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石山合戦の想定図
大阪市の南に堺市がある。
堺市は市立斎場をもつ。本日はそこの式場を借りての葬儀。
ところがところが。
市(行政)から、式場内以外での勤行は禁止されているというのである。こんなことは大阪府の他のどこでも経験しなかった。勤行でいえば火屋勤行をさせないというのである。権力でもって。
伝統的な葬儀は、葬送つまり遺体を葬る際の礼儀作法をいう。
遺棄葬や土葬水葬の場合、入棺したご遺体を皆でしかるべく場所へと運搬して、処分する。この際に他の動物と人間を区別すべく東洋では儒教における「禮」でもって遇したのである。
ここでのポイントは、「禮」という手続きが、人間の感情と知性の総枠をコントロールし、集団化社会化していく際の具体的なツールであって、それをわきまえて身口意を仕様すれば一定の効果が得られるということ。「禮」とは単なる思想(つまり心の問題)ではなく、貨幣や武器のように具体的に人と人との関係や国家と国家の関係、宗教と宗教の関係を構築解体するものであることは、『陋巷に在り』で酒見賢一が描いた。
いかに家族同然であっても犬猫には禮は通じない。したがって生者が死者との関係性を具体化する「葬礼」においては、遺体をどのようにして運搬するかが重要事項である。
一方で葬儀において、生者(遺族・知友)と死者(臨終者)との関係を行為ではなく音声言語と身体表現によって提示するのが儀式である。この儀式において宗教は具現化する。
真宗においては以上のような人類学的なポイントや文化的見地を意識してか無意識かは別として、歴史形成の中できちんとポイントをふまえた「葬送儀礼と法式」を構築してきた。
①臨終に際しては、本人が最後の聴聞をかねて家の内仏にて勤行。阿弥陀経を聴聞し、阿弥陀仏の救いと願生浄土、往生成仏決定を味わう。本人が未信心な場合や勤行できる状態出ない場合、家族や手次の住職が代理して勤行し、本人には最後の回心の場とする。
②臨終後は、「禮」による清拭や着替えなどを行い布団に寝かせる。臨終中であることをふまえて、家族や知友のうち「暇乞い」をしたいものが臨終者に語るという形で「悔やみ」を述べる。それが遺族への「おくやみ」となる。この連続を臨終者に対する「夜伽」という。これが多くの人の参加によると夜通しとなるので「通夜」というようになった。
③真宗においては信心決定者は「臨終即往生」であるから、別離の悲しみをふまえつつも「浄土往生」といただいて、遺族知友の信心決定の勝縁とする。皆で勤行して称名念仏のご縁とするのである。これは通夜にともなって行う勤行であり、法座であるから調声(お勤めのリーダー)者と讃嘆者が招かれて、皆で念仏し勤行し聴聞する。布教がない場合は、蓮如師の「ご文章」を拝読する。
④通夜が明ければ、ご遺体に服を着せて納棺する。真宗ではこの際にも勤行し念仏のご縁とする。ちなみに納棺でもって遺体は亡骸。その亡骸を通して仏と遇うていくので、「納棺尊号」「入棺名号」と言われる本尊を棺桶に納める。遺体を拝むことはない。このとき、帰敬式予定者や信心決定者であっても帰敬式を受けていない者があって、本人の希望や遺族の希望があれば、門主を代行して「剃刀」して「法名」を授けることが、住職には許される。必要に応じて行う。
⑤したがって必要がなければ、「法名」はいらない。もちろん法名を何かに書いて人に見せる必要もない。したがって当流では位牌は用いない。あってもなくてもいいのであるが用いれば、礼拝の対象でないものを対象としてしまう迷いのもととなりご本願を疑うことになることが多い。既に帰敬されている方は折り紙が軸で「法名授受」されているので、それを荘厳してもいいが基本は必要ない。
⑥納棺が済めば、内仏にて「往覲偈(おうごんげ)」納棺勤行する。シャバを出て、浄土へ向かうのであるから、「シャバ世界を出発(往く)して、真実の王・アミダ仏にまみえる(覲)のだよ」というお釈迦様の仰せを聞く。
⑦ここで遺族・知友は、葬儀バージョンに入り「儀式」に望むべくファッションを整える。いよいよ棺桶(ご遺体)が家を出る。その前に『帰三寶偈」を勤行、聴聞し、遺族知友もまた故人にならい、仏法僧の三寶に帰依して仏弟子となるべく、この葬儀を縁とするということを相互で確認する。こうして葬儀場へ出発する。
⑧家から葬場、葬場から火屋という、2度の行列が「葬儀」である。葬儀の道行は「野辺送り」ともいい、列をなして遺体を尊敬する形で葬送する。この際「路念仏」を調声は称えて、皆に念仏を促す。
⑨火屋に向かう途中で結界越、つまり生きている側の便宜上、非日常の空間と区切られた世界に入ったところで、いよいよ死者は戻らないことを参列者全員で確認し、浄土往生を間違いのないものと聴聞するために「勤行」し「称名念仏」のご縁とする。これが葬場勤行である。当流では正信偈をいただき親鸞聖人同味の如来のお慈悲を味わわせていただく。
⑩葬場から火屋(遺体を火葬する場所)まで再び葬列を組み路念仏。火屋にては、「重誓偈(三誓偈)」を勤行し、弥陀の救いを重ねて聴聞し、遺族知友の信心決定の勝縁とする。
⑪火屋にて骨が焼きあがったら、収骨する。収骨の際もしくは収骨が終了した時点で、先ほどの葬場にて、収骨勤行として「讃仏偈」を勤行し、法蔵因位の本誓が生まれたその所以を聴聞する。
⑫遺骨を自宅に持ち帰った時点で、還骨勤行を家の内仏もしくは手次寺院にて行う。阿弥陀経二首引きもしくは添引念仏和讃を勤行する。還骨の布教があれば行うがなければ、蓮如師の『白骨のご文章』を聴聞する。
こうして葬送儀礼に真宗法式をミックスして、死者を葬る文化と死者の再生を示す「真実教」の弘法が追体験されて発展継承されるのである。
さてさて、堺斎場。この⑦⑨⑩を禁止するわけだ。どんな権限でか?????
一見してわかるよう、⑦⑨⑩の禁止は「家族と教団の信教の自由」を脅かす。それだけではなく我が国の葬送文化の破壊する政治である。
おそらく堺市は、葬儀と「勤行」をごっちゃにしている。また、宗教と民俗の区別ができない。つまりもっとも近代的な設備をもつ斎場おいて、最も愚かで文化的素養のないものが「葬儀」を指図し、宗教と文化を破壊し続けているのである。
そしてもっとも腹立たしく悲しいのは、堺斎場を今までも使用してきたであろう、堺やその近辺の真宗僧侶が、そのことに異を唱えずに唯々諾々と「誹謗正法」しかつ、葬送文化を破壊することに手を貸していることである。
もちろん、その中には「本来葬儀にはかかわらない」という方針の剛の者がいらっしゃって、放っておられるのならそれはそれでいいのだが。
とにかくここ数年、葬儀社や家族や企業や行政が、愚かな知恵を振り回して、僧侶分の領域を踏みにじることが目立ってきた。「仏法」や「布教」にともなう儀式に外道が口だしするのである。末法も極まれりであるな。
売られたケンカは買うという性分である。怒り心頭である。煩悩であることは承知であるが、「重誓偈」を読むな!と、ご法義を侮辱されては黙っていられない。堺斎場には公開質問状を送り、まじめにケンカしようと思う。
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2011年07月12日
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