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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

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10月

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秋のピエロ(『月光とピエロ』より)  堀口大學
 
泣き笑いしてわがピエロ
秋じゃ! 秋じゃ! と歌うなり。
Oの形の口をして
秋じゃ!秋じゃ! と歌うなり。
 
月のようなる白粉の
顔が涙を流すなり。
身すぎ世すぎの是非もなく
 
おどけたれどもわがピエロ
秋はしみじみ身に滲みて
真実なみだを流すなり

 『月光とピエロ』は堀口大學の最初の詩集である。私は、住吉高校音楽部で男声合唱の課題曲として、合唱組曲としてこの詩に出会った。作曲は、「日本合唱の父」と言われる清水脩。大阪市天王寺区の真宗大谷派・佛足寺出身である。真宗では、「恩徳讃」の作曲家として高名であり、楽譜等音楽出版を開拓した人でもある。
 
 さて、この詩は『月光とピエロ』の2番目の詩。「泣き笑いしてわがピエロ」とは、私生児として生まれたフランスの詩人、アポリネールを指す。ピエロは顔を白塗りにして「とれない仮面」で人前に出る。マルセル・マルソーは、それによって「抽象的概念としてのヒト」を演出したが、ここで堀口は生い立ちから恋愛、戦争で被害を受けて傷心の日々を生きてきた詩人の内面を隠して絶えた姿をピエロとしたのだろうか。
 月光がほのかに彼を照らしだす慈愛の光りだとしたら、月光の中でのピエロを描くのは、世間の眼差しからの孤独を抱えて一生を終えた彼への哀惜であろう。そこで踊る孤独に共感し、それをこそ人生だと、堀口は歌ったと理解したい。
 後の詩で「コロンビイヌ・ピエレット」と称されるのは、画家のマリーローランサンで、二人の悲恋はフランスでは有名なお話。堀口は、既に別の男性と結婚していたローランサンと、外交官の父の縁でスペインで出遇う。彼女は堀口に、アポリネールの作品を紹介するのである。これによって、フランス文学者が一人誕生し、後の日本を代表する近代詩人・文学者と育ち上がっていったたわけで、感慨深いことである。
 
 この組詩の最後で、ピエロとピエレットはずっと踊り続ける。秋は黄昏から、落ちた夕陽と入れ代り月が顔を出す。月は太陽で見えない時もあるけれど、必ずそこにある。闇を破って悲しく美しく人を抱く。ナモアミダブツとは、そういう如来のお心である。旧暦の十五夜がくる。

報恩講ご案内 
  ご案内どおり、十月七、八日、と勤修します。ご参集ください。旭堂南海師の講談がSpecialです。無料で「講談」一席と、浄土真宗の説教と講談について、住職との公開対談をいたします。
 
○十月のお朝事 午前七時半〜八時半 お賽銭 毎土曜日 正信偈
   七日(行譜)、十四日、二十一日、二十八日
    ☆十月は常例はありません。
○十一月の行事
☆常例法座  十二日(日)午後一時〜 安方哲爾師 
 寺カフェ  午後三時〜 五〇〇円 
☆アンテナ・ライブ 二十五日 午後四時〜五時
 Two in One 神尾智子(Vo.)吉盛めぐみ(Per.)友澤秀三(Gut.)
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8月 巻頭「詩と念仏と」
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     西瓜の詩       山村暮鳥

         農家のまひるは

         ひつそりと

         西瓜のるすばんだ

         大でつかい奴がごろんと一つ

         座敷のまんなかにころがつてゐる

         おい、泥棒がへえるぞ

         わたしが西瓜だつたら

         どうして噴出さずにゐられたらう                            

 

             おなじく

           みんな

           あつまれ

           あつまれ

           西瓜をまんなかにして

           そのまはりに

 

   さあ、合掌しろ


 去る七月八日は、先代住職の命日。その父は西瓜好きで、それを知る方々から到来して、お内仏や本堂に、ごろんと大きな西瓜がお供えされていることが、壽光寺の夏の風物詩であった。
 私が子どもの頃は井戸があり、「さあ食べよう」と、縄でぐるぐる巻きにされ吊るされて冷やされた西瓜が、父の手で引き上げられ登場し、母や祖母がカットする。お盆に載せられた西瓜にかぶりつき。縁側から父の先導で弟と、ぷっと種飛ばしをしたことも思い出の一つ。高度経済成長と共に暮らしに余裕ができた頃、「これが夢じゃった」と、満面の笑顔で真っ二つにされた半球を、スプーンで掬って食べていた父を大笑いしたこと。暮鳥の言う通り、西瓜は家族をつなぐ夏の主人公であった。

 「あなたの命と共にありはたらいているよ」という阿弥陀さまのみ声が南無阿弥陀仏である。称えることは「聞く」ことである。放っておけばバラバラに生き死んでいく、自分勝手な迷いの「いのち」じゃないかと、ぴりっと塩味を効かせ(聞かせ)つつ、甘い「生命の讃歌」がこの口におでましになられ、胸にあふれる。

 「さくっ、とん、さくっ」と包丁を入れられていく音は、我が身を削って「生の喜び」を与えずにおれぬ「おはたらき」であったか。門徒とは、そう「合掌」せずにはいられぬ姿で、同一方向へ生かされていく称名念仏の「同行」のことである。

9月    巻頭「詩と念仏と」
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     りすりす小栗鼠    北原白秋

栗鼠、栗鼠、小栗鼠、

ちょろ〱 小栗鼠、

杏の実が赤いぞ、

食べ、食べ、小栗鼠。

 

栗鼠、栗鼠、小栗鼠、

ちょろ〱 小栗鼠、     

山椒の露が青いぞ、

飲め、飲め、小栗鼠。

 

栗鼠、栗鼠、小栗鼠、

ちょろ〱 小栗鼠、

葡萄の花が白いぞ、

 揺れ、揺れ、小栗鼠。

 「境涯がちがう」ことを知ることは、仏教を学ぶ上で大切なことである。 社会的差別を説明するのに、「業」概念を使用してきたという誤りの為、「業」概念を精緻に展開せず、放棄した経過がある。社会性を意識するあまり歴史性を放棄したのでは、別の誤りを犯す。
 「衆生」「有情」と「機」「我」いう表現があり、個と集団という視点があるように自然科学はどこに視点を据えるかで、「天文学」「物理学」「化学」「生物学」をいう領域を形成した。ミニマムを追求する「量子論」が進展し、そこからそれぞれの領域がクロスオーバして展開しているのが、21世紀の科学である。
 宗教もまた、あくまで「個人」に立脚した上で、『類』を構成する単位として「個」を見つめる視野をもつ。大乗菩薩道から誓願一仏乗へ展開する「浄土真宗」であればこそ、正しく「業」概念を説明すべきだと思う。
 「共業(ぐうごう)」とは、社会史と言い換えてもいい。私たちが言語を使用しコミュニケーションを通じて「社会(無意識)」や「国家」「会社」(意識)という集団で生きているという事実から、それを仏教において対象化できる概念が、この「共業」である。 同じく個において意識・無意識を通じて積み重ねられてきた「歴史性」を「業」とする。
 そして「
地球史ではなく宇宙史という最大巨視」もまた、仏法のはたらきを「時間軸で叙述」するというフレームで、「業」は語られているのであるから、作業概念である。「業」を固定すること自体が執着である。業で全てを説明すると個体差を、善悪や浄穢という「言説」に矮小化するから、必ず利害関係を伴う。ブッダに仮託された経典でも、テキスト化(言語化)されている以上、それは免れえない。業で認識し説明して、それを放棄していく世界へと展開していくのが、正法である。
 だから、正法を「業」で説くことは、顛倒であり誹謗正法だ。世bぞがどうとか、墓相がどうとか、「〜星人」とか、全て邪見からくる妄言である。
 
 さて、いったん入口の「業からの境涯」へ戻ろう。
 いろいろ言い方があるのだが、
『手をうてば 魚あつまり 鳥はにげ 仲居顔出す 猿沢の池』
という
道歌がある。奈良の猿沢池の畔の茶屋で行うと、池の魚はエサを貰えると、集まってくる。屋根の鳥は驚いて逃げる。茶屋の仲居さんは、お客の御用かと顔をだす。それぞれの身体と環境(育ち)で、一つの音のうけとりが変わる。「天、水を見れば瑠璃と思い、人、水を見れば水と思い、鬼、水を見れば火と思い、魚、水を見れば、室と思う。」と、江戸時代の説教で言われたように。
 私はちゃんと生きている。これが自意識。けれど、ブッダは、それを「地獄行き」の人生だとみそなわされる。ゆえに、「わたしがいっしょに生き(行き)、あなたの業を背負っていく」と、ついて離れて下さらぬが
、「南無阿弥陀仏」、リスとあなたはそう違わない。食べて飲んで揺れて遊んで。それでいい、と優しいお慈悲が仏さま。                  

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