯勤めました。
かけたお話は、①出家学道(無常の理)②子規とその家族(慈悲通心)③大乗のブッダ(全分利他)④朝寝八石(大悲の名号)⑤臨末の御書(還相化導)の五席。
コンピュータをもっていったので、その場で譬喩を入れ替えたりできた。また、因縁譚も少々組み替えた。念のために「身代りの名号」と「吉水入室」を祖師伝から、モチネタ?としての「夢の浮橋」と「犬の手術」をさらっておいて、できるようにしておいたが、ほぼ予定の流れでお話しできました。
流れは、無常を知る→仏道へ→仏になるとは→本願力回向賛嘆(聞即信・一念帰命)→還相の回向。4席目がメインになるように考えて。
底流として、「機の深信」を笑いとともに、そして「祖師讃仰」を感激をもってというように思いこめて弁じさせていただいた。
旅して、見知らぬ地域で、と緊張する要素があり、さらには前々日から葬儀が生じてそちらに神経をさいたので、準備不足かとも思われたのだが、貴重な経験をさせていただき大変ためになりました。
同時に、「節談」「高座説教」の研究に取り組んできたこの10年と、はからずも高座のお取次ぎに至ったこの5年を、振り返らずにはいられませんでした。武藤師に送った一通のメールが、研究者→実演者へとnazunaを導いた。不思議のご縁でありまするな。
2日間、門徒さんだけでなく村の人がつめかけてくださり、熱心なお聴聞にこちらが感激させていただいた。御住職や寺族のみなさん、そして講の方々の報恩講への取り組みにも真宗文化と、地域の力を見せていただいた。
そちらの方は、次に。
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(11/26 島根での高座姿)
12月の法語
円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、
難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なりと
(顯浄土真実教行証文類・総序)
今年は、この法語の解説で、徹底して仏法の原点から、お話をしてきました。原点とは、「輪廻の境涯を解脱してブッダとなる」ということです。私たちの存在を「今」だけでなく、過去現在未来をつらぬく時間の中でとらえるダイナミックな認識が、仏法です。
その仏法が、文字化されてお経となり、さらにはブッダをスーパーマン的に理解し尊敬(そんぎょう)があこがれになり、崇拝になっていくとき、チベット仏教のような体系が生まれました。中国を経て日本に伝わった「仏教」は、スーパーマン的ブッダへの帰依と、現実社会での支配者への帰依を二重構造とする、王法仏法の相依論をふくんでいます。
親鸞さまが書かれた「顯浄土真実教行証文類」は、浄土真宗のみ教えの根本となるというお書物です。真宗は信の宗教ですが、このお書物は「教・行・証」という順番で、展開されます。教えを受けて実践する。そうすると悟りを得ることができて、ブッダとなる。この考え方自体は、近代の社会ではごく当たり前の思考となっていますね。目標を立て実行し結果を求める。目標にあわない結果なら実践方法や思考を修正してまた実行する。
行の宗教は、現実社会でのリアルな力とつながり、現実社会に影響を及ぼす。これも宗教の一側面です。ところが、浄土真宗は信にすべてを集約します。それは従来の仏教の思考法では理解できないものです。だから、旧来の思考で生きる人々に理解をされず、誤解される。また、批難されます。
そこで、親鸞さまはあえて、それらの人々の思考に合わせて「法然上人の仰せ」をつづられた。他力浄土門が、まぎれもなくお釈迦さまの仏法、すなわちブッダになることを目標としその目標にもっともかなった実践が「称名念仏」であることを証明されたのです。ひとえに師・法然上人の教えが仏法に適うものであることを、知らしめたかったからに相違ありません。そしてそれは当然のことながら、かの教えを弾圧する権力や人々への鋭い批判となります。
さらには、念仏を称えてるという行は、行者のはからいすなわち私の側の行ではなく、いづれの行も及び難き身なれば」こそ阿弥陀さまの方で行じられて仕上げられた(終了している)行であることを明らかにされました。ここに、念仏を称えることがそのまま阿弥陀仏の願行に順じてそのまま丸ごと自己のものとなるという誓願不思議が実現されるのです。
だから浄土往生できる。けれども、そこでとどまれば仏教ではありません。「もしわれ仏に成らんに、国のうちの有情、もし決定し等正覚を成りて、大涅槃を証せずは、仏に成らじ (無量寿如来会・上)」とは、法蔵菩薩の第十一願。「大涅槃を証す」とはっきりとおっしゃってある。「もしもこの法蔵が成仏することができたのに、有情、かずかずのいのちのうちで、わが浄土へ往生にまちがいなく生まれそしてさとりを得て解脱することがなければ、そもそも成仏する意味がないのでブッダになんらない」とこうおっしゃる。
法蔵菩薩さまは見事成仏なさって「阿弥陀仏」となられたのですから、この願は単なる願で終わらずに果たされたことになる。それは衆生(有情)のための願です。果遂の願を衆生が丸ごといただくから、「浄土における成仏は決定している」ことは明らかです。
こうして、浄土真宗は現世における人間の欲や願いを満たす宗教とは一線を画して、釈迦の仏教すなわち「ブッダとなる」ことをとく仏教に原点回帰したのです。二十一世紀の日本社会で、仏教の装いをした教団や僧侶は存在しますが、この点を明快に示しかつそれが仏教の意義ですと指摘できなければ、「まがいもの」と言わざるを得ないと思われます。
○本年度門信徒総追悼法要
12月12日(日)午後2時〜午後4時半 阿弥陀経 ご讃嘆・花岡静人師○
○土曜・お朝事(朝のお勤め)
12月4日・11日・18日・25日 午前七時半〜八時半
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