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(『法の園』明治〜昭和期の真宗法話雑誌 読む法話のハシリである)
問題の立て方に問題意識をもつ、これアリストテレスですね。
メディアが番組を作るとき、報道という意識がベースになる。今回のケースでは、葬儀をしてくれるものが無い死亡事例が3万人を超える、という事実を、より多くの人に知らせたいということでありましょう。加えて既知のことである、中高年層の自殺の増加という事実、さらには「引きこもり」が増えているという事実。これらをまとめて「無縁」という言葉でくくられた。これは人間が社会化されないという意味で使われたように思います。
さて、さてしかし。孤独死しようが自殺しようが引きこもろうが、とにかく衣食住があって暮らしている(いた)わけで。
食一つとっても、人間と自然の営みのネットワーク(縁起)の中にあることは言うまでもない。コンビニでおにぎり一つ105円払って食べれば、そこに10を超える原材料が示される。さらには合成繊維のパッケージがある。商品名等のラベルがある。商品としての「おにぎり」が製造される過程で、多くの自然物が利用されている。そして、それが商品となるために、今度は多くの人手と機械が費やされる。エネルギーも必要である。原子力発電所が建設され送電線が整備されてこそ機械は動く。さらに、商品を運搬して販売するのにも流通と販売とに、機械と人手がかかっている。等々、言い出せばきりがないなあ。
おにぎり一つに、言い尽くせない縁起がある。そしてそれがあなたの口に入るということは、そこにあなたが存在せねばならんわけで、宿れし業によって今ここに人間の命を生かされているからこそ、おにぎりと出会えたわけでありましょう。
いったいどこが無縁なのでしょうねえ? 事実としての「無縁」なぞない。ならば、問題は自己存在に「縁起」を見ない、あるいは実感できない、人の意識。「社会や他人や自然と私は全く関係なく生きられる、生きている」という思いこみ、『無縁』と断ずる人の意識こそが問題なのであろう。
そのような誤った思い込みを、誰がどうして育てたか?そこを議論するなら意味がある。
で、誰がというなら、「有縁なのに無縁とするように生きる」ことを、今問題を立てたメディア自身が進めてきた(いる)のではないかと申し上あげねばならない。
自身が知らない縁起によって動かされていくことがあるという真実に目をそむけて、全ては人間意識の中で把握できるという思い上がり。そういう近代意識を無反省に経済的側面を中心にして拡げた結果、縁起は単純化されてしまった。一因一果であります。
こういうのを、マッチポンプというのである。問題や問題やと言い立ててどうしようどうしようと騒いで、かならず誰かのせいにして、そのうち忘れるというパターン。これが日本のマスメディアの戦前戦後を通じての特徴である。
かの戦争は一億総懺悔とみんなのせいにしたな。そしてマッチポンプが大好きなのがこの私である。だから、番組が受ける。作る側だけの問題ではないなあ。こっちもおんなじである。「無縁」という言葉に踊るのは御互いである。
そこで宗祖にたずねよう。
故聖人(親鸞)の仰せには、「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」と候ひき。
またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と、仰せの候ひしあひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、「たとへば、ひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふ」と、申して候ひしかば、「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」と、仰せの候ひしかば、われらがこころのよきをばよしとおもひ、悪しきことをば悪しとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、仰せの候ひしなり。 意訳) (自身についてつくづく思うであるが)うさぎや羊の細い毛のさきについているちりほどの、ほんのわずかな罪とがでも、宿業のむくいの結果でないものは一つもないと自覚せねばならんなあ」と親鸞聖人はおっしゃられた。(中略)業縁がととのはないから人を害することがないのだ。決して自分の心がよいから人を殺さないということはない。調えば百人でも千人でもころすであろう。人間とは、自分とはそもそもそうするはずの因縁がもよおせばどんなことでもする存在である。自己の善悪の意識にとらわれ、またそれで他者を裁いてばかりいることに気が付けば、この究極の矛盾、自己を滅ぼし他者を滅ぼしていく地獄の宿命から、究極的に解放されるには「阿弥陀仏の誓願」に順ずるほかはないと知られると、おっしゃったことである
もったいないことである。
NHkも番組制作の前に、大無量寿経の五悪段や教行信証の化身土巻を参照すればよかったねえ(笑)。
附)関心の高い人には、仏説全体の中での「化身土巻」をいただくことをお勧めします。
教行信証においては、「方便浄土化身土巻(観無量寿経・阿弥陀経)」から「教巻(大無量寿経)」という構造があります。法華一乗から生じる万行肯定、つづまると行の抽象化観念化から、現世全面肯定という堕地獄の危険性を超えられるのは念仏一行であるといただけます。
また、涅槃経における「悉有仏性」の問題、すなわち父殺しのアジャセは成仏できるのかという深刻な問いへの答えもここに含まれます。
★これらをnazuna は「平野修著作集」を通して、生前にお聴聞がかなわなかった大谷派・平野修先生から教示されました。
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2011年02月15日
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