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伊藤麻衣子(箏演奏家)と田畑裕美<フルーティスト) これから二人セッションの機会を増やしていくとのこと。
いいコンサートでした。
おなじみの曲というコビ方をせずに、それぞれの楽器の力、自身の技量を信じての、音の出会い。
二人がつけたタイトルどおり。「和と洋、心の出会い」というコンサートになりました。
曲は以下のとおり。
プレ:真宗宗歌(フルート)
敗戦の日を想う:住職による詩の朗読(「ナンクルナイサ」高丸もと子)
①春の海 / 宮城道雄
②エーデルワイス
③夏の小曲 / 宮城道雄
風鈴
線香花火
④シリンクス / C.ドビュッシー
⑤南山手-グラバー邸〈回廊夢舶来〉-
「長崎組曲巻一より」 / 飛山桂
(休憩)
⑥トルコ行進曲 / W.A.モーツァルト
⑦クレッセント / 吉崎克彦
祈詩REN-MEN
⑧浜辺の歌 / 成田為三
アンコール:唱歌・故郷/岡野貞一
お箏とフルートの組み合わせ。ありそうであまりないのです。邦楽界もクラシック界もそれぞれに、がっちりとした徒弟制度のようなものがあり。
でも、⑤や⑦など、オリジナル曲では、お箏の倍音とフルートの倍音が、きれいに重なる瞬間が何度かあって。全く違う楽器の音に聞こえてくるのです。
「南無阿弥陀仏」のお名号から聞こえる、それはもう、浄土の音楽でした。聞けば、飛山桂さんと奥様の百合子さんは、お箏とフルートの奏者であられるとか。また、17弦という新しいお箏をつかい「TOKYO KOTO派」を結成されている、吉崎克彦氏のセンスもすごいなあと。
20代の二人には少々荷が重いかとも思ったコンサートでしたが、なんのなんの、音楽的には言うことなし。
いささかたどたどしいMCも年配の観客には「初々しい」と、大受けでした。
もっと、お客さんを集めて沢山の人に聞いていただきたかったなあとも思いました。
終演後、お向かいの「GENJI]でお食事。
お寺コンサートに二人は意欲的なので、もっともっと他のお寺にも呼んでいただきたいものですね。
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2012年08月17日
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『うきわねこ』 ぶん蜂飼耳 え牧野千穂 ブロンズ新社(2011) 1470円
讃題は同じです。
15日の絵本。歌は「光あふれて」「光にみちて」やっと最終日で親鸞さまにたどりつく。
あらすじ)
ある日、えびお(このねこちゃん!)のもとに、おじいちゃんから誕生日のプレゼントがとどく。それは、うきわ!
おとうさんやおかあさんにはないしょ。夜になって、そっとうきわをふくらまし、つけてみるとあれあれ。
えびおは空へとまいあがる。そこでは不思議体験のオンパレード。同じくうきわに乗ったおじいちゃんが待っていた。
おじいちゃんといっしょに、海へ行きお魚釣りをして大きな魚を一緒に食べて…。
でも、これは一度きりのこと。うきわはえびおをおじいちゃんと一緒の世界へ連れて行き、またえびおの日常に連れ戻す。それからもう二度とは、空とぶうきわにはなりません。
でも、えびおは…。
絵本の展開が、nazunaには往還二回向に思えたもので力技(笑)。おじいちゃんはふつうに実在しているかもしれませんんが、そのあたりは読者に委ねられています。
お話はオリンピックのことから。
「オリンピックが終わりましたが、日本はメダルを何個とりましたかねえ」
「38こ!」と子どもにお年寄りからも声。
「じゃあ、日本選手は何人ロンドンへ行きましたか?」
「………。」
100人ぐらい?200人?
「実は、293人です」「へえー!!!」
「役員をあわせると518人。そのほかに、各競技ごとにお世話をする人を帯同していますから、相当な人数ですね」
実は閉会式の録画を見ていてはっとしたのでした。
「あれ、いつのまにかメダルを取った人しかオリンピックに参加していないことになってないか?」と。
人の話ではありません。人気のある競技はTVに映ります。日常に狎れてテレビの目でしかオリンピックを見ていない私がありました。
私たちはそのように、知らない間に偏った目で外部を見る。都合の悪いことはなかったことになる。だからこそ、「あなたは不完全なんですよ」「あなたは善悪や美醜、強弱や勝敗という相対的な価値にとらわれてしか生きられないのですよ」と思い知らせてくださる、外部からの声、まなざしに「遇う」ということが決定的に重要なのです。
ヨーロッパから発祥した近代社会とその価値観は、人間を至上のものとするがゆえに、強固な自我を求めます。しかし、人類は自ら築いたその強固さに縛られて、互いに対立し誇り合うという構造から逃れられません。
如来が声となり文字となって聞かしめる真実とは、世界を二重に構造化する営みです。現実と物語、シャバと浄土。相互において存在する実存です。
こんな難解なことを、すーっと絵物語にしてしまうお二人はただものではありませんね。
何回お墓詣りをしても、この仏法にあわなければ、自我肥大にブレーキはかかりません。「今年もちゃんとお参りした」「ご先祖にありがとうといった」「ちゃんとお寺さんにお経を読んでもらった」などなど、自分を安全に強固にするだけで、自己を疑う契機になりません。
親鸞さまは、そのような自我に苦しまれつつ、確かに如来に呼び出されたのは「私」であるという実感を持ちながら、日本社会の既存の宗教的認識構造のワクを超えた生涯を送られました。罪悪深重の凡夫が本願力回向によって、現世の正定聚として生かされるという在り様を、その御身で示されたのでした。
このゆえに、今にいたっても、世界は親鸞さまに追いついておりません。現在のわが本願寺教団ですら、まだ後追いの最中であります。
2012の最後の紹介絵本。絵のステキさからもオススメ。是非手にとってくださいませ
(未完ながらウサギを主人公にした全く同じテーマのお話を絵本台本として娘に2005年に渡してありました。でも、こっちが先にできちゃった。残念)。
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