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大坂本願寺の推定図
ご開山(親鸞さま)の法事が終了して、いよいよ次の50年に入る。
本願寺が新体制を築き、それに対して「民主主義の否定」であるとか、いろいろと意見が出ている。
そこで、今現在の議論の中で、特に気になるものを取り上げて、私見を述べようと思う。これは、宗門の後輩たち(わが子も含む)への、メッセージでもある。
まずは、石山合戦ととりあげる。
石山合戦とは、元亀元(1570)年から、天正八(1580)年まで続いた、織田信長と一向宗徒を中心とする本願寺勢力との戦いである。
当時、本願寺は大坂・石山にあった。本願寺八代目の蓮如上人の隠居所がその始まりであり、山科本願寺が実如上人から証如上人へと継職されたあと、京都町衆や法華一揆に焼き討ちされて、本願寺が移転したものである。
この当時各地で一向一揆といわれる地侍や土豪や百姓の中から「一向宗門徒」が中心となった連合体が、地域を支配したり自らの権益を守るために戦国大名と対抗する状況があった。
ちょうど、前回のご遠忌の1961年から1980年代は、マルクス主義史学がさかんであり、この一揆連合を、いわゆる「民衆のゲバルト革命」に比するような論調が、さかんに展開された。
周知のとおり、進歩史観というキリスト教世界観に基づく人民史観が「科学的」と称されて、日本共産党を中心にプロパガンダされ、これに史学的にも政治的にも与しないものは、「反動的」とされたのである。
今となっては、説明しがたい空気であるが、歴史のシンポを妨げる存在というイメージで「反動的」という言葉は使われて、仲間内(それぞれの世間)で、そうみなされたり言われたりすると友達も遠ざかるような風潮が大学生・知識人に存在した。
この歴史観では、戦国大名は人民の自立を抑圧して支配下におき、封建体制を形成していく主体であるとされて、織田信長に反抗し人民をまとめた「本願寺」は、ある種のヒーロー状態であったのだ。
しかし、それがヒーローなら当然のこととして、織田・豊臣、そして徳川の時代の、東西本願寺は悪役となる。すなわち、「人民を裏切り、武家の封建支配に力を貸すことでその地位を確立した支配的宗教団体」であると。
まあ、今でもこんな頭の人が沢山、わが宗門にはいらっしゃるのでありまして。
そこでまず、この虚妄を明らかにして、現在への見通しを考えていく。
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