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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

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1903年 第五回内国勧業博覧会 絵はがきから 沖縄等七「土人」、と展示された「アイヌ」の人々
沖縄での機動隊員発言から 
時間的空間的利害的に先鋭化した場面に於いての表現考察


ある若い女は、わたしに言った。 「わたくし、ある毛皮屋にひどい目にあわされましたのよ、預けておいた毛皮に焼きこがしを拵えられて。ところがどう、その店の人はみんなユダヤ人だったんですの。」
 しかし、なぜこの女は、毛皮屋を憎まないで、ユダヤ人を憎みたがるのだろう。なぜ、そのユダヤ人、その毛皮屋を憎まないで、ユダヤ人全体を憎みたがるのだろう。(サルトルの記述から)

サルトルの引用はステレオタイプ化の例であるが、そこから自己に損害を与えるものに、誰でも彼でも「ユダヤ人め!」というシンボライズされた悪罵が出るわけではあるまい。或いは、ひそひそと「あんなひどい失敗をする雇われ人はユダヤ人じゃないお」「そうね、ユダヤ人に違いないわ」というアナロジーが行われるわけではない。

エスニシティやネイションを共有する集団が量的に優位であることを前提にして、つまり「みんながそうアナロジーする、シンボライズする」ということがあって、その量が質、すなわち「ユダヤ人は狡い、汚い。邪悪だ」という価値判断が言語表現と顕現し流通する。その現象がくりかえし立ち現れる時、それを私たちは「レイシズム」と呼ぶ。或いはそれを前提として、政治的社会的に排除或いは優越を行為するされることが再生産される支配概念を「レイシズム」と呼ぶ。

 思想・イデオロギーというものが切り離されて存在するわけではない。それはあくまでも考察対象化したときの符号であるから、行為された現象や個々の表現においてそれらは階層的に考察分析されるべきである。この点で、同様な性質である「ジャーナリズム」の当事者たちが、「差別語」であるとして、既成の通念や用語に依りかかってしか、反応できない貧しさが気になる。


 人の行為を分析するとき、アナロジーやシンボライズ、を心的作用を結果から定型化したと理解すると、修辞においては、メタファー・メトニミー・シネクドキ等、私たちが「譬喩」という表現で分析する。「さわるな 土人」という「土人」をどう分析するか。「シナ人」をどう分析するか。

 既にジャーナリズム側では、これを本土人=人種的日本人、沖縄島嶼民=人種の違う土人、という理解を示しているが、そうだろうか?これは、機動隊員の沖縄県民への一律「人種差別」という問題であろうか?これはそのような、「まつろわぬもの」へのメタファーであるのか。
 メトニミーは換喩と訳されるが、国会や国政政治家を「永田町」というよう、表現における近接使用や概念の隣接を利用して行われる拡大表現である。上記の場合は包含関係を利用している。すなわち、永田町に国会があるからである。
 シネクドキは提喩と訳されて、そのうちで、下位の表現が上位の表現を、上位表現で下位を示す場合をいう。ウチの僧侶同士で「おやま」といえば、本山・本願寺という寺院を指し、さらに浄土真宗本願寺派という宗派・宗門を指す、というように。
 この20代の機動隊員が「ネトウヨ」とアナロジーされて行くこと自体に危惧を覚えるのは私だけであろうか?

 発話状況を鑑みるに、「さわるな」とあるから、「土埃にまみれた人<汚い人<正しいことに従わない人<反政府の人<非日本人」という表現モデルの中から、最上位の概念形成がそこで、或いは集団的になされたと断定できるのだろうか。最下位、すなわち「土がつくからヤダ!」という嫌悪感の表出ではない、と言い切れるか?
 メトニミーとして、「地べたで寝たり坐ったりする人を土人という」という「自然<人工」「野蛮<文明」という構造であることもまた、否定はできない。

 これらの表現は、警察社会や教員社会、芸能界、そして電通などの、外部との差異だけでなく「使命」や「伝統」にアイデンティファイしていく集団、自らを特徴化することで様々に意匠をまとい自己主張を再生産する集団を前提とする。その集団を「この沖縄の、この機動隊」とするのか、「機動隊の中の大阪」とするのか、「機動隊一般」とするのか、「警察一般」とするのかで、事の位相が変わる。

 限定解釈か拡大解釈かである。

 いづれにせよ、そういう譬喩表現の際たるもので、かつ安易かつ肝要なツールが「隠語」である。警察社会がアイデンティファイするのは、その「使命」であり「役割」行動である。しかも企業やサークルと同じ人為的な仮想共同体である。ヒトは入れ替わる。そうすると20代機動隊員の発言は、①警察社会へのアイデンティファイの結果②そのツールとして現在、集団で流通されている「隠語」の発露、とも見える。
そういう推測をきちんと取材して当否を裏付けることこそが、報道する行為でありその現場主義であろう。しかし、既成の文脉でしかこの用語をメディアは解してしない。さらに、追跡している様子がない。かほどに、政治オンチであるのだろうか?

 大阪府警の上司である松井大阪府知事が「表現が不適切だとしても、大阪府警の警官が一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました。出張ご苦労様。」と労り、彼がとんでもないバカでない限り、「土人は上位概念の表現でシネクドキです」とお墨付きを与えられた。
 
 したがって、大阪府警(そこから類推される警察社会のうち機動隊など国家権力を代行する機関)において、「まつろうもの」と「まつろわぬもの」という二分化された価値を隠語により、再生産する構造をそのアイデンティティとし、それ自体を自己決定(或いは自己変革できない‐決定しているのは松井一郎をはじめ行政の長)ジレンマを、現在も強いらていることが明らかになった。
 そうすると、警察や機動隊への批判は的外れであることがわかる。ことは、暴力装置が必要か必要でないかという幼稚な議論ではない。警察機構がより、市民社会の形成に寄与していく方向で、私たちが観察し摘出し評価しているかが、問題なのである。そしてそれが、現行法下での行政である。

 意思決定できる「政治」において、公選制により主権者の忖度を受けている意識、「民主政治の根幹である代表者意識」、暴力装置に対するシビリアンコントロールの構築、こういう課題が①未徹底だから②そもそもそういう意識改革を警察に施策されていないから③必要が無いから(いつでも権力の意思で動くように)、できていないというの三段階の政治意識が想定される。
 そして、大阪府知事の発言は、明らかに③である。つまり、大阪府民全ての代表者ではなく、行政の長として「府や国家の意志」を優先するのだ。そのとき「まつろわぬもの」は排除され当然であり、そういう組織を府は警察に規定しているのですと。

 そのために成立している隠語表現は、むしろ役立つことであり再生産されるべきことであり(職場で日常的に使う、或いは上司先輩が教えるとか)、譬喩構造は放置したおく方がいいが、それを公で使うと「隠語」であなくなるので意味ないから、「不適切な表現」としているわけである。
 以上、機動隊員発言のうち「土人」発言と、それを擁護する松井知事のツイッター上の発言を考察した。警察がどういう規範で行動していくかに、常に主権者からの調査・評価が行われることこそ望ましいのであり、極論を廃して妥当性を、市民と共に考えていく姿勢が民主社会のリーダーの姿勢であろう。レイシズムは市民社会を優劣や利益不利益をその血統や身体的特徴及び文化習慣で分断していく現象であるからこそ、その価値を保持するものは、これを警戒しかつ自己点検していくことが必要なのである。
 最後に、このような民主主義を軽視し市民社会を支配することを求める人物を行政の長であらしめていることを恥ずかしく思う。パーティとしての「維新の会」は、機動隊員発言に一定のレイシズムを感じて、問題視しておられるのだから、違う人物を次の選挙では候補化すべきであろう。
 
 そして大阪府民は、安易な警察批判ではなく、警察権力はどう制限され、どう発露されるべきかを、これからも追求していかなくてはならない。




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