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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

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2017年02月

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仏教精神として素晴らしい。しかし「返せ」という相手は直接的には米国であろう。
それを「日本帝国主義」であるとするのは、すりかえである。もちろん、「東京裁判史観」である。戦争を始めた「日帝」が悪いと。悪くないというつもりはない。しかし、戦争が外交手段であった時代いおいての「戦争」は、双方の外交的な駆け引きの結果でもある。現代史研究として、別の選択肢があり得たかどうか、シュミレーションはこれからである。

2000年代前半は、いわゆる月忌参りと年回法要の財施がお寺の収入源となっていて、これは現在でもそうである。ただ、これを「双方向お法施」とするには、法事のスタイルを変えないとダメだった。月120件、1日あたり4軒の訪問。そこで一軒あたり最低30分として、月忌の勤行は「正信偈六首引き」と「御文章拝読」として、親鸞聖人と蓮如上人の声がひびくようにした。

法事は追悼色を払拭して、「聞法・念仏相続の勝縁」とはっきりわかるような、表白と勤行から讃題を引いた「法話」で1時間とした。これはいっしょにお勤めといっても、しれてくれない、そして称名が後ろから聞こえてこない、という実態をふまえたもので、とにかく「門徒意識」を得ていただくことから、と案じたからであった。

大阪は空襲でやられたので、地縁が切れている。さらに、戦死・戦災死・戦争影響死と「異常死」が大量に起きたため、「死者祭祀」という意識が生き残った人々の「宗教意識」の中心であった。

「死者を祭祀することで送福・追善する」というのはリクツではなく、「異常死」した肉親・知己への感情であった。

だから、稲城和上に「大阪の人間は仏壇を死人の入れ箱にしてしまっておる。なんちゅうもったいないことをするかぁ!!!」と叱られて、「そうだそうだ」とうなずきながらも、死者祭祀を担当していただく檀那寺、という江戸以来の慣習に支えられた社会の側の受け取りと、教えを説く側とのギャップに、現場の住職は悩むこととなる。


この「追善送福」路線は手強い。なぜなら、私たちはずーっと後ろめたいから。

現在のトランプ米政権と安倍政権の有り様を眺めればわかるだろう。

あれだけ「日本自主防衛」「核武装する」「基地はいらない」「自主憲法制定」等、過激主張を繰り返してきた、安倍応援団「日本会議」が、「日米同盟堅守」という安倍さんや「トヨタはアメリカに投資しアメリカ企業の一員だ」と媚びる「TOYOTA]を、「国賊」といわない、批判しない。

私たちは「親族・同朋を空爆で大量虐殺したアメリカ」にしっぽを振る「ポチ」だ。

だから、「東洋文明と西洋文明は必ず衝突し、東洋が勝つ」「米英に代表される欧米植民地主義に対抗して、帝国がアジアを開放する」という「正義の戦争」である、と戦い死んでいった仲間に、まっすぐに顔を向けられない。

「神様」と祭り崇めて、我々の不甲斐なさに首を垂れるしかない。

こういう「鎮魂」の感情や論理が「国是」となっているのが、戦後日本社会の底流であり基調である。

しかし、このリアル遺族層が、全て死に絶えていく。戦後70年。19の息子を失った夫婦は100歳を超えて數えるほど。戦中を生きた人々も80〜90代。

この時期こそ過渡期であった。すなわち、「死者祭祀を合理化し市場経済の商品化していく」時期であった。

そこに路線転換のチャンスがある。

ここで、壽光寺は檀家制度の廃止を宣言し、「会員制」とはっきりうたうこととしたのである。



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          勇気を得た書でした

うして新たな方向性を抱えつつstartした壽光寺。
この時期には組の役員をし、教区の機関運動本部の委員会にも所属して、主として教員側で蓄積されていた「部落解放教育」や「歴史認識」それから「参加体験型の教育」を、宗派の方へ提案し始めた頃だった。

共産党と社会党の立場の分裂と、解放運動側の分裂によって、政治的社会的に混沌として、一般大衆の生理感覚から遊離してしまい、「差別」「反施別」「解放」というような言葉が手垢に染まってしまった中で、経済的優遇措置がなくあったあとの「運動」。

さらには、其の中に「ジェンダー差別」や「障害者差別」そして「外国人差別」と、「差別者退治では解決しないフェイズ」が生まれてきた。

政治レベル社会レベル心理レベルでの「人権保障」、という概念が要請される。それは同時にどのような「対立点」を有しているのか、その対立を隠蔽することが、「差別」ではないのかという、新たな問題を照射して、日本における議論や言語文化の有り様、さらには地域コミュニティの形成と崩壊、その維持という小社会の様相、そして家族や家族史が無効化される市場経済の支配と進行などが、全て関係性のある世界として視野に入ってきた。

世界的なイスラム圏国家とキリスト教圏国家の対立緊張(実は政治利権であったり、パイプライン建設という経済的利益問題であたりする)やユーロ誕生に至る融和の方向とが、同時進行するという世界史状況とリンクする問題の階層化と複雑化を目の当りする時代がきた。

それはIT革命と同時進行で起こり、結果、いよいよ釈尊と提示された「世界は全て連動していて誰しもがその外側ではいられない」ということが、より多くの人が実践的に実感される時代になった。

時代感覚として「仏教が要求される時代になった」と現在も感じるが、当時の宗門や仏教界の空気は、ゆるゆるな感じ。創価学会や幸福の科学という新興第宗教集団に於いてすら、「除災招福」レベルが中心で、権威の象徴のような「本部」「支部」ビルを建てるが、自らの宗教を拡大することと世界情勢がどうリンクしどう有効化というような考察を示さず。

そういう中で2005年、『お寺の経済学』が生まれた。http://1000ya.isis.ne.jp/1498.html

カール・ポランニーやモーリス・ゴドリエらの「経済人類学」が示す、市場経済以外の経済活動を寺院という場で展開してきた歴史事実(網野史学でも指摘されてきた無縁化からの貨幣経済)、キリスト教圏での教会の果たした社会的役割というものを照射する考察など、読みながら「そうだそうだ、そのとおり」「それが私がやろうとしていることだ」と、大応援団を得た気分であった。

そこで早速、著者の中島隆信慶大教授にコンタクトして、研修講師として大阪へ来て講演をしていただいた。けれど、残念ながら他寺の住職方の関心は薄かった。

しかし、10年後20年後、お寺が潰れていく時代が来て、さらには「選ばれるお寺」「捨てられるお寺」を社会や政治の側だけでなく、檀家・門徒そして一般大衆から選別されるだろうという予想をして、そこで「選ばれるお寺」「社会から必要とされるお寺」をハード・ソフトの両面から構想していた。現在に至るまで、この方向性には揺るぎはない。(ただ、日本全体でいくと、有難いことに我が宗派は、教えの力、その歴史と伝統で、都市部以外では、旧態のお寺で十分機能していることもこの6〜7年の布教体験で知らされた嬉しい事実であるが。それにしても、政治学や経済学を踏まえないと、過疎と地方棄民問題には僧侶は対抗できないと考えるけれど)

2005〜6年の2030年の予想
①個人・社会を支える「生きた教え」として「真宗」は、世界からニーズされている。だから、習俗に載らずとも「まっすぐに仏教・真宗を説く」ことで、よりコアで多くの支持者をえることができる。時代はホンモノ志向。
②しかし、それには、一定の大衆性のある「表現」が要請される。いわゆるPOPな芸術芸能ジャンルでプロとして通じていくぐらいの力量のある宗派やお寺の「パイロット(水先案内人)」たるプロ僧侶、スター僧侶を育成する必要がある。
③その舞台は、お寺に限らない。むしろ都市的な場へ進出ししかけていくことで、内から外へと宗門を開いていく。これが活動の柱である。より大衆的な展開を築きうるということである。
④しかし「マス・メディア」に乗るということはイコールではない。露出は消費される。特にTVは限定され矮小化されてエネルギーを失う。それを承知で利用しされるルーツである。

そしてそのときお寺は、
①公益法人としての価値、つまり市民国民がいつでも入ってこられて、恩恵を受ける空間として機能する。奈良京都の観光寺院の如くであるが、そこでのパフォーマンスはあくまで、現在的恒常的価値が優先されることで、差異化される。すなわち「個」が漂流するなら繋ぎとめるアンカーとなり、制度や因習に縛られて「個」がつぶされるなら軛を断つ利剣とな利『自由』を描く。そういう場が寺。
②具体では、建物や庭園や歴史遺産が一般に無料で開放され、定期的にイベントがあり、地域文化や芸術や芸能が行われる場であり、市が立ち等価交換や贈与、互酬という「市場経済」でない経済活動が行える場であり、その宗派宗教に限らず多くの宗教や哲学や社会科学、そして百科全書の如くに、あらゆる先行知見を提供する営みが可能な場であることである。ただし、規模は小集団に規定され大量消費を行わない。
③真宗僧侶はそも在家僧であるから、サンガの活動は土日に限定されていい。即ち上記の理想のお寺の運営主体は、寺族ではなく門徒であるべきである。すなわち、真宗寺院は門徒の道場であるから、門徒がそこを利用して地域文化地域芸術地域経済を断仕上げ支え発展させていくのである。このとき住職や法人役員たちは、そのファシリテーター(活動支援者)である。
④僧侶は道場の管理人夫婦としての報酬と個々のファシリテーターとしての報酬を受ける。現行の「葬儀」「年回法要」「墓地管理」など「死者祭祀」は継続して行うが、それはパートの一部となっていくべきである。
⑤この場合、対象地域を巡回したりできるアクセスを有していればよいので、平日は近所で門徒に雇われてpart労働や社員をしていても差し支えないし、むしろ素晴らしいこととなる。
⑥お寺は、憩の場、出会いの場、学びの場、楽しみ(遊び)の場、として地域に根付いていく。

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戦前の北御堂

退職と同時に、かつて夫婦がサークル活動を通じて学んだことを、改めて意識した。最大100人近く在籍していた教育系サークルで、既に地教委と協力して過疎地へ入り、子ども会活動を行いかつ、文化財(遊びや読み聞かせ、そして人形劇)を創作して小学校単位で展開するという、理論と実践の両方があるサークルだった。

我々夫婦は主として、「人形劇」の役者であり、台本作家であり演出家であり音響・照明など、舞台芸術は全て貪欲に学んだ。こn間、京都人形劇サークル連合「汽車」と人形劇団京芸や劇団京芸のプロたちに大変お世話になった。連れ合いは、京芸の座員たるべく研究生として劇団かよい。


私の方はというと。

学内やサークル内では主として「科学的社会主義」を標榜する青年グループが自治会を牛耳り、ドグマをふりかざして自己に懐疑的な青年を一定ひきつけていたが、私たちは「ホモ・ルーデンス」ホイジンガの読み合わせや、カイヨワの「遊びと人間」を先行知見として、実感(情感と納得)のともなわない「社会行動・政治行動」への批判点としていた。

さらに、フロイド的ドグマから自由になりたくて「心理学」から決別し、カイヨワ→バタイユ→バシュトゥールとすすみ、言語学的なフィクション論に強い関心をもち、ソシュール言語学から歴史記述と隠喩(メタファー)をフィールドとするようになり、物語全体がメタファーと意識される「ファンタジー」文学を追求する。

「指輪物語」、「ナルニア国」シリーズ、「小人」シリーズ、「邪龍ウロボロス」、「ゲド戦記」、「グイン・サーガ」シリーズと、SFからサディズムやフェティシズムまで渉猟する。少女マンガ批評も、萩尾望都や山岸涼子に大島弓子や竹宮恵子が登場したから向かったフィールドであった。


これらが、「騙り」=「語り」芸への関心へと収束していくわけであるが、いづれにせよ仮想現実を共有することで、人が自己の現実を知らないうちに客観視でき、同一の空間で再生していくことで「仲間意識」が生まれること、それが道場としてのお寺の本質だと知った。

そこで、①地域文化の収束点ーコンサートや講談落語浪曲に謡や民謡の練習や発表お場づくりをする②真宗の「おみのり」を衒わず、また歴史経過に縛られず、きちんと「仏教」として説く―先祖崇拝や葬式仏教をべーずとするもそこから羽ばたいていく方向で③実践が大事だから、週一回土曜法座をする。そこでお勤めをしながら、聖人ご和讃を一首一首ずつ味わっていく、という方針で地域や檀家に臨むことととした。

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1991年、父が病気のために大谷女子短期大学(現・大阪大谷大学)を辞職し、住職を引退した。私は、小学校教員生活をしながら急遽、継職して、二足のわらじをはくこととなった。爾来、四半世紀25年が過ぎた。父の在職を越えたわけ。


とだえていた「はなまつり」を復活した。はじめは夫婦劇団でパペットショーを数年。それから、児童演劇書評を書いていたご縁で、人形劇団クラルテに協力をお願いした。

「月二回の寄合(法座)」が原則で、常例講師は外部から招請。父が所属していた「仏と人」同人、「無名会」のメンバーさんを中心に出講していただいていた。永代経は、祖母の従弟の西王地壽眞師から、足利孝之師へ。報恩講は、梯實圓師から、師が勧学となられたので、天岸浄圓師へ。そして天岸師も多用となって、貴島信行師となった。

もう一回の法座は「婦人会」法座であったが、思い切って「聞法の会」としてこちらも誰でも参加できるようにした。正信偈・三部経を讃題にして法話する。前後席の呼吸を学び始めた。同時に、住職たるもの「祖師聖人のお伝記ぐらいは、諳んじて語れるようにならなければいけない」と感じた。これは、歴代住職とは、『報恩講の夜に「御伝鈔」を上下巻、拝読できなければならない』という口伝からでもある。当面は私が前半、父が後半と分担して学習したが、やがて一人語りとなる。

御伝記の学習中に、祖父江省念師「口伝の親鸞」と出会い、うちのめされて完全コピーをする。そこから、小沢昭一氏の仕事とつながり「節談説教」と出遇っていくのである。さらにはその台本たる、「説教本」が存在することを知り、収集と分析を始める。机を積んで高座にして、報恩講の朝一座を「高座説教」し始める。96,97年あたりだろうか?


また、お盆に各家庭へ棚経にいくということをすぐに辞めた。お寺で法座を12、13、14、15日開催するので、お寺へ参ってほしいと訴えた。家族参りを意識して「絵本法座」を開始、「Guitarー弾き語りの歌法話」も開始して、15日のご満座を「第二次世界大戦総戦没者追悼法要」として、7座をもった。


この二つには相当反発があった。「お参りに来るのがめんどくさくなったやろ」「婦人会メンバーの法座にいろんな人が入ってくるのは、いや」とベテランの同行や檀家から反発された。


もちろんご家庭に集金にうかがえば、収入は増える。けれども、13歳からこのお参りをずーっとやってきた結果、完全に「真宗教義ではないところへ檀家を連れて行っている」と判断したからである。

そこから、直球勝負でずっとやってきた。といっても、学校では新しい教育課程のデザインや導入されたばかりの「ゆとりの時間」「総合的な学習」そして、市の組織幹部として「部落解放教育」を中心として、「解放と自己実現」を目指す教育を創造していく責任を負っていたから、

寺務や平日の常例はできない。全て愛しき連れ合いの坊守が受けて支えていただいた。子どもたちは、8歳、6歳、4歳。ここから20歳を越えるまで、この親爺は「子どもをきちんと見ていない」のである。

忙中閑ありであったはずだが、子どもの担任を評価することになってしまうので、成績を褒めたり励ましたりを遠慮し、深夜に連れ合いから情報を聞くだけであった。

可哀想な娘たちであったが、走り続けている以上止められないプロジェクトがいっぱい。しかも別途、民族学級の立ち上げや外国人教育のオリジナルカリキュラムや教材集を作成していたし。

といううわけで、理想のお寺づくりは 2003年に小学校を退職してからスタートすることとなった。(続)

2月


記憶と記録  谷川俊太郎


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空襲後の北御堂

水に流してしまった過去を

あっちでは

ごつい石に刻んでいる

記憶は浮気者

記録は律義者

 

だがいずれ過去は負ける

現在に負ける

未来に負ける

忘れまいとしても

身内から遠ざかり

他人行儀に

後ろ姿しか見せてくれない


 二月は寒い。一年で日照時間が一番短いのは冬至で、そのあたりが一番寒くなるはずだがそうではない。実は夏に大地や海水に、貯えられていた熱が放熱されていくには、時間がかかる。現在の日照量だけでなく、過去に蓄積されたものが現在に影響するのである。

 私たちもまた、過去に囚われる。隣国から何回も恨み言を言われると、「大概にしてくれよ」と愚痴がこぼれ、「いい加減、過去は水に流せ」と文句を言いたくなる。

 それでもなお、過去に重ねられた歴史(共業)からは、逃れられないと仏教は教える。むしろそれを引き受けて生きろという。南無阿弥陀仏を「利剣の名号」と仰った先師がある。忘れたり無視するのでなく、宿業を認めた上でそれを断ち切るおはたらきの如来に帰依するとき、罪業深重であるが故に、開かれていくご本願の世界、共同して作られていく平等の世界があたたかく嬉しいのである。


○涅槃会 お釈迦様の御命日 十二日(日)午後二時〜 

       特別講演 楠淳證 龍谷大学教授

○聞法の会 二十五日(土)午後二時〜 

       節談説教「新説親鸞聖人伝⑯・三部経読誦」 住職 

〇お朝事 土曜日午前七時半〜 四日・十一日・十八日・二十五日


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