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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

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11月30日の研究会に、若手メンバーが参加することがわかったので、基本スタンスを示す文章を、2010年に機関紙に掲載したものから、増補修正簡略化してまとめたものあである。御参考までに。
なお、メンバーから「節談説教」者が差別者の如き扱いや、「節談説教」そのものが問題視なされる、という報告もあり、それに対する説明としても、役立つであろうかと思うので掲載しておく。


「節談説教」の再構成とは―現代布教として(加筆増補版)   

①「節談説教」は、『説教の歴史的研究』その他にて、関山和夫氏により命名された。それを代名詞として使用する。実際は高座による譬喩因縁説教である。

②小沢昭一氏の「日本の放浪芸(語り芸)」の収集活動により音源化されて、芸能的に認知された。これ以降、随行修行者でありかつ、現役としての力を誇る、名古屋の祖父江省念師と、能登節の茂利宗玄師や広陵兼純師などが音源化され、真宗僧侶にも注目された。

③けれども、この真宗伝統の説教は、地域によってはなお盛んであったが、全体としては次世代への継承がなされず激減した。

④今日、研究会に集う仲間の僧侶たちの多くは、世間一般と同様に、レコードやテープにCD、そしてDVDという「記録媒体」で、この「説教」を知る。故に、研究会ができるまではそれら音源をそのままコピーすること、説教記録を丸ごと暗記して実演するのが基本であるという観念がある。

⑤これは、説教者以外の僧侶にも通じる理解である。そして、「そんな古いものを今さらひっぱりだしコピーする意味は何か」「江戸教学や戦時教学の問題をどう考えているのか」「人権感覚の鈍感なものの集まりではないか」等々という批判が生まれる。それは間違っているのかいないのか。

⑥先師の説教の丸暗記だから「古いものをひっぱりだして」というのは妥当である。随行修行という伝統的な師資相伝のスタイルはそうである。しかし、経典は説教記録。また、先師の著書もまた講義録や説教記録から生成したものがある。つまり、先達の言葉を丸ママ受け取ることそのものを問題にするなら、仏教そのものが成立しなくなる。

⑦そうすると、丸暗記が問題ではなくて、そうする価値や意味を問われていることになる。

その第一義が「説教の構成」法を学ぶということである。

⑧説教は「五段法」で構成されるのが基本。讃題、法説、譬喩、因縁、結勧、の五部分である。また、讃題→説法(法説・譬喩・因縁)→結勧と、三部分に分けてみると、これは序分・正宗分・流通分、という経典の構成と同じであることがわかる。つまり伝統説教の構成を実地の聴聞を通じて学び(自身が説教者たることを前提として)、自分でその構成法で台本を書き、実際に語るという、ローテーションは、真宗の根本である「自信教人信」の実際化といえるのである。

⑨次に「江戸教学や戦時教学の問題をどう考えているのか」「人権感覚の鈍感なものの集まりではないか」という批判である。これは「話の成立」が聞き手との関係性に依存することから起きる問題を指摘している。どういうことか。

⑩現存する多くの説教本(聞書や覚書)は、讃題について複数席、多い時は百席談となっている。現代でも二席一座。報恩講や永代経などでは、三日間五日間はざらであった。そうすると、一席一席がきちんと五段法にならない。各席で譬喩や引用文が重複したり、二席で五段法になったり。

⑪いうまでもなく法座はライブ。その時の会場や聴聞衆によって変化する。年齢性別、人数、聴聞経験、そして地域性などなど。実際の布教では現場の条件に合わせることが求められる。「随行修業」はそれをも教えたのである。目の前の同行との共同作業で「話」を成立させるには、聴聞衆の常識や先行経験に依る必要がある。そこで、既存の社会の価値観が持ち込まれる。「説教の譬喩・因縁、セリ弁に、和歌や俳句に俗謡や音頭、落語に講談や浪花節、歌舞伎・浄瑠璃の物語までが取りこまれる。一旦は「俗情と結託」する。それは最大の魅力(長所)であるが、欠点ともなる。ある時代の人々の価値観や感情を前提にするということは、時代や社会が変われば通用しなくなるということだから。また、人々の生活感覚や常識が変化し、有る時代の価値観が否定されれば、テキストとして残った音源や文章には、「今」に通じない表現が残ることになる。それだけでなく批判にあるように、「お慈悲をいただく邪魔」になったり「誤った仏教理解や社会観を生む」ことにもなる。

 『法華経』には「ハンセン病者は法華経を謗った報い」という思想が表現されてある。お経も説教記録であり第三者の手によって成立した仏説であるから、ハンセン病を特別な病と見るインド社会の価値観を前提として説教されたのであろう。この教説はもともと「仏教への帰依」「釈尊への帰依」を促すために用いられた戒めの譬喩であったろう。だが、ハンセン病が軽度の伝染病であり治癒可能な病気である今、この法華経の説は錯誤であるだけでなく「ハンセン病者は仏罰」にて救済不能と、差別を認めを広める教説になってしまう。

 真宗の法話説教でもよく取り上げられる一休禅師であるが、先輩の養叟を「河原者に禅を教えた」と誹り「穢多禅」と誹り、あげくのはてに「養叟が癩病になったのはその報い」と決め付けていることをご存じであろうか。また、毛皮をまとったものが寺の門をくぐろうとしてそれを押しとどめるのに、「お寺では革をまとったものは打つ(太鼓の譬喩)」と叩いて追い返したというエピソードは、子どもむけの「一休さん」にも紹介される。

 一休さんは賢い、面白い僧侶であるという枠には収まらない事実があるわけで、これらを批判できなければ「猟・すなどり」する者は仏教の救済外、社会から差別されて当然、という意識を助長はしても『撃つ』ことにはならない。

⑫以上をまとめると、

       Ⅰ.伝統説教を学ぶ価値はある。特に説教構成法としての五段法。

       Ⅱ.先師の完全コピーをすることは、学びとしての価値はある。しか

     し、それを自分の話として現代にそのまま実践してはならない。

      Ⅲ.時代と聴衆との共有として物語を語るのであれば、その表現は常に「上書き」されることが必然である。そうでないと偏見や差別を生むことになり、如来のお慈悲を傷つける。

以上からも、「聞き・書き・語れ」という伝統的な口伝の正確性がわかる。台本はやはり、自分で書かなくてはならないのである。

⑬さて、オリジナルの音源やライブの説教そのものには限りがある。しかし、台本(聞書きや覚え書き)やテキストの形で残っているものは多い。そこで、今後「節談説教」を豊かに発展させるには二方向が考えられる。

 一つは、手法の現代化である。五段法を学んだ上で、現代の芸能化を行う。楽器の弾き語り、既存の芸能(落語・講談・浪曲・謡曲・詩吟からラップやJ―POP等)のとりこみ、

 もう一つは沢山ある古典のテキストを生かす作業、再構成して現代化する作業である。これらの方向を見据えて研究・実践を続けていくことを提起しておきたい。

 

 

 

 

 


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