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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

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石山合戦3

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本願寺顕如上人から荒木村重への、反信長合従連衡を求めた誓詞
阿弥陀如来(西方善逝)がまるで絶対神のごとく述べられている
 
 
大坂並み体制とは、一例でいうと以下である


一、諸公事免許の事
一、徳政行うべからざる事
一、諸商人座公事の事
一、国質、所質ならびに付沙汰の事
一、寺中の儀、いずれも大坂並たるべき事
 
右の条々、堅く定め置きかれおわんぬ。もし、この旨に背き、違犯の輩においては、たちまち厳科に処せらるべきものなり。よって下知くだんのごとし。
 
永禄三年三月日   美作守


これは、富田林寺内のものであり、河内守護の禁制である。もともと山科も大坂本願寺(摂津国)も旧秩序(室町幕府・細川京兆家体制)の承認した特権地であった。
 
 
八代、蓮如上人の第一夫人如了尼、第二夫人蓮祐尼は、伊勢貞房の娘で姉妹である。伊勢貞房は伊勢家庶流とされる。伊勢氏は室町幕府政所執事の家柄。つまりバリバリの政府官僚である。本願寺九代の実如上人はその息子。さらにその子の証如上人は、摂関家・九条家の猶子となっている。
 
蓮如上人期に、応仁の乱から戦国期に時代はかわる。荘園公領制が完全に崩壊し、律令官僚も幕府官僚も在地領主化し、それとともに惣村が現れる。
 
惣村、ムラとは、自治体である。荘園所有者は都にあって、その地の管理は代理者が行うのであるが、それが世襲化・特権化して自立すると荘園はその土地の住民たちのもんとしていく。要は税金さえはらっておけば在地の事情は中央は知らなくてもええのです。
 
勝俣鎮夫先生や藤木久志先生があきらかにされたように、家督が利権化して一族争いが激化し、そこに家臣団が付くという構造から、下克上はおきる。そのとき知行地では、実力で刈り取られてはかなわぬと、当然ながら自力救済、つまり武装化し連合して郷単位で結束しだす。
 
そうしなければどうなったか。村と村が入会地や山川を巡って武力衝突を繰り返すという戦闘状態が日常となる。自治を獲得するというのは、網野善彦が無条件で讃嘆した「上なし下なし」という自由平等の世界であっても、血で血を洗うことで「安全」「権利」が保証される社会であるということなのである。
 
そうなると、必然的にムラ自体の負担軽減と安全保障のために、ウチには厳しい村掟をもち、自断権(警察権と裁判権)をもち秩序形成を行い、外にはそれを安堵(認めて保障)する政治権力を求めることとなる。もちろん、租税と引き換えに。
 
こうして村々と領主化していく守護大名家との間で、領国は成立していく。そして、この相互保障が敗れれば、自力で戦うしかなくなる。これは勝利する側からいえば、略奪し放題である。
 
1549年以降に日本で活動した宣教師たちの記録を見れば、戦国の戦争は、藤木のいう「雑兵たちの戦場」であって、勝利した側は「刈り取り次第」、つまり土地財産を私有し、同時に住民を商品化していたという。一番儲かるのは、敗けた側の女子供を外国に叩き売ることであった。
 
また「ミミをきりハナをそぎ」というのも、拷問でもサディスティックな趣味でもなく、重たい首では数が間に合わんので、手柄のしるしとして行われた慣習である。その数によって領主からの手当(戦場臨時手当、ノルマ次第というようなもの)が決まるのであるから、雑兵たち(足軽、つまりかつて歴史家諸先生が人民とした百姓)にとっては、あたりまえのことであった。戦国の自力救済とは、まさに人民同士がナマで殺しあう世界であったのである。
 
少なくともそのような世界を、自由・平等のイメージで語ることはできないと思うであるが…。
 
のちに、秀吉の朝鮮侵略の際に、多数の朝鮮人のハナやミミがとられ、都にもたらされたのも、何も日本人が残虐なのではなく、戦果の客観的報告にすぎなかったのである(京都・豊国神社前にある)。もちろんそれが済めば、敵味方なく埋葬して供養するのもまた、当時の習慣でもあった。
 
 
このような時代背景の中で、安心して暮らせることが第一義となっていくのは必然である。
 
寺内はもともと門前町の発展形であったかもしれない。しかし、少なくとも山科本願寺建設の際には、様々な百姓が居住し、本願寺という宗教権威と同時に、加賀一国の守護と認められた蓮如教団という大きな政治勢力を背景に、室町幕府の守護体制内として、自治特権を持つ宗教城郭都市が意識して形成されたにちがいない。
 
それは「一宗の繁盛」のもたらしたものではない。戦国期の民衆にとって、寺内は上記の二つの力で「生命の安全と経済活動」を保障してくれる場であったのだ。
 
そうではないからこそ、蓮如上人は御文章でくりかえし、「親鸞聖人の御教えを聞け」「信心を得てくれ」と坊主分や乙名分に説き続けられたのであり、また「守護地頭に逆らうな(戦争状態を起こすな)」「王法を額にあてて仏法は内に深くたくわえよ」と言わねばならなかったのである。
 
守護大名が戦国大名化(領国意識の成長)して、直接の統治者として領国内の住民、百姓は職人、商人に国人層(地侍たち、要は武装している百姓のリーダー層)、と一種の契約のような形で、その安全保障・経済保障をはかり、地域間の利害を代表するようになると、実如期・証如期と本願寺自体が領主化していくのも必然であった。宗教的価値を上位におきたかった蓮如上人の志向は時代に合わず、時代に敏感な家臣団たちが地域の寺院・寺内を中心に、そのような現地のニーズにこたえて連合化していったものこそ、「一向一揆」の実態である。(それは時代の要請であったが、一方本願寺内部にれを宗教的発展の契機=仏法領の形成、としていくベクトルも確かにあったことも言い置いておく)
 
そこでは利害関係が第一であり、信仰は領主化の正当性を保障するものであった。冒頭の顕如上人の誓詞(資料提供:仁木宏・大市大大学院教授)は、時代は下るが、そのような論理をやがて本願寺自体が積極的に用いるようになった証左である。
 
※参考文献
「豊臣平和令と戦国社会」「雑兵たちの戦場」「戦国の作法―村の紛争解決」「村と領主の戦国世界」、以上藤木久志『中世民衆の世界 −村の生活と掟』岩波新書がわかりやすい。
「戦国時代論」「戦国時代の村の生活 和泉国いりやまだ村の一年」勝俣鎮夫。「一揆」岩波新書が入門編としてよい。
 
なお、戦国後期においては、久留島典子氏の研究が秀逸である。
 

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仁木宏・大阪市大教授による、大坂寺内町復元想像図
 
大坂本願寺・寺内町の復元図である。
 
『天文御日記』という資料によって、証如上人時代の大坂本願寺の姿とその寺内の様子がわかる。
 
また、順興寺実従(蓮如上人の第二十七子で枚方・順興寺)の日記である『私心記』さらには、『宇野主水(顕如上人右筆)日記』、そして『貝塚御座所日記』で、石山合戦後の本願寺一族と家臣団、ならびに実如上人下で成立した、「本願寺一家衆」「本願寺一門衆」の動向が理解される。
 
ここにこの20年の間にまとめられた、真宗関連の地方史を思いつくままあげると、
 
・福井県史(1993〜96年)  
・加能史料(1982〜現在も刊行中で「戦国⑩」まで刊行) 
・新修大津市史(1978〜85)
・兵庫県史史料編(1984〜97)
・姫路市史・史料編(〜2005)
・新修大阪市史(1988〜96) 
・新修大阪市史 史料編( 刊行中・「大坂城編」含む)
 
など。また、八尾市が新版を計画し5年後から刊行される。
 
nazuna  が一番得用できたのは「福井県史」で、デジタル閲覧ができるのである。
もちろん「一向一揆」関係資料は、全文コピー(府立図書館や国会図書館)して手元で読ませていただいた。
 
これらの地方自治体の史料発掘整理と地方史研究会の努力そして、書店の協力(中でも「岩田書院」さんという素晴らしい書店さんのおかげで)で、例えば地域の寺院や神社の文書も刊行されたりして、それぞれの時代の実態が明らかになってきたのである。
 
さて、ブログ読者には結論だけをまず記す
 
①大坂寺内町は、「戦国期の城機能をもった都市」である。したがって、本願寺阿弥陀堂御影堂、両堂はその天守閣に伍せられる。ならば、本願寺の宗主は当然、戦国大名である。また、下間一族は家老と旗本にあたりる。一家・一門衆(宗主の血縁)は譜代になり、門主一族の藩屏となる。
 
②寺内は信仰共同体ではない。大坂寺内でもおそらく、本願寺門徒は5割程度が最高であろう。推測では3〜4程度、つまり大多数は真宗信仰のものではないのが通常であったと思われる。それらは、まさしく生命の保障を求めて寺内に居住しまた、経済活動の保障を求めて寺内に富を集積したものである。
 
加賀一向一揆支配は、室町幕府から認定された支配で、織田信長など戦国大名から見れば、旧体制、すなわち天皇の承認による室町幕府を前提とした秩序の中に収束されるもので、大坂本願寺もまた室町体制を前提とした「大坂並み」特権の保障を各地寺内として成立させた宗教大名である。
 
④石山合戦は、本願寺側から仕掛けた戦争であり、護法の戦いではなく、あくまでも寺内特権維持を前提とした宗門の繁盛のための戦争であった。
 
⑤顕如期では、「報恩」の論理で対信長戦争に門徒を動員したのであり、教義的には大きな逸脱であった。これより350年のちの太平洋戦争につながる逸脱であったが、これは、宗門として未だに正しく総括されていない。
 
濃蹶・峡顛いずれか抗衝せん
梵王ひとり降旌を樹てず
豈図らんや右府千軍の力
抜き難し南無六字の城
 
頼山陽のこの文言には、どこにも信長が仏敵であるとはかかれていない。もちろん、顕如上人期には、比叡山の焼き討ち事件があったが、これも宗教的中立を求めた信長に対して、比叡山が明らかに中世的特権を維持する利益共同体として政治に関与し、浅井朝倉方に味方した事実を、信長が咎めたものである。後世の人間が勝手に信長を仏敵としただけである。何よりも頼山陽は、斉藤道三や武田勝頼よりも、総合的な戦闘力(動員力と武器技術ならびに兵站力)が優秀であって、唯一信長軍と10年にわ立って対抗したことを「六字の城」と褒めたたえているのである。
 
つまり反対から見れば本願寺は、信長方にとって近畿に根城をもち宗派という連合戦線を形成する一代対抗勢力といえる。それを倒すかもしくは連衡しなければ、戦国の世を終わらせるkとはできなかったのであって、信長方は通常の戦国大名の論理で行動し「宗教弾圧」という意図は全くなかったといえるのである。
 
すなわち、宗教勢力が現実の政治勢力として行動するならば合従連衡対抗の相手となるわけで、本願寺は室町将軍を擁する毛利方に浅井朝倉方、さらには甲斐の武田方と連衡して、信長に戦争を挑みそれに敗れたのである。
 
ゆえに、事実として、信長の元にも足軽百姓として門徒は存在したし、またいわゆる地侍や国人という「地域利権」を有する層もまた、両側に存在したのである。
 
 
 
 
 
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大坂本願寺の推定図
 
ご開山(親鸞さま)の法事が終了して、いよいよ次の50年に入る。
 
本願寺が新体制を築き、それに対して「民主主義の否定」であるとか、いろいろと意見が出ている。
 
そこで、今現在の議論の中で、特に気になるものを取り上げて、私見を述べようと思う。これは、宗門の後輩たち(わが子も含む)への、メッセージでもある。
 
まずは、石山合戦ととりあげる。
 
石山合戦とは、元亀元(1570)年から、天正八(1580)年まで続いた、織田信長と一向宗徒を中心とする本願寺勢力との戦いである。
 
当時、本願寺は大坂・石山にあった。本願寺八代目の蓮如上人の隠居所がその始まりであり、山科本願寺が実如上人から証如上人へと継職されたあと、京都町衆や法華一揆に焼き討ちされて、本願寺が移転したものである。
 
この当時各地で一向一揆といわれる地侍や土豪や百姓の中から「一向宗門徒」が中心となった連合体が、地域を支配したり自らの権益を守るために戦国大名と対抗する状況があった。
 
ちょうど、前回のご遠忌の1961年から1980年代は、マルクス主義史学がさかんであり、この一揆連合を、いわゆる「民衆のゲバルト革命」に比するような論調が、さかんに展開された。
 
周知のとおり、進歩史観というキリスト教世界観に基づく人民史観が「科学的」と称されて、日本共産党を中心にプロパガンダされ、これに史学的にも政治的にも与しないものは、「反動的」とされたのである。
 
今となっては、説明しがたい空気であるが、歴史のシンポを妨げる存在というイメージで「反動的」という言葉は使われて、仲間内(それぞれの世間)で、そうみなされたり言われたりすると友達も遠ざかるような風潮が大学生・知識人に存在した。
 
この歴史観では、戦国大名は人民の自立を抑圧して支配下におき、封建体制を形成していく主体であるとされて、織田信長に反抗し人民をまとめた「本願寺」は、ある種のヒーロー状態であったのだ。
 
しかし、それがヒーローなら当然のこととして、織田・豊臣、そして徳川の時代の、東西本願寺は悪役となる。すなわち、「人民を裏切り、武家の封建支配に力を貸すことでその地位を確立した支配的宗教団体」であると。
 
まあ、今でもこんな頭の人が沢山、わが宗門にはいらっしゃるのでありまして。
 
そこでまず、この虚妄を明らかにして、現在への見通しを考えていく。
 
 
 
 
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魚津「埋没林博物館」
 
縄文期の林が海の中にあった。蜃気楼の街、魚津へ。念願の訪問であった。
 
1930年、港の工事で発見された。片貝川の氾濫で埋もれた杉林が海面上昇で海底に沈んでいたのであった。
 
日本列島の歴史であり、富山の地質史でもある。案内した門徒さんも感嘆。
 
海中の林に出会う旅。
 
歴史の経過を想う。
 
歴史と言えば「蜃気楼」。魚津は水温と気温の差が激しくて。春夏に蜃気楼がでる。
 
その原理を博物館で説明していただきながら、ふと思ったのが「天の磐船」。
 
中国大陸や朝鮮半島から、船団が日本列島へと向かう。
 
虚像が実像の下に映る場合には、それらの船は空中を浮遊して近づいてくるように見えたはずである。
 
九州から北陸にかけての日本海側で見えた蜃気楼。これが案外、古事記・日本書記の「神代編」に記述されているのかも。
 
ちょっとわくわくしました。
 
 
 

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蘇我徒物部の崇仏廃仏戦争において、物部の手で難波の堀池に廃棄されたという仏像。これは阿弥陀三尊像であったといわれる。原像は欽明天皇13年に百済(くだら)聖明王(せいめいおう)より、仏典とともに貢献された像で、これをもって日本史上の「仏教伝来」とされたものである。

1で述べたように悪疫流行により廃棄されたわけであるが、推古十(602)年、信濃の国・麻績の里、本田善光がその子善佐と「難波の堀江」を通りかかったところ、光輝くものを発見した。伝説では、仏の方が呼びかけたといわれる。


こうして善光は背中に仏像を背負って帰り、自宅の臼の上に安置した。すると仏像が光を放ったという。こうして善光は自宅をそのまま持仏堂として、後に一寺となる。これが
坐光寺である。このまま40年が経過し、皇極朝において改めて、移転させてできたのが「善光寺」である。

この間、伝説では、聖徳太子とこの阿弥陀様との間に手紙のやり取りがあったとされる。


さてさて。このことからわかるように、我が国においては、教学としての「仏教」、おシャカさまの説く「悟りへの道」に帰依する仏弟子、という理解はないのである。


「外国からきた極めて効き目の良い呪い」、呪力のある仏像を拝むことで、病を治癒し避けることができる、というのが大衆理解であった。


今でも、宗派僧の中には、「日本仏教とは呪いあって、それでいい」という立場の方が沢山いらっしゃる。御札やお守りをせっせと販売している方々である。


しかししかし。聖徳太子における仏教は、呪いではない。やはり哲理を踏まえた、「さとり」「目覚め」の仏教であり、利他の極致、ブッダを目指す大系であった。ちなみに、上記の伝説(明らかに後世の付託であろうが)、のやりとりを記す。



御使 黒木臣
名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
         斑鳩厩戸勝鬘 上

一念構揚無息留 何況七日大功徳
我待衆生心無間 汝能済度豈不護
            二月廿五日勝髪調御


上は、善光寺に残るもの。下は法隆寺に残る三通のうちの一通。こっちは秘物で永遠に封印されているものであるが、例の廃仏毀釈のときに無理やり開けられて一通だけ筆写されたものが、東京国立博物館に蔵されている。

読めばわかるが、念仏を報恩とし、太子自身が衆生を済度(仏道へ帰依させること。すくうこと)を願う態を示す。返書の方も太子の仏法繁盛を支える内容となっている。

時代において「済度」を、救済とし、さらには具体的な問題の解決とすると、欲望を満たすことが「済度」と理解される。そういう問題はあるが、仏教への帰依は天皇家から地域豪族へと展開し支持されていった経過はうかがえよう。

これも伝統である。




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