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Seven Daffodils Lee・Hays
「七つの水仙」 作・リー・ヘイズ 蕚慶典・意訳
僕にはマンションも土地もない。
皺だらけの一ドル札一枚さえ無い。
けれど、千の丘での朝を君に見せて。
キスと七つの水仙の花をあげるよ。
僕にはステキなものを買える財産は一つも無い。
けれど、指輪やネックレスを作るために月の光を紡ぐよ。
そして、千の丘での朝を君に見せて。
キスと七つの水仙の花をあげるよ。
ああ、七つの黄水仙が太陽に輝いている。
日が沈んだあとも僕らの夜道を照らすために
君に音楽と一かけらのパンをあげよう
そして、松の枝で編んだ枕をあげよう。
そこで君の頭を休めるために。
ギターを手に歌い出したのは、中学二年生の冬。同居していた従姉が大学でサークルに入り、歌い始めたからです。アメ民、アメリカ民謡研究会などというサークル。今なら、「軽音」でしょうね。つまりはフォークソング。 従姉はP.P.Mのコピーバンドで、vocal担当。ラジオに出たりコンサートをしたりでずいぶん影響を受けました。私もやがて同級生とバンドを組み、最初に歌った曲が、この「七つの水仙」。ブラザース・フォー版でした。
そのころはお寺の前庭にも、水仙が植わっており、こどものころに、最初に名前を覚えた花でした。水仙は書いて字のとおり、水辺の仙人。ギリシア神話でも「ナルシス」の生まれかわりとされ、少し首をかしげた人に見たてられるのです。
リー・ヘイズの詞は、幸せとは何かをもつことではなく、共に朝を迎え、あるものを分かち合うことでいいのだと教えます。水仙はギリシア神話では恋愛から逃げたナルシスが自死し水仙となる。つまり、水仙はエロスからタナトスへと引き込まれたものの象徴とも言えます。ならば、リー・ヘイズは、反対にその水仙をこの詞では、エロスの方へと引き戻しているともいえるのでしょう。浄土教は浄土を説き、そこへの往生一定を説きます。ですから、タナトスの流れで理解されることが多い。しかし親鸞さまはそれを「現生之正定聚」と切り返さて、今ここの命の讃嘆に収斂されました。信心歓喜とはタナトスの果て。しかし一念慶喜はエロスです。
阿弥陀様は、究極の苦である「死」を「至福」に変換されて、その心を受けるものと共に生きて下さる。外から何かを持ってくるのではなく、今既にあるものが喜びに変じる。それを共に味わう。南無阿弥陀仏と称えると、「いつでもどこでもいっしょだよ」「喜びも悲しみも共に分かち合うブッダだよ」「安らぐ場所と心をあたえるよ」と、エロスとタナトスの総合唱が聞こえてくるのです。
今月の行事 2月12日(木)午後2時〜 新説親鸞聖人伝1「桜花の喩え」 2月28日(土)午後2時〜 新説親鸞聖人伝2「磯長の夢告」 ★いづれも、DVD録画取りがあります。ご協力ください。 お朝事 7日、14日、21日、28日 午前7時半〜8時半 |

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