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(講談社 2010.10 林壮一 1470円)
昨年出た本。読書で泣くことはほとんどないが、泣いた。少しネタバレになるが、内容を紹介したい。
1982年7月 テレビ東京だったから杉浦アナウンサーか?解説はジョー小泉さんと原功さんかな?
J/ウェルター級チャンピオン:アーロン・プライヤー対一位挑戦者:亀田昭雄戦。
1Rに亀田はダウンを奪う。足がひっかかってこけただけというヒトもいるが亀田のパンチは当たっていた。
その亀田昭雄。現在のように海外ボクシング事情が国内にいても手に取るように理解でき、またプロモートも選手の育て方も、さらには選手自身のマインドにおいてもかの西岡利晃や長谷川穂積がいうように『ボクシングが好きで面白い。のびしろ(言い換えればまだまだ学ぶことが多い)がまだある』というような、世界チャンピオンが目の前にいるという環境であれば、日本重量級屈指の選手となっていたに違いないボクサーであった。
大阪人のnazunaからいえば、辻本兄弟は憧れであり誇りであり「スゲエ」お方であったのだが、この辻本弟をわずが7戦目に下して日本チャンピオンになった亀田昭雄には度胆を抜かれた。
しかし、かのアレクシス・アルゲリョの挑戦を二回にわたって退けたシンシナティ・ホーク、スタミナタンクのアーロン・プライヤーこそ怪物と呼ばれる天才であった。オールドファンにはファイティング原田の全盛期に藤猛のパンチ力があると想像されたい。若いファンならば、アントニオ・マルガリートのプレッシャー力+メイウェザーJRの身体能力+ノニト・ドナイルの野性味と手数と思っていただければよい。
さてさて、『神様のリング』といってもボクシングドキュメントではないのである。
この作品は自身もボクサー経験のある著者が、かのプライヤーが稼いだリングマネーを全てすり、麻薬の溺れ銃撃を受け服役をもしたという引退後の人生を追いかけるところから始まる。
プライヤーはとある教会の牧師の一人として再生の人生を歩むのあるが、さまざまな心身の障害をかかえて位している。そのプライヤーをして「リングでおびえたのは彼ひとり」と言わしめた、亀田昭雄もまた、恵まれない環境と自身の未熟さから早期に引退をして第二の人生を送っていた。
本書は2008年、この亀田昭雄氏を伴って著者が渡米し、亀田プライヤーの26年ぶりの再会をさせるというドキュメントである。
亀田自身に刻まれたプライヤーは「レベルの違うボクサー」であった。そのプライヤーが苦渋の人生を歩んでいることと自分への賛辞を口にしていることを知り、たった一度の世界タイトルマッチであるのに、彼を覚えているボクシング関係者やファン、市民に囲まれ、シンシナティの町で亀田自身もボクサー亀田を再評価していくことになる旅になる。
ボクシングというスポーツは、格闘技である以上やはり互いの心身を倒しあうのであって、動物の生存にかかわる部分として存在し続けるスポーツである。一方で闘争や妬みや怒りから遠ざかっていこうとするベクトルと、動物としての部分を持ち続けそうあろうとするベクトルという、相反するものに引き裂かれている存在、パンツをはいたサルである「人間」。
いったんリングに入れば相手を倒すことでしか自由になれない時間と空間を共に生きられるのはボクサー自身のみ。トレーナーもレフェリー・ジャッジも観客も傍観者であり傍観者であることでしかわからないことを知らされ、かつ傍観者であるがゆえに永遠に理解できない「生の実存」の存在に、あるいは安堵し或いは怯えるのである。 戦いの見出しに「戦慄の!」とつけられる所以である。
再会する二人。食事をし語り合い。抱きあう。そして、父の拳銃自殺をとどめた息子、プロイヤーJRが、父の道・プロボクサーになっている事実から、著者はこの息子と亀田昭雄の出会いももくろむのである。そして、nazuna の胸を熱くしたのは、亀田がJRにボクシングレッスンをする場面であった。
そこで交流する世代と時代。さらには、かつて敵としてた戦ったもの同士が尊敬をもち、それを子どもに無言で伝えているシーンであった。波乱の後半生の中で育ったJRが「純粋でまっすぐに育っている」ことを我が事のように喜ぶ亀田氏の姿と教えを吸収しようとするJRの姿がこの書のハイライトであった。
著述のあちこちから立ち上ってくるアメリカの匂い。人種差別やダーティ・ビジネスの匂い。そして革のグローブの匂い。マネごとで終わったnazuanの鼻にも、撃たれたときのあのツンとくる感じや口の中の血の匂いが蘇るのである。
人間というものは常に天国と地獄(わが流儀で申せば浄土と地獄)にはさまれて振り子のように揺れているのであろう。その中で時々奇跡的に、麗しく美しい瞬間がある。それを見事に切り取った本書に ★★★。
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