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尊師・赤松 以下の話と反対の僧侶さま
「ええまず、やはりええとこへいくにはええ名前をつけなければなりませんな。標準的なら30万、いっそうええ名前なら50万。特別なお方には100万というところでしょうか」 いや、これぐらい言わないと普段、仏とも法とも思わず、教団寺院僧侶に布施(寄付)をする、あるいはしようという心すらおこさぬ不信心なものが、簡単に「成仏できる」と思うていまうでしょうが。だから言うのですよ。 死んだひとのためというたら、反論できませんからね。初七日から七七日の中陰に百箇日。年回法要と、死者を成仏させるために、しっかりとお経を読んでもらわんとだめです。何?葬儀の後集まりにくいから、初七日は葬儀にかねて? 満中陰法要も集まりにくいからお骨上げで兼ねて??? 「けっこうけっこう。しないよりまし」「その分のお布施も上乗せします。そりゃあたりまえでしょう」「どうせなら7回分のお布施をいただければ全部まとめて葬儀の日に終わらせますが」 いやいや、これぐらいのことを言わんと、「お寺を支えよう」「教団のメンバーだ」という意識が育たん! 「〇〇宗の信者です、と名乗るのはおこがましい」ありさまだからねえ。方便、方便。 葬儀は人間社会で形成された文化。その発生から今に至るまで「人の死」を巡るさまざまな感情や推測(死者そのものではなく生者に投影された死者の意志や考え)が葬儀の場や時間において支配的である。 「何かをもって、生と死に断絶した関係を修復したい」「死への嫌悪や厭悪から、断絶した死者を取り戻したい」、これらの複合発展で「死者にアプローチし、死者からもアプローチできる」関係性を担保することが可能である」という思念に至る 中有における中陰思想と七日参り、追善という発想は、このようなところから生まれ維持されている。だから自らを、断絶された側、生者の側自におけば、自然なことでもある。 ところが、体系化された宗教は、他者の死を取り込んだうえで、「自らの死」をこそ問題にする。死の側に想像して身を置くのである。それは紙の裏表のように、つまり人生について、生きることについて体系でもある。他者の死を語りながら自らの生をとらえ直すというのが、妙味なのだ。 さて、追善や追悼や慰霊たらという宗教行動の心情は常に他者を問題にしている。なので死んだ人のことが中心の言説を説くと、それが皆をそっちへ縛り付ける。 煩悩肯定、自力肯定。阿弥陀仏の本願力廻向はどうでもよくなる。ってことを毎日宣伝している真宗僧侶は、自らの臨終を迎えた時どこへいくんだろうねえ。 |
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2015年05月28日
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