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ブッダは覚者。真実に目覚めた人。真実と自己同一化するから、真実の世界へ向かって死んでいくから、生生滅滅を怖れない。「生死出ずる」とか「死を越えていく」とか「四諦」といわれる認識から、正しい生き方を獲得する。
古来インドの思想からこれを見れば「梵我一致=ブラーフマンとアートマンの一致」となるが、釈尊は「無我」を説くから違う。
ブッダの生き方は「少欲知足」。
大衆に於いては、智慧のはたらきを最大限に引き上げるため、熱狂をきらう(不飲酒戒)。
五欲という人類がもつ根本欲求を否定するのではなく、「溺れる」ことを戒める。
無制限な自己拡大(不邪淫戒・不偸盗戒・不妄語戒)を厭う。
結果、資源を消費せず、自然環境を破壊しないように(不殺生戒)、理性的に社会を構築しつつ、出来うる限り他者の幸せを喜びとする生き方を奨める。
五体も地球資源であり、ここに返していくものとして、それを「生かせていく」はたらきを重視する。
それらを縁起と因果で説明していく。
さて、大乗仏教は再生された大衆仏教だから、「ブッダ』の生き方を理想としてそれを基準とし仰いで生きていくこととなる。
それは「利他」を理想とする生き方であるから、必然的に社会的に生きる。何も小難しい理論をふりかざさなくても、この社会のすべての「ひと」「もの」「こと」と私はつながっているという認識は、仏教の前提である。
浄土真宗は、私の上に「摂取不捨」とはたらく阿弥陀仏の願いのはたらきを受ける宗旨である。
「摂取不捨」とは、阿弥陀仏が私を自身のサトリの内(浄土)に生まれさせて、自身と同等のブッダに生まれ変わらせる、という願いが成就してはたらきとなり、「もうあなたの未来は決定した」と知らせること。
つまり、阿弥陀仏は私に「ブッダに成る身」と決定したとおっしゃる。それは、現在の私の有り様が、ブッダへの道とは真逆の生き方、すなわち親鸞さまの御言葉では「地獄は一定すみかぞかし」という状態でありながら、それを自省することなく、むしろ五戒を破り、欲を貪っているからである。
つまり、そういう生き方から転換してほしいという願いである。
その願いに信順するのが、念仏者だから、当然、生き方は「社会」へ開かれ、利他を求めていく生き方に自ずと転換していく。気がつけば、そっちむきになっていることに驚愕し、ブッダの智恵と慈悲に感動することを「信心歓喜」という。
これ以降は、称名を通じて「繰り返しブッダの願いを仰ぎ」、ブッダへと育てられていく人生であることを仲間と共に広がっていくことを、人生とするのである。
「釈」と名乗るのは、そういう人生を選択された(恵まれた)ということである。
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2016年12月31日
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