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小学館ビルが取り壊されるそうである。マンガ週刊誌として、nazunaが初めて読んだ「少年サンデー」!40円
人間と書いて「じんかん」と読む。
世間ということ。
お経では「衆生」と出てくる。時代が下がると「有情」とも訳されて、原語は「サットヴァ」。在るという意味での生きものか?感情や意識あるものという意。
また、「バフジャナ」という言い回しを意訳して、お説教では「衆多の生」ということがある。これは時間軸が意識されて。多くの生命現象を輪廻しているという意を述べる。また、現象的には共時的に多くの境涯の違う生物が宇宙中に溢れているさまをも述べる。
つまり、類としての人間という観念が仏教の前提にあるということ。
話変わるが、ペットの葬儀。そういうと眉をしかめる先生も当流にはいらっしゃる。しかしそもそも、人間の葬儀だって仏教がかかわる必然はないわけで。
法事だって行ってもいい。全ては仏教を学ぶ「縁」となるならOKじゃないか。もっともそう考えが整理できれば、
「あれ?今日殺して食った、ハモの葬式していないなあ」
「畑のキャベツをいただいて丁度一年か。よしキャベツの一周忌をしよう」
というのもアリでしょう。
「受け難き人身」と仏法は言う。類としての人間を他の生物とは「境涯が違う」と区別する。それはもう、現代では「あたりまえに」人間だけが特別だと類内では理解されているのだが。
その特別が実は人間自身を縛り苦しめると見抜かれたのが釈尊であるのだが。その人間感覚を外に広げて、「子ども同然のポチやタマ」が生まれる。
でも、反対はないのですよ、念のため。あなたが先に死んでも、ポチ・タマは葬式してくれませんから。
ましてや「親同然の人間の法事があるので、今日は散歩を止めて、実家へ帰ります」と、他の類はいいません。
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2013年08月15日
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