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singlle40さまの紹介で古書で購入 岩井三四二氏の出世作
ついぞ見落としていたのであった。
菅浦文書が小説化されていることが、かすかに記憶に残っていたのであるが。
説教旅が一段落して、夜間の生徒さんのことや自坊や自身のことに、向き合える時間がとれるようになった。そこで、何かゆっくり読もうとして、紹介していただいたのがこの作品。
蓮如さまが活躍された時代から実如様の時代にかけて。惣村の自立とは、内部への厳しい統制と検断<裁判処罰>を含み、血縁同族集団を核としながらも年齢構成と中世的土地所有から形成される上下関係を軸として、成立していた。
一方惣村の外部では、古代以来の庄概念が大枠として生きていて、さらには当該政治権力との関係に、質入れ売買等の経済関係が錯綜して、土一揆と徳政という時代を迎えていた。
寺社権門と在地権力。さらには、地頭代官支配という中世的な政治関係。年貢さえ上がっていれば、在地の問題に関与しないからこそ、地域間の矛盾は武装した惣村が実力で解決していくことになる。
当流の僧侶の中には、未だに一向一揆が反権力であり中世を終わらせて輝かしい民主的な世界、「上なし」を実現したのだという妄想を事実だと思っている人がいる。
そのようなロマン主義的な立場で、リアルな政治努力や細かい人間関係の調整をすっとばして、「親鸞へ帰れ!」と観念主義で、オウム真理教顔負けの認識を垂れ流し、現実の教団を批判し、溜飲を下げるという悪癖がはびこっている。
是非そういう方に一読願いたいものである。小説とはいえ、まあここまでリアルに描いたものであるなあと感心させられた。公事訴訟を巡っての、賂やら接待やら。
そして現実に隣村と血で血を洗う闘い。鎌を木にさすという流儀のことやら、死者を出した家の保障のことやら、また隣村との手打ちのありようやら……。
豊田武御大から、惣村研究の主流である仲村研の方々。石井進先生から勝俣鎮夫先生、そして藤木進先生。近年では蔵持重広先生やら田中克行先生まで、さまざまな歴史研究を取り込んで、見事なフィクションを構成されています。
さて、以上のことを一向一揆の成立にかかわって申せば、小説に描かれた複雑な在地関係が一元化されることによって、生産と流通の確保により、確実に在地の百姓侍が豊かになります。
また、公事訴訟においても領国支配の中で、在地関係の中で解決が得られるという利点が生まれます。本願寺やその代理寺院、或いは坊官が、地頭や代官の機能を果たすわけで、本願寺が本所としてふるまうわけですね。
もちろん、そこには中世的な支配を破壊する方向と維持しようとする二種類のベクトルがあり、本願寺はむしろ中世的な仕組を擬制する方向をもちます。社会関係を政治権力を通して改変することよりも、社会関係は維持しながらも実質的には同一信仰をベクトルとした戦国領主制へと移行していく。
これがnazunaの一向一揆の歴史理解です。したがって、一揆内部においては常に反領主制的なベクトルと、領主制へのベクトルが併存して、それぞれの地域一揆の様相を規定します。
最終的に一向一揆が解体されるのは、戦国領国を超えた公儀権力の創出過程で、政治支配の一元化というベクトル、それは過去のブログで繰り返し述べてきました「自力救済から安全保障へ」という民衆の願いに一定支持されるベクトルの障害となったことがその理由であると理解します。
自治というのがいかに過酷なことなのか。それをこの作品から十分に、理解していただけると思います。
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