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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

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(今は廃刊となったお世話になったボクシング雑誌。マガジンとセットで毎月購入していたなあ。ちなみに写真はユーり・アルバチャコフ。フライの名チャンプの一人。ムアンチャイ・キティカセムとの2戦やピューマ渡久地に圧勝した試合などなど。この号は大場政夫を越えた防衛戦のレポ。この伝統の上に亀田兄もいる。)

内藤VS亀田戦の視聴率が40%越えだそうだ。同慶の至りである。

で試合は高度でありました。昨晩は、会があってライブでは見なかったのだが。しっかり東芝RDーX8に活躍してもらった(余談であるがX9いいなあ)。

ウチに帰って10時半からゆっくり観戦と思ったら、連れ合いが「カメダ勝ったでえ」。(ああそうでっか。予想通りじゃ。しかし言うてしまうことはないじゃろ)と心に秘めつつ部屋へ向かった。もちろんそういうことを口に出してはコワクて言えないのであるが。


で、CMカット機能を生かして、コーヒー片手に12Rしっかり観戦…「なあ、カメダ勝ったで。知ってる?見た?」(うん、さっき聞いた。)「ノックアウトとちゃうのん」(はいはい)「どいうやったん」


しゃあないので、ミニ解説。

亀田兄の本質が出たいい試合やったよ。内藤さんのフェイントと間合いのつぶしかたや変則、テンポがちがうちゅうことやけどな、のフックやストレートを亀田が見切れるかどうかいうディフェンス部分とショートのカウンターとサイドに逃げるステップと鋭い踏み込みを生かした左ストレートと右フック。それにカウンターとなるアッパーをどこで打つかというラウンド展開でした。後半の4、5ラウンドは亀田兄の見切り勝ち。判定は順当です。私の採点では117−111です。


熱を入れて話しましたが、連れ合いは軽く「ふーん」と去ってきましたなあ。プロ好みの試合でしたね。


今朝の新聞を見ると、ジョー小泉さんはいささか辛口。これは日本のパッキャオに成ってほしいという期待でもあるね。確かに内藤ツメ、興毅ウケというパターンのラウンドであったからねえ。

けれどもジョーさん。王座決定戦で、猛打の川嶋を躱したクリスチャン・ミハレスはカウンターパンチャーから攻撃的になって、3年で選手寿命の晩年になりかかっていますぜ。


2006年のランダエタ戦について書いたことが亀田の本質で、彼は白井義男氏の筋の上に立つアウトボクサーである。がんがんファイトしていかずに、どうかどうかクレバーで足の速いスピードスターを目指してほしい。そしたら結果としてときどきKOがついてくる。それでいい(スーパーバンタムの木村章司選手なんか大好き!)


そういうファイトが好きなファンもいるのである。ポンサクレックも出てくる選手だから、格好のカウンター対象になるね。次の一戦は大変楽しみであります。

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(首都の市長となったアルゲリョ氏 中屋一生氏ご提供)

長谷川穂積が左ストレートからの返しの右フックで、またも挑戦者を葬った試合を HDの映像でくりかえし見ながら、スポーツとしてのボクシングの進化と完成度を想う。


先日、ライブラリーから大場政夫の試合を4戦連続(ベツリオゴンザレス、花形進、オーランド・アモレス、チャチャイ・チオノイ)で見て、その感を強くする。


ハルさんに支えられた中卒青年の大場にとって、ボクシングはスポーツではなく、生活そのものであった。


大場に限らず、かつてこの国では、「拳闘」とはスポーツなんかじゃなかった。nazuna も自身が空手少年であったし(極真カラテ・大山倍達じゃ!)ニシナリ生まれで、中学生期はとんがった朝鮮中学や近隣の腕自慢との出入りも経験したから、仲良しには相撲部屋からスカウトされたやつもいたり。ああ、その筋の方のスカウトは日常なのでして。


で、そういうヤンチャな男の子にとって、「拳闘」は特別なスポーツだった。ぶっとばすことが合法的であってかつ銭儲けになるということだ。


たぶん、三要電機に勤めていた親戚の関係で、白黒テレビが昭和34年には家にあり、そのテレビで「ボクシング」を見ているのであるから、50年になるわけだ。


白井義男氏の試合は印象にないが、初期の原田・海老原・青木のバンタム三羽ガラスの試合をテレビで、そしてフリークであったやはり中卒で働いていた親戚のニイチャンに連れられて、桜宮スケートリンクや阿倍野体育館での4回戦。そして旧の府立体育館でのランカーの試合と、結構生でも見ているんだなあ。


グローブとワセリンの匂い、ときにはこちらの頬にまで、飛んでくる血飛沫を浴びつつ、そこで「夢」や「生きる理由」をつかもうとする強いエネルギーを感じたものだ。


しかし、ヤマドダマシイ、岡山のジイチャンバアチャンと叫んだ、ハワイ生まれのポールフジが、その生きざまを渾身の力でたたきつけるフックを空転させ、二コリノローチェの技巧の前に沈んだとき、私の中での「拳闘」が終わり「ボクシング」が生まれたのである。


そこから、日本人の試合に匂うものと、世界戦で感じる外交人ボクサーのたたずまいに、何か違うスポーツでもしている感じをもつにいたったのである。だから、沼田・小林・柴田・西城、そしてガッツ石松や輪島幸一を追いかけて試合を見つつも、どこか日本のボクシングの後進性に気を取られて夢中になれなかった。


その「違和感」のピークが、ロイヤル小林VSアレクシス・アルゲリョ戦だった。スーパーライトまでいく時期とはちがい、フェザー級のアルゲリョのアップライトな構えから、小刻みに体をゆすりつつのばすジャブとストレートのスピードと強さ。そしてロイヤルを悶絶させたボディパンチの鋭さ。



思いだけじゃだめなんだ。それを形にする想像力と創造力が必要であることを教えられた。


さらに、そんな中でテレビ東京やNHKが衛星で中継録画してくれる海外の世界戦が、放映されはじめ、
いよいよアルゲリョに魅了されていく。


TV観戦した中では、対レイ・ブンブン・マンシー二をベストファイトとしたい。



そして以外にも海外のジム事情や選手育成のシステムについての情報が入りだすと、今度はアルゲリョのファイトが無骨に思えてきたのである。どう無骨かというと、同じスタイルで繰り返しをいやというほど行う。ガードでパンチを吸収し基本的なジャブストレートで試合を組み立てる。アッパーでの見事なKOもあるが、マリオ髯につぶらな瞳のリングの貴公子は、その実愚直なファイターではなかったか。



ニカラグアという祖国とボクシング界での成功との間で、スーパーウェルターでのA・プロイヤー戦のように、相手の攻撃に身をさらし打たれ続けても前へ出て、最後は、前のめりに倒れたのであろうか?その意味では、やはりわれわれ敗戦国の「拳闘」に通じるものを、アレクシスは体現していたのかもしれない。彼のようにスタイリッシュで紳士的にボックスすることが、かつての大日本帝国の憧れであったのkましれない。


アルゲリョに魅かれて、ウィルフレッド・ゴメズやサルバトール・サンチェス、そしてデュランにレナード、デトロイトスタイルのハーンズと、80年代はサッカーよりボクシングであった。そしてそのことから世界の政治情勢にも関心をもつことになった。


彼と同世代であり同時代を生かされたことに、深い感謝の念を捧げる。

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ありがとう、森島。ありがとう。



170cmに満たない身長でFWとしてトップ下としてずっと光輝いてきた君。


40年前に中学陸上のブロックでnazunaが全力疾走して400mの自己新を記録したあのトラックの中のピッチで、同じようにいつもぶっ倒れる寸前までプレイする君にどれだけの勇気をもらったか。

15歳でヤンマーファンになり当時、数えられるくらいの観客しかいない日本リーグの試合に声を振り絞ったのは、自身がバレーボールという肉体差が即実力差になってしまう球技を選んでしまい170cmのスパイカーであったことと無縁ではない。


それからnazunaは大型のポストプレーをするFWではなく、常に俊敏性(キレとスピード)を武器とするプレイヤーを愛し、魅かれ続けてきたわけで。


お寺や学校の仕事に追われていつしかサッカーから遠ざかっていたのだけれど。


久し振りの長居での日本代表戦(97年6月)対トルコ戦で何十年ぶりのスタジアム。美しい緑のピッチの中でのゴール! その躍動美。その運動量。そのひたむきさ。そこに森島寛晃がいた!


それからセレッソファンになり森島・西沢コンビに何度も歓喜の声をあげ、そしてそしてあのワールドカップのチュニジア戦の歓喜のゴールを迎える。


涙はもっといっぱいだ。2000年の最終戦。手の中にあったステージ優勝が逃げて行ったとき。2001、2003、2005の天皇杯決勝。そしてJ2降格。


スタジアムでテレビの前で、そして大型ビューで。何度叫んだことだろう。


モリシ、モリシ、モ、リ、シ、マ! モリシ、モリシ、モ、リ、シ、マ!


サッカーをもう一度好きにしてくれたプレイヤー、森島寛晃。


2008年10月30日引退。お疲れ様。そして沢山の感動をありがとう。今度はピッチの外から日本サッカーを支えてください。最後にもう一度


モリシ、モリシ、モ、リ、シ、マ! モリシ、モリシ、モ、リ、シ、マ!

誰かが泣いている。攻撃されている。困っている。そういう感覚は小さい子でも伝わるのであって。

「どうしたん?」と聞いたり。「何泣いてるの?」と慰めたり。そういう行為をする子を取り上げては賞賛し、「優しいねえ」「いいことやねえ」と認証する。


こうして、私たちは「いたわる」ということの具体を学び、自己の行動の中心に据えていく。「かわいそうやなあ」「辛いなあ」と、共感しあう場面をいっぱい作りだす。


幼年期から思春前期までは、共感と共体験を軸として人は生きる。ところが、その時期に「早期教育」と称して、塾・お稽古事通いが始まる。ウチの子だけが特別になる、という親の価値観で。

学校は勉強を教えるところではなかった。政治も学校にこない子どもを学校にこさせることが、長い間課題であった。その時学校は、みんなが集まる共同体社会であった。


そこが崩壊した。学校で「○○をしよう」が成立しない。80年代の半ばからだったと思う。放課後の予定が入り、バラバラになって子どもが束ねられない。


共感のない集団で、群れの中の安定を求めること程難しいものはない。だから子ども達は闘う道を選んだ。いじめるのはそのためである。誰かをいじめることで成立する共感。「デブ!」とののしることに参加することでできる集団。

だいたい集団の中の安定が必要な時期に、個を生かせて健常に成長させようとするには、その集団が与える安定以上の精神的安定を与える存在が必要なのである。溺愛、親バカと言われるぐらいその子にかかりっきりの人間が。

そこまでの準備のない家庭が、集団から子どもを切り離したら。子どもは闘うしかなくなる。いじめっこはファイターである。


で、長谷川の防衛戦。両まぶたを切って壮絶な12回戦であった。スピードパワーとも一級品であるが、この日は手数では圧倒されるシーンも。しかし回転力とタイミングは絶品であった。苦戦の原因は倒しにいったこと。ジャブをついてスピードで圧倒する方が長谷川らしいと思うが。

さらに今回、4R8Rに採点の公開という初の試みがあった。それで負けている方が発奮しリードしている方が守りに入るという現象も起きて、観客には良かった。

さて、子どものファイトに話を戻そう。流血してTKOの危機が長谷川にあったが、それはレフェリーが止めるから。さらにその判断基準はドクターのチェックである。反撃不可能な状態なら止める。


いじめが起きた時、そういう判断は誰がするか。現場を司るものである。子ども同士の関係をジャッジする権限は担任である。すべからく担任は、ファイトする子どものそばで経過を観察する義務がある。それが仕事である。

その担任が授業をするのはいいが、教科指導が主となっては、ジャッジはできない。ここに矛盾があるのである。だから、

平成の世の中で実態として「いじめ」や「子どもの人間関係の歪み」が多発しているのなら(事件報道はされるが増加しているのかどうかはまだ不明である)、担任制度を触ればいい。子どものファイトのジャッジを作ればいい。


さらに。格闘技はタイムが短い。つまり全身全霊をこめて闘うのは、他のスポーツとの比較で言えば、瞬発力で持続力ではない。わずか12,3歳の子がそういうファイトを毎日数時間35週間も続けられない、はずがない。いじめが日常化し把握しにくくなるのはそのためです。ルーティンになると儀式化します。そしてインパクトがいじめる側から失われる。一人本気なのはいじめられっ子ですから、無茶苦茶消耗スルのが道理です。

その緊張状態に疲れて自殺願望がでるんです。いじめられたという行為や事実の1つが死につながるんじゃない。保護者や教員は、学級や学年で子どもが行動するときの、そういう空気を察知できます。いじめられている子は、過緊張や過弛緩を見せますから。そしていじめっこ達は必ずかったるそうな笑いを浮かべます。集団との同化という感動すべき体験がルーティンになってますから。そういう空気。

ボクシングで言えば、筋書きのある八百長試合です。勝敗は決まっているので、かったるい。

世の教師保護者は、ボクシングをもっと観戦しないとね。最も科学的でかつ洗練された「野蛮」ですから、そこには多くの生活へのヒントがあるんです。

別の稿にも書いたが、かなりのボクシングフリークである。wowowのエキサイトマッチは今でも欠かさず見ているし、ボクシングマガジンも購入歴数十年である。

憧れではなくスポーツとして興味をもった。「なぐりあい」というレベルの西日本新人王戦お観戦から始まって、やってみようと思って親に隠れてこっそりとジムワークをしてみてつくづく感じたのが、酷なスポーツであるということと奥の深さである。

自分のパンチがとどくというとき、同一重量の相手なら相手のパンチもとどくということである。その距離というもの、それからリングという四角いスペース。空間と距離と自分の身体感覚。ところがそれを試合で発揮するには基礎体力が要る。そして筋肉の質も。柔らかい動きができるのかスピードがあるのか、様々な個人差や特徴がある。さらに。ラウンドマスシステムという採点がある。

ところが、それらに対して当時のジムや日本のボクシング関係者は「興行中心」であり、スポーツとしての分析力はなかった。ガッツ石松氏のコメントを聞いていると今でもそうか?とも思う。

強いパンチ力があろうと当たらなければ倒せない。また仮に当たったとしてもその衝撃を80%に和らげる技術や筋肉を相手が持っていたら倒れない。

技術とパンチが100のA対70のB対戦があったとしよう。結果予想はAの側の勝ちと大方は予想する。ところが、Aの側の維持力が50で、Bの側の維持力が80であったなら、12Rまで進めば5000対5600で、Bの側が勝利する。

またところが、その最終12Rで判定勝ち目前のBにAのやけくそで振り回したフックが入るということだってある。

選手たちは実にそのような100%の担保がまったくない形で最後まで闘うのだが、人間の自意識と実際の身体感覚は意識とズレルことが多いから、それを客観的に観察しながら的確なアドバイスをする存在、「セコンド」の力も結果に対して重要である。

さらにゲームプランをもとに必要な準備をするトレーナーの仕事、また大前提としての選手の身体能力さらに心理を理解し支えるメンバーも必要。つまり、チームで闘うことになるのである。

スポーツとしてのボクシングとはそれほど繊細で身体的にも頭脳的にも最高のレベルを求められる。日本のジムにはこのバックアップ部分やチーム機能が低い。さらにボクシングを「興行」と原始的な「なぐりあい」のレベルでとらえたがる。

確かに単純ななぐりあいは素人にもわかるし、結果も派手であるから人気も集まる。別の格闘技だけど、曙をリングにあげたりするのをスポーツとはいわない。おそらく曙本人に関係者たちが何らかのマインドコントロールをしリングにあげたのであろうが、殺戮を見せるのをスポーツとはいわない。だから対戦相手に加減をさせたりするのである。そういうことが可能なのも格闘技の宿命なのであるが…。

とにかくマイスター・ミゲールカントのように、ボクシングというスポーツの本質を知る傑出した選手の存在がボクシングを深化させてきたことも事実であり、興行成立の可否というスポーツとは別の要素に左右される、実情からは仕方のないことである。

リングを降りる時には勝者と敗者。年齢的に30前後がピークだとされるこの世界で、40をすぎても賢くずるく勝ち抜いているチャンピオンもいる。そういうところが面白くまた考えさせられる。

少しは魅力を語れたであろうか…???

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