ここから本文です

スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

書庫過去の投稿日別表示

全1ページ

[1]

なぜ節談か? 総論

イメージ 1
現「林家」師弟の看板(繁盛亭)
 
丹羽文雄は真宗の寺で生まれた作家である。その丹羽が小説の中で、『節談説教』を批評している。
 

本堂では、説教がはじまっていた。勉強室まで、きこえた。声に抑揚をつけ、うたい文句のところでは十分にうたい、高座の説教師は、善男善女を手だまにとっているようであった。浪曲に近い肉声の魅力が、聴衆をうっとりとさせた。鈴鹿もたびたび説教なるものをきいていたが、問題をだし、その解き方をしめして、答えまで説教師はだしてみせた。そのかぎりでは、理解にくるしむことはなかった。が、人生問題は数理とはちがっていた。方程式の解き方をいくらしめされても、抽象世界の問題では器用に納得がいかなかった。方程式の解き方は、自分が苦しんで納得しなければならないもののようであった。説教師は、これほど安易なありがたい教えが何故わからないかといった調子で、答えばかりをくりかえし、ありがたい節まわしで押しつけた。ひとのよい善男善女は、ありがたい答えをおしつけられて、自分でもわかったような錯覚におちてしまうのかも知れなかった。わかったような気もちになる。実にありがたがっている情緒で、念仏をとなえた。念仏をとなえずにはいられない雰囲気を、説教師は巧妙につくりだした。説教は、中途で休憩がはいった。説教師は高座を下りて、奥座敷にかえった。すると、寄席の休憩時問にもの売りが客席をあるくように、世話方が粗末な、四角な盆を、あちらこちらにちらばらして歩いた。うけとった参詣者は、なにがしかの賽銭をいれて、となりのひとに渡した。それが順ぐりにまわされて、最後に世話方が盆をあつめてあるいた。
(略)説教が終ると、説教師は目の前の黒い箱から高田派の御書をとりだした。第一頁をあけて、事務的によみあげる。 「……世間には王法をうやまひ、公方をあがめ、国主地頭の法度をまもり、公役所当つぶさに沙汰をいたし……」 今日ではまったく通用をしなくなった名詞をならべて、おかしな教訓を垂れた。よみ手自身も、時代錯誤はすこしも感じていない風であり、たれも矛盾につまずきもしなかった。
 勉強室の鈴鹿は、説教師の浪曲調になやまされると、はらがたった。しみじみとした対話調子の方が、参詣者の胸のそこにもとどきやすいのではないか。しかし、大勢を相手のときには、統制する意味からも一つの調子が必要のようであった。それにしても、浪曲のまねはいやだった

主人公の鈴鹿の述懐(下線)に見られる、受け止めこそ、漱石以来の日本近代文学のテーマであった。
 
ヨーロッパ近代と前世代においては否定し視野の外におかれていたキリスト教的世界観と人間観が、まさに雪崩をうって脳内に飛び込んできた世代。
 
明治生まれは、日本と近代世界との断絶を生きるという状況を与えられ、近代的自我の確立という、表現は悪いがサルのオナニーのような循環の輪に貶められたのである。
 
近代化→西洋の模倣と移植→オリジナルな近代へという「進歩史観」は、実は左翼(今は「サヨク」)から明治の元勲に至るまで、同根であった。これは、現代でも続いている傾向であり、マスメディアに特に残存する。「アメリカでは…」「ヨーロッパでは…」という紹介の仕方や口調に明らかに、遅れた日本と進んだ西洋、という構図がうかがえる。
 
共産中国が躍進して「進んだ中国」ができたら、この構図が崩れる。あるタイプの人々にとっては、明治以来の「近代日本」という構図の書き直しが迫られるわけだ。
 
古代では「中華・インドでは〜」といい。儒教においては「朝鮮では〜」といい、それぞれその構図が書きなおされた。それが歴史である。
 
さて、仏教は「無我」が真理と教えるのであるから、「近代的自我の確立」なんぞは世迷事である。
 
丹羽が描いた「近代的自我」の確立というベクトルから見た「節談説教」は、まさしく陰画となって、その「近代的自我」を批判する。
 
確かにこれが「没我」となったとき、ファシズムへの協力や世俗権力への無制限お追随を生み出すのであるが、御承知の通り浄土門は、「煩悩具足の凡夫」と自我を放棄しない、できないという人間観が基礎にある。
 
だから、「実にありがたがっている情緒で、念仏をとなえた。念仏をとなえずにはいられない雰囲気を、説教師は巧妙につくりだした」と丹羽が描くよう、「念仏のみぞ真におわします」ので、いいのである。
 
「南無阿弥陀仏」と称える宗旨である。それを見失って、「理解」や「批評」を求めて、つまり「理性」を発達させたら、縁起を見失って「無慙愧」のものが多数うまれただけである。個の確立ではなく「孤立」である。
 
そして、皮肉にも「念仏を称える」という行為そのものが、こっぱずかしく時代遅れ、という感性を育てて、「法座」は痩せ衰えたのである。
 
しかし、大乗仏典に依れば、仏法は正法輪身の菩薩による三輪説法(身業説法・口業説法・意業説法)の菩薩道に実践的に展開されるわけで。その口業は「四弁八音」と言われる。
 
四弁とは、四無礙智・四無礙解・四無礙弁のこと。教えに精通している法無礙智、教えの表す意味内容に精通している義無礙智、いろいろの言語に精通している辞無礙智、以上の3種をもって自在に説く楽説無礙智。これを理解力でいうと「解」となり表現力でいうと「弁」となる。
 
八音は、如来の説法の音声に備わる8種のすぐれた特徴。極好音・柔軟音・和適音・尊慧音・不女音・不誤音・深遠音・不竭。八種梵音声である。
 
また、経典そのものが聞書きであるから、経典(書記されたもの)を考察すると、12部経というジャンルわけが成立していて、そこでは、〈ニダーナ〉〈アバダーナ〉という
由来譚や教説の譬喩・因縁譚がある。また、〈ギヤ〉や〈ガータ〉などの韻文、すなわち節を付けて読誦されたものもある。
 
つまり仏典=説かれたもの、説かれるべきもの、であるのだ。
 
ライブの音声で語り謳い上げられるものとして、仏法は現象する。これは、講説というテキスト読解のもつ専門性と分析性には劣るかもしれないが、「四弁」にあるように、それを踏まえて大衆的に語るというベクトルもちゃんと示されてある。
 
つまり、思弁性も具体性も欠けた説教、というのは、単に不十分なだけであって、高座での譬喩因縁説教を排斥したり、否定する理由にはならない。
 
いやむしろ、その問題点を意識しながら進めれば、高座布教という伝統スタイルの付加価値と、譬喩・因縁説教というまさに大乗仏教の王道は、必ず「聞法」と「称名」をもたらすと言える。
 
 
 
以下は難解なことを書くので、関心のある人だけ。
 
 
今やっと世界は、多元的世界観や脱近代を次のベクトルとして選択しつつある。また、万能の人間観や直線的宇宙観(進歩史観や救済系世界観)に疑義が生まれているのである。
 
フッサールからロラン・バルト、そしてジャック・デリダミシェル・フーコーなどが、書かれたものを中心に情報の交換(ネット時代にはこの考察は必至です)や、オーラルコミュニケーションや、セックスを含むボディコンタクトに対して、哲学の伝統からジャンプして新しい考察や定義を述べています。
 
そこから場と状況とヒトに依存するパフォーマンス分析へ。ジョルジュ・バタイユジル・ドゥルーズ。それにはアントナン・アルトーに淵を発して、ピーター・ブルックにおいて大成する演劇論に至る別流がある。
 
これまた不思議のご縁で、演教連での「ワークショップ」と水上勉の『ブンナよ木からこりてこい』公演などで巡り合った、のちにアニーなどの演出で知られる、青年座の演出家・篠崎光正からの縁で、ピーター・ブルックを知った。(20代から30代前半のnazuna演劇体験ツアーも大きな財産であるなあ)
 
フェリックス・ガタリから、nazunaと同世代のオタワ大学のピエール・レヴィに至る大きな思想界の潮流は、情報社会論やヴァーチャル・リアリティ論へと展開されつつあるヴァーチャルとは何か?―デジタル時代におけるリアリティ』昭和堂・3045円(本堂や仏壇の荘厳論に援用できます)参照。
 
ちなみに、nazunaの大学卒論の「ファンタジー論」は、ガストン・バシュラールの詩的想像力分析と科学知識の獲得論に基づき、バシュラールはおっ師匠さま。その弟子が、科学史家でありながらその著述は「詩」としか読めないかのミシェル・セール。セールとフーコーは大のお友達。でその弟子がピエール・レヴィなので、レヴィとnazunaは同門である(モチ、こっちが勝手に言うてる)。
 
仏法ではすでに、三輪説法(身業説法・口業説法・意業説法)と唯識において、同程度の考察は考察にとどまらず実践的に展開されています。
 
何のことはない、周回遅れであるとあせって無理をしていたが、「大乗仏教」はトレンドになるのである。一周回って先頭である。そして、観念的にはコミュニケ―ションを絶した「念仏」こそが、現象的には真理からの呼びかけとしてコミュニケートし人と人をつなぐコンテキストとしての唯一性にはたらく。
 
無意識に伝統を生きた説教師たちは、「念仏」に浸る状況を生み出したのであって、実はそれこそが必要な実践であったのである。
 
最後に残る大きな課題を示す。これは現代的であり、今のnazunaでは、大乗経典の勉強不足でまだ、お示し(ベクトル)が見いだせない。もちろん現代哲学も社会もこれを今課題としている。
 
障碍者論である。「聴覚など受容作用が比較上少ない個体におけるパフォーマンス論」である。具体例では「障碍者のセックス」や「色彩心理」、あるいは病理学にも及ぶのだが「アレルギーとアトピー」。そして脳機能論。
 
もちろん、「節談説教」そのものの問題ではないが。しかし、「聴聞」というとき「聴覚のない人や失われた人をどうとらえるのか」。或いは、「視覚障害の人には荘厳(形色光)が見えない。それをどう伝達するか」であり、声を失っている人に進める称名とはという問題である。
 
(これらは、ディスクール考察にもかかわる、テキストとしての「経典」批判問題にもいたるので、今のところは個人的に消化するしかない状況であるが、人類全体の課題である。いづれ解答が迫られる事態はそこまで来ていると思われる。ただ、ここで三輪説法の可能性に思い至るのであって、意業・身業として成立する世界は確かにある。詳細はいづれまた)
 
 

全1ページ

[1]

nazuna
nazuna
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1
2 3
4 5 6 7
8
9 10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21 22 23 24
25 26 27
28
29 30

最新のコメント最新のコメント

すべて表示

ブログバナー

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事