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例えばイスラム圏の社会なら、5度の礼拝は日常風景である。
しかし、一般的な日本人から見れば、それは特別な光景となる。
普段は見えないコミュニティを現前に創出させて、一つには疎外感・孤立感を生み、一つには、自分の帰属すべき集団を想起させる。
そしてそのいづれもないとき、シンプルに興味関心を抱く。
仏壇やお墓や神社やお寺は歴史的産物であり生活風景に存在するから、そこへ依存している無意識が意識化され、比較が行われる。
キリスト教圏やイスラム教圏に、浄土真宗の信者はどういう日常で現れるだろうか?
海外旅行をする日本人、海外定住をしている日本人が日常行為としてどういうパフォーマンスをするか。実は何もしていない。それより相手の文化にとけこもうとする。
そこが…?であり、鍵である。まず、日本社会で「称名」で違和感を与えられるかどうか?
ちなみに、ももクロの夏菜子チャンは「夜中のトイレは念仏称えて行くけどね」と歌ってくれているんだから、真宗関係者さんは称えましょうよ。
私たちは在家宗である。そして、仏教徒である。そのメルマークとしては「称名」、すなわち「なまんだぶ(南無阿弥陀仏)」と称えることしかない。
街中で或いは定時礼拝ではなく、一番シンプルでかつ特徴的であるのは、称名するということである。
ゆえに、伝道とは称名することである。
自信教人信とは称名である。
一般社会へ向かって、「さあ、なまんだぶと称えましょう」というのが、入口である。そして教学的には、それがイコール出口であるのだから、十分かつ必要条件である。そして有難いことに、この称名は東アジア共通の言語(文化)であるわけで、既に一定の共同体性を帯びているのである。
節談説教では「受け念仏」というのが伝統である。合いの手である。それで説教の場が盛り上がる。そして、合いの手でいいんである。私の中で「意義がない」念仏こそ、ホンマもんである。
意業になったら「本願称名正定業」になってしまう。そうではない。名号自体が正定業なんだから。如来の御手回しじゃないか。
賢しらに、20願がどうの18願がどうの、17願が…というからわけがわからくなる。まず称えること、同一行為を行うことが身体の共同性の発露ではないか。
称えた後から、教学である。そういう意味で前三後一は、称名につづまると言うところが現場の教学である。正行雑行、五正行を正定業と助業と分けて「行」を押さえる。その上で、行信一致という親鸞聖人の徹底を言っていくという過程でいいのではないか。
最初から六字釈をいいたければ、「真実の人生を生きて欲しい」とか「死で終わらないのち、死から始まる新しいいのちを生きて欲しい」「いつでもどこでもあなたと共に生きていきたい仏がここにいるよ」等々の、通仏教を踏まえた言葉を紡いでいけばいいと考える。
リクツは一応後で書くが、本当に解釈が必要かどうかは、眉に唾液をまぶして聞いていくべきで、蛇足としてください。
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2017年06月25日
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