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『まほうのカメラ』木暮雅夫 フレーベル館(2012) 1000円
あらすじ)といっても、紹介不能。仕掛け絵本です。一枚のページをめくると、まほうのカメラで風景が一変する。小さいお子さんでも楽しめます。リクツぬきで、視点が変わると感性が帰られるという体験ができます。自分の視点が揺さぶられる体験をすることは、仏教入門といっていいでしょうね。
讃題:ほとけの誓い 信ずれば いとおろかる ものとても
すぐれし人と ほめたまい 白蓮華のとぞ たたえます (しんじんのうた) (一切善悪凡夫人・聞信如来弘誓願・仏言広大勝解者・是人名分陀利華ー正信偈)
昨日はご讃題掲載忘れでした。ゴメンなさい。
2日目(14日)は、『まほうのカメラ』 私たちの「煩悩のメガネ」による偏りについてを話す。 竹島問題を語るまでもなく、善悪は人や地域、またその人のおかれた状況によって変わるからやっかいである。
昨年の地震の後のこと。兵戈無用コンサートに来ていただいた、やなせなな(梁瀬奈々)さんから、現地で感じていることを語っていただきながら、涙の中で学んだ。
1年たちこの7月にYTVで、彼女の特集番組が作られた(「関西情報ネットten」という番組で、特集はストリーミングでネットで見られるので是非視聴していただきたい)。
その彼女の番組の話から入る。
今、なお、いろいろな支援が求められている(と他者が感じる)状況がありながら、日常に埋没して、その回路をシャットアウトしている私。
もちろん、中東の地震があり。豪雨での被害があり。はたまたグアテマラやシリアやら戦闘中の国があり。「見上げてごらん夜の星を」を歌いながら、そこには一人ひとりの人間の「喜怒哀楽」があり、涙や汗があることに思いをはせる。
私たちが生きるには、そういうものをただの記号として、メモリーにほおりこんでいかなくては、感情への刺激信号が多すぎておかしくなる。知らない間にそういう処し方を繰り返してそれが「あたりまえ」になる。
如来の願い、すなわち「どんなあなたであったとて、それを問うことなく、全ての命に等しくかけられた、ブッダになってくれ」という願いに、ふれてこそ、そういう頑なで固まってしまった「自己」に目覚めることはできない。
まほうつかいのパット・トッタ―のカメラは、いわゆる日常のピンチを写し取るがそれを全く違う、なごみや喜びの画面に変える。仕掛け絵本の真骨頂。
パット・トッタら、風景が一変する。そこから新しい地平の人生に変えられる。南無阿弥陀仏をいただくとは、視野が変わるということ。
念仏して弥陀の願いに生かされるものをば、仏・菩薩さまがたは、プンダリーカ、白蓮華のような人と、お誉めになるのである。
最後に、セリ弁のかわりに「光あふれて」をみんなで合唱。
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2012年08月16日
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