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比較的手に入りやすい新書。まあ、トンデモ本ですが。これ一冊でも本質がよくわかります。
山折哲雄氏である。
「わがまゐらん浄土へはよもまゐりたまはじ」と元祖・法然上人にいわれる山折氏であります。
なにせ往相・還相の二種回向を「学生に魂が往復する」と説いたらよく伝わったとご機嫌なお方である。
私が御門主なら「度牒を返せ」というところであるが。
まあ、彼の著作年表を作り、それと戦後の宗教事件年表を重ねてみるといい。
一例をあげれば、「オーム」真理教などの第三の新宗教、チベット仏教や新密教などの神秘主義ブームの時には、「神秘主義」という本を出している。法然上人、親鸞聖人のご遠忌にかけて、さらには阪神大震災と地下鉄サリン事件のとき、蓮如上人のご遠忌のとき、そして昨年の東日本大震災と、時流に合わせて本を書く。かせぎどき、という出版社の意向に合わせて書かれる人です。
浄土真宗の僧侶であられますが、ご法義をよろこばれている節はありません。残念なお方です。
さて、少しだけ内容を紹介しておきますね。残念!でとどまればええのですが、一般社会の人に害毒を流しているともいえますので。
まず、上記の本は2010年8月に岩波書店から新書として出版。
真宗の教学には全く無頓着。読みたいように読む、というのがこの人のスタイルです。もうおわかりのとおり、解読者としての自己を全く問わないままに、解釈されて悦にいっておられます。
ですから、総序の解説からトンチンカン。弘願に帰することができない人が「弘願」を解説するのですから。
阿弥陀さまの真実を明らかにして、それが衆生の上では「信」につづまるという、当流の特徴が無視される。
「親鸞はわれわれを最終的な目標に向かって誘う。「悪」を転じ「徳」の知恵を引きよせよ、と。」
「悪を転じ、徳をなす正智(しょうち)につけ、といっている」 →山折説
(原文は以下「総序」の太字部分である)
ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。
しかればすなはち浄邦縁熟して、調達(提婆達多)、闍世(阿闍世)をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり。これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。 かるがゆゑに知んぬ、円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なりと。 しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡なく、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。 ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。 ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。 太字部分の主語は、「円融至徳の嘉号」である。中学生でもわかる。すなわち、阿弥陀如来のお名乗りである「南無阿弥陀仏」の六字名号のことであって、ご開山親鸞聖人は名号のはたらきを讃嘆されているのである。それが、山折氏は、「親鸞が悪を転じて徳をなせ言う」と読むのである。
さらには「愚禿釋の親鸞」というお名乗りの「釈」を解説するのに、
「われわれの社会では仏弟子、僧侶のことを「釈子」と言いならわしてきた。(中略) それが、親鸞につらなる浄土真宗の門流では、後世、死者の法名の上につける象 徴語となった。「釈……」とあるのがそれで、、死者の謙譲語とも、死者に対する尊 称語とも解することができる。
と、浄土真宗を貶める。帰敬式を「死ぬときの準備」として理解されているのであろう。宗派に聞いてみたいものである。
また、タイトル分析にも珍説をふるっていわく、 「顕浄土真実教行証文類」とあるから、強調したいのは「教、行、証」であるとして、総序の青太字部分を無視するのである。特に最後の「真宗の教行証を敬信して」を素直に読めば、如来のお手元での「教、行、証」が衆生の上では「信心」となることが、真宗の要であることは、わかりそうなものであるが。
そして、なのに章立てでは「教、行、信、証、真仏土、化身土」と、「信」が入り「真仏土」と「化身土」が入るのは、構想の修正である、と主張されるのである。
まあこれ以上はコメントしなくともいいであろう。問題はこんなお領解の人を、宗門もときどき招き、自由に発言させていることであるが。
『親鸞の浄土』など最近の御本を見ても、全く本願力回向を受ける身で著述されていないのであって。そこで、法然さまのおなげきを今一度。
大師聖人まさしく仰せられてのたまはく、「信心のかはると申すは、自力の信にとりてのことなり。すなはち智慧各別なるゆゑに信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまはる信心なれば、源空が信心も善信房の信心も、さらにかはるべからず、ただひとつなり。わがかしこくて信ずるにあらず、信心のかはりあうておはしまさんひとびとは、わがまゐらん浄土へはよもまゐりたまはじ。よくよくこころえらるべきことなり」と云々。
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