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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

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「だからね。ほら。お日さまが出てるでしょ。だから、まだお仕事の時間じゃないんやで。」
エガちゃんの懸命な説得が続く。

いかん。ぼーっとしてる場合やない。昌子さんが起きる時間だ。昌子さんの毎日には決まりごとがあってそれがきちんと順番どおりに遂行されないと、混乱して不安定になる。目覚めるとお布団をきちんとたたんでトイレ。それから時間をかけて洗顔し丁寧にメイク。それから、お仏壇の前にすわって南無南無とお参りをして朝ご飯となる。

でも今日は文さんがもう起きちゃってるから、洗面所が大変だ。エガちゃんは説得の方にエネルギーがいっちゃってるからきっとそのままになってるぞ、ヤバイ。

慌てて下に降りて洗面所へGO。わ、昌子さん。廊下ですれちがう。何処へ?トイレに向ったことを確認してほっとする。急いで、洗面所の整理。出しすぎた歯磨きチューブ。ひっくりかえっている歯ブラシケース。びちょびちょになった足拭きに洗顔タオル。それらを整理し新しいものに入れ替え、汚れたものを洗濯機につっこむ。最後に昌子さん専用のお化粧箱の汚れをぬぐいピカピカに磨き上げると、ちょうど昌子さんが。間に合った。

ゆっくりゆっくりと歯をみがき、顔を洗う昌子さん。「僕が見てますから」とまっちゃんが車イスをきしませて来てくれた。まっちゃんは入居者だけどスタッフでもある。〈そよ風のように街に出よう〉とは一時マスコミも取り上げてくれたフレーズだが、その運動のど真ん中にまっちゃんはいた。『サンチョパンサ』という雑誌を主宰し、関西の「障碍」者が社会に認知されるようにと獅子奮迅の活躍だったそうだ。
エガちゃんにとっては神様みたいな人らしく、初めてここで対面したときにはサインまでもらってションベンちびってたと思う。

オレもこの人には教えられる事が多く、このベースの実質運営者といってもいいほどなのだが、どうして生まれ育った京都を離れてここへ入居しはったなかは未だに謎である。

「昌子さんきれいやねえ」紅をひく鏡の中の昌子さんにまっちゃんが話しかける。昌子さんの表情は真剣そのものである。そして、化粧している時の昌子さんが一番美しいとオレは思う。
「バニさん、隈取って知ってはる?」
「あの、歌舞伎役者が入れる濃いマスカラみたいなやつですよね。」
「うん。それね、戦争用やったんよ。」
「え、戦争?」
「古代中国ではね。目の上下にイレズミを入れてね、こう目が大きく見えるようにするん。その目の上にイレズミを入れた姿が〈眉〉っていう漢字やねん。」
「へえ、それで。」
「そういう女性をね、1000人ほど軍隊の先頭に立ててね。まず敵を睨ませるの。それが〈見る〉の語源。だから見るということは、相手の本質を見通してお前の全てをこっちは知ってるぞどのような手を使っても全てお見通しだ、ってことなんや。」
「じゃあ、古代の戦争ってにらめっこですか?」
「ははは。そう言えばそうなるねえ。武力で戦うなんてことは後の段階なんだね。お互いが目力で相手を呪縛しあってそれから戦闘。だからね、勝った方は相手を自分の側の奴隷にして支配するんだけど、最初にすることが目をつぶすこと。これが〈民〉ていう字。」
「ぎょえ。そうなんですか。知りませんでした。」
「昌子さんのお化粧を見てるとね、それを思い出すんだなあ。」
思わず、「殿、御意でござりまする」と言いそうになってしもた。でも、そう言われるとそういう迫力あるよ。昌子さんの朝の儀式?は、DNAの中に受け継がれた古代のシャーマンの息吹なんだろうか。

「ボー、しごといきあす」「ううん。ちがうよ」「でも、しごとえす」とうとう玄関での押し問答になってる。作業所に出勤する武さんやフジコさんも起きてきて何事かと集まってきた。

「じゃあ、後お願いします」とまっちゃんに昌子さんおお世話を頼んで急いで玄関に向う。文さんどうしちゃったのかな?

「行ってきます!」と声がひびく。日の出とともに始まるセミの声を打ち消すちから強さ。クーラーなしのベッドの上で、タオルケットをかぶってもう一眠りしよっとと努力してたオレ。でも無理だあ。にじみでる汗がしぼれるほどべちゃべちゃのシーツを握り締めて起きることにする。文さんはお仕事か、と思いつつトイレに向かう。

階段下で文さんが靴をはき出かけようとする気配。送ってやろうかと思いつつ、はたと気がつく。今日は5のつく日やんか。

「ねえねえ、文さん。今日はお月さまですかお日さまですか?」「はい。お月さまの日です。」エガちゃんがカレンダーのマークを確認しているのである。花王石鹸のマーク(古っ!)がちゃんとついていると夜勤。文さんのお仕事先は「大和寿司」さん。夜勤と日勤があるのだけれど、文さんの言葉ではお月さまとお日さまになる。

「なら、まだ早いですよ。ほら、お日さまが登ったところですから」エガちゃんがゆっくりと話す。「あのお月さまの日です」これは文さんのちょっと困った声。降りていって事態収拾をはかるかと思い、いやこれはエガちゃんに任そうと思い直す。5のつく日は不思議と「大和寿司」の夜は混む。五十日(ごとび)といい関西ではこの日に決済が行われる伝統的な慣習があるんだが、その影響かどうかは知らない。とにかく、文さんは今日は夜勤であるから、午後二時から十時の勤務のはずである。

文さんがこのお仕事を始めて十年以上になる。養護学校の高等部を卒業し就職先が見つかるのは、社会的な適応能力が高い生徒に限られる。だから、文さんがお役所的な意味で「障碍」者であることを承知して受け入れてくれる就職先は、それなりに厳しい条件をつきつける。接客できるのか、仕事内容をどの程度理解できるのか、さらに心身の病状が客商売に差し支えない程度のものなのか、等である。

確かに、普段は大人しいが何らかの条件で急にパニックになることはある。昌子さんやペピちんは見知らぬ人に対する警戒心が高いので、無遠慮に身体に「触られる」と、大声をだしたり暴れたりする。そういう事がないのなら仕事をあげますよ、というのが企業の態度である。だがね、オレたちでも知らない人にいきなり抱きしめられたり腕を掴まれたりしたら暴れるでしょうが。ベースの運営者としてこういうことを辛抱強く説明せねばならん事はよくある。

文さんが生まれ育った町からこのベースに加入したために、今まで雇ってくれていた寿司屋さんで働くことが不可能になったので、仕事先を探すことになった。歩いて30分以内という条件で、寿司屋を訪ね歩いて出会あったのが「大和寿司」。ここらでは知らない人のない名店である。名物の「大和巻き」を腹いっぱい食う、と言うのが当面の人生の夢である中学生は少なくない。

それは、辛抱強いオレが「文さんの仕事能力の高さと文さんがいかに穏やかな人物か」という説明を十数回くりかえし、こめかみの筋がニ三本切れかけてたときだった。もう今日は諦めていったんベースに帰ろうとしたオレたちの目の前で、ジャパンブルーの割烹着を着た兄ちゃんが、紺地に白抜きの暖簾を持って店から出てきて店頭にかけ、水を打ち始めた。その所作が美しくてオレは思わず足を止めてしまったのだが、文さんは何を思ったのかスタスタとお兄ちゃんに寄って行った。あれれ、これまでずっとオレの後ろで「お願いします」とだけ頭を下げ、後はにこにこしていただけやったのに。どうなるやろ。

「あの、ボーそれ好きえす」と文さん。
「へえ、そうなんか。水まきたいんか」「はい」「ならやってみ」
おいおいえらい簡単やなあ。
「ありがとえす。」と文ちゃんはバケツと柄杓を受け取り、とっても楽しそうに水打ちを始めた。とたんに兄ちゃんの顔色が変わった。
「あんた」オレ?「そうあんたや。この人どこかで修業したはったん?」「ええ、まあ。修業と言えるかどうか」「あんな、絶対ここにおってや。ええか、すぐ戻るから」
兄ちゃんはあわてて店中に姿を消す。文さんはご機嫌で仕事に熱中している。水が好きなんか、水まきが好きなんか、なるほど。オレは心の中の引き出しから文さんのカルテを出してこうつけたした。この間わずかに1分未満できれいに打ち水された。
「文さん、それお店の人に返そか」と文さんの手から空になったバケツと柄杓を受け取り、店の戸をあけようとしたら、向こうからがらっと開けられた。鬼瓦?わ、大将やんか。TVで見た事のある「大和寿司板場頭、町田町蔵」その方と鉢合わせ。びびった。思わず身を守ろうと前に突き出していたオレの手から、さっきの兄ちゃんがバケツと柄杓を受け取る。こころなしか青ざめてるぞ、兄ちゃん。

「こいつか」「はい」鬼瓦が文ちゃんの顔と道路を交代に見る。「ナメ」と低い音が鬼瓦からもれた。文さんが「文です」とにっこり。なんのこっちゃ?ああ名前を聞いたんかと思ったときには、文さんは二人に両肩を掴まれて店の中引きずり込まれてガシャンと戸がしまる。いかん、トラブル。

順を追って説明せんとヤバイなあ。確か〈浪速テレビ〉の番組「若手料理人寿司バトル」とかで、アボガド寿司の向こうを張ってパパイヤマンゴー寿司を作った職人の頭を、ゲンコツで殴りつけて「半端な仕事するぐらいやったら目かんで死ね」と怒鳴り、再起不能にしたはったなあと思い出しつつ、おそるおそる店に入る。

「あ、あの彼はその少し常識に欠けるところがありまして、何かお気に触りましたら、オレいや私がおわびします。すんません!」とりあえず頭を下げる。

「文さんよ、どうや。」「おいしいえす」「そうやろ」「こっちはどうや」「これもおいしいえす」
「そうかそうか」「ほんなら包丁変わってみ」「はい」

え、何。オレって無視されてる。頭をあげると、正板一枚の磨きあがったカウンターの向こうで、文さんが包丁を握っていた。横にはさっきのお兄さん。前に鬼瓦がどっかと坐っている。その後ろにジャパンブルーが5人ほど直立不動。どういうこと?

まな板の上の切り身。文さんの顔つきが真剣になり包丁がキラッきらっと光る。ヒラメの薄作り?すごいやんか。
「もうええ。」鬼瓦が軍団を振り返る。「文句ないな」「ハイっ」と一一斉に返事。さっきの兄ちゃんがにっこり笑う。
「文さん、いや文」「はい」「時給800円で8時間。週のうち二回は夜勤あとはランチタイムにつく。詳しい事は池元に聞いとけ」そういうと鬼瓦がこっちを向いて「あんた、誰」とようやく言った。

気を取り直して、オレと文さんのことを説明すると、鬼瓦いや町田さんは「気ぃ悪ぅせんといてや。ウチは誰でも時給から入る。半年同じレベルの仕事ができたらそれから正式採用やから」と頭を下げられた。恐縮するオレに「ま、今日は入店祝いや」とカウンターに入られ、文さんとオレにTVでしか見たことの無い寿司を握ってくださりお土産に「大和巻き」までいただく。何やらしたんが、文さん、様様やねえ。

その間に、池元から、これが最初に店前であった兄ちゃんで若手の教育係りでリーダー格だったが、仕事の詳細や勤務の詳細を懸命に聞きつつメモる。Kとらからも文さんには知らない言葉やわからない言葉があることも伝えたが、十年修業されてますから心配ないでと、笑顔で返された。

こうして、文さんの仕事先があっさり決定。後になって池ちゃんに、経歴も聞かず履歴書も見ないこの不思議な採用のことをたずねると「俺も同じです」と言われて二度驚いた。池ちゃんも若い頃ミナミでぶいぶいいわした過去があり、その後幾度かの別荘暮らしを経て普通の就職先は無いという状況になりからっけつ、ヤケになって「無銭飲食」に入ったのがたまたま大和寿司だったそうだ。

店に飛び込んで一番高いものを食うだけ食ってやると決意をして暖簾をくぐったが、今よりもっと怖い形相の親方がいてぎょっとし、次の親方の「いらっしゃい」の声が顔に反して、あまりにも優しくてあったかくて、一瞬足が止まってしまった。これはあかんと、回れ右して店を出て行こうとしたら、「そこに坐り」とカウンターに坐らされ「おまかせでええな」と最高の寿司を振舞われた。夢中で食べて最後の「あがり」を飲み、覚悟を決めて金が無いことを言おうとしたら、「時給500円。8時間で五日。まずは掃除から。寝床は二階の奥。先輩が三人。挨拶だけはきちんとしとけ」と言われたという。

「その日からずっとここにいます。」とは池ちゃん。アンタのことはわかったけど、文ちゃんの採用は?
「文ちゃんの水打ちに吃驚したんですわ。均等に水溜りができひんように薄く広く撒く。中々一朝一夕ではでけんのです。」
後は大将の目ですやろと、池ちゃんはうまそうに生ジョッキをあおる。奢りやけどアンタよう飲むねえ。それに串カツかって30本越えてまっせ。財布の心配をしながらオレは一級の職人というものを見直した。

こういう経過で、文さんは「大和寿司」に通勤している。年中無休の「大和寿司」では、休みは職人のローテーションでとる。文さんの場合はニ週に一日というペースだがこれももうすぐ正式採用になると変わるらしい。いづれにしでも今日は朝出勤ではないはずだし、文さんがここに来てからこういう間違いをしたことは今日が初めてである。

だからこそ、出て行きたいのを辛抱して、エガちゃんに任せてみるべきだと、回想を終えてオレは再度思う。

そう言えばゴミっていくつだっけ。おっと危ない。女性に年齢を聞くのは今のオレに立場からいえば「セクハラ」になるのか?いや「ハラスメント」とは上司と部下の関係で、ゴミとオレはまあ今のところ「知り合い」程度やからいいのか。なんてぐちゃぐちゃと妄想にとらわれていると、「やったあ」とゴミが叫ぶ。

おペピ発見か、とあわててゴミの後を追う。ゴミは爬虫類ブースにまっしぐら。げ、オレ長いの苦手。

「おい、ペピちんいたのか。」とおそるおそるのぞくと、ゴミはニシキヘビにうっとり見とれている。「うん、セクシー」ってお前。お祭りのヘビオンナかあああああ、っと突っ込みをいれたくなる。「おお、グリーンイグアナ」「わ、揚子江ワニ」なんじゃこいつは。ペピちんを探しに来たんだぞコラ。

とトランシーバから「ペピ発見。キリンです」とエガちゃんの声。こんな爬虫類オタクはほっとけ。とキリン舎へ向かう。

キリン舎の前に人だかりだ。飼育員さんの姿もちらほら見える。ヤバイ。なんかえらいことになってないか。とペピちんの高くてよく通る声が聞こえた。「たかおくん死んだ。たかおくん死んだ」

「たかおくん」て誰?人混みをかき分け手進むと、ペピちんとが大きなキリンが互いの顔を見つめている。あれ飼育員さんも泣いてない?そういえば人だかりと見えたけれど、よく見るとみんなハンカチを手にしてる。
「エガちゃん」とこっそりペピちんの手をそっとにぎいっているエガちゃんにささやく。「だいじょうぶです。ペピちん落ち着いてます。」「そうなの?」「ええ」そっとペピの顔を見ると滂沱たる涙に包まれていた。そしてまるでペピちんを中心点にして広がる悲しみのウェーブに引きよせられたように、キリン舎に人が集まり、オリの中のキリンまでもが同じように泣いているとオレには見えたのは、白昼夢であったのだろうか。そしてその輪の中にいつのまにかゴミの姿もあることをオレは目の端で確かめていた。

この日の夕方、お迎えにきたママにさっそく事件を伝えお詫びをしたら、
「あら、それアタシのせいだわ。」
と恐縮された。
「いえね、この子小さいときからキリンが好きでねえ。他のウチの子は4歳にもなれば十分言葉をしゃべるのに、全くといっていいほど言葉がでないもんだから、あっちこっちのお医者さんに診てもらってたんやわ。で、どうもウチの子はふつうじゃないのかなあってうすうす感じ始めた頃だった。パパと三人で病院帰りに動物園に行ったの。今から思うと何かこう普通の親子の風景に溶け込みたいっていうかそういう事で楽になりたかったのかもしれない。ソフトクリームなめたりホットドッグかじったりして、楽しかったんだわ。そしたら〈キリンさんに赤ちゃんが生まれました。タカオです〉って、あそこ子どもが生まれると向日葵のマークついたボードがオリの前に張られるでしょ。で、三人でいったのキリン舎に。」
へえへえ面白い話やんか、と玄関に腰を下ろしたママさんに、車椅子のまっちゃんが冷たい麦茶をすすめる。「ありがと」とママさんは一気に飲み干した。まっちゃんはかがめないから、空いたコップをママさんからまっちゃんの膝に上に返してもらう。他人の為にできることはする、というのがこのベースのルール。台所では文さんがエガちゃんといっしょに夕食の準備をしている。ご飯が炊けるいい匂いが漂ってくる。

「大きなキリン二頭のあいだにねえ、たよりなげで今でもこけそうな小さいキリンが隠れるように辛うじて立ってた。」「雅幸(ペピちんはまさゆきという、ホントは)、キリンさんの赤ちゃんだよ。タカオくん言うんだって。」
「こう話しかけたら、例によってパピパピってパパの手を引っ張ってた雅幸が、はっきりと、『タカオくん』って言ったのよ。」

それが彼が発した最初の意味ある言葉。大好きなキリンの名前。そしてママさんは20年後のこの朝、新聞でそのタカオくんが天寿を全うした事を知る。
「あら残念ねえ。タカオくん死んじゃったんだ。」と臨時の仕事の算段をしつつトーストをかじっていて思わずママさんは呟いたんだそうだ。うん、引き金引いたね。

ペピちんは(ママさんはパピだって言うんだけどオレらやペピの幼馴染には確かに、ペピと聞こえる。オレの耳は左右とも2.0だぞ。あれ?これは視力やったかな〉、だから、ママさんに送ってもらってベースに着くなり真っ直ぐに動物園に向かったんだ。そして真っ直ぐにキリン舎に向かった。そうや、ペピちんはペピちんなりのお葬式をしに行ったんや。それにしてもその行路でも「平行」「整列」にこだわるのがペピらしいけどネエ。

飼育員さんたちが「おおきになあ」とペピちんの肩を抱いてくれたのも、大勢のタカオくんファンとともに出口まで送ってくれたのも、そしてタカオ君の写真の入った下敷きを売店のオバちゃんが10枚もくれたのも、みんなペピが起こしたウェーブ。だってペピは、物言わぬタカオくんの奥さんとその長女の気持ちを全身で受けて代弁したんだから。間違いない。園長までもがオレたちが帰っていくのを直立不動で見送ってくれたんやから。誰かに見送られるなんてオレすら初体験んだからな。


陽が傾いて通天閣の「日立マーク」がくっきりと浮かび上がる瞬間が近づいている。ペピちんは昌子さんといっしょにゴミにへばりついているので、安心してママさんのお話が聞けた。そういえばママさんとこんなに長い事お話したのは初めてやないか。ママさんが綺麗に見えるのは気のせいか。
「オレ、馬鹿だからうまくしゃべられへんけど、今日はベースやっててよかったなって。ママさんやペピちんと会えてよかったなって…。」あれ?うまいことしゃべられへん。え???オレ、泣いてる。うわ。ヤバイ!

「ほれ、ママさん待ってるで。今日はこれでバイバイや。」とゴミがペピちんを連れてきた。
「これ、やるさかいに今度アタシにだまってどっかいったらしばくぞ。」そう脅してペピの手に握らせた絵に、口を真っ直ぐに結んだペピの目から画面いっぱいにロケットのように涙が飛び散っていて、その涙のつぶの中に微笑むキリンが描かれている。
「いやあ、これ雅幸やわ。市川さんやっぱり上手やねえ。」とママさんが感心したので、ゴミが照れた。やっぱこいつ天才?
「あれ、バニさん。ひょっとして泣いてる?」うっさい。あんまり暑いさかい目から汗が出たんじゃ。

「ただいまあ」「おかえり」「…」「おかえり」。仕事先から帰ってきたフジコさんに武さんが、表にでてママさんの車に乗り込むペピたちの横を首をかしげながらすり抜けてく。今日は土曜だから本当はペピちんはベースにこない日なのだ。ママさんが仕事のない土日は家で過ごすのが普通なんだけど、臨時の出勤になったので急遽ベースで受け入れた。

「明日もう一度、雅幸を連れて動物園に行きます。ね、雅幸。」「ペピ!!!」
おお、ご機嫌のお言葉。後ろでは、フジコさんと武さんが昌子さんと抱き合って「お帰り」の挨拶。
そんなオレたちを真っ赤な夕日が静かに静かに抱きしめていく。
スキップするよに発車したエンジン音に、文さんの「ごあーーんだよう」の声が重なった。今日のご飯にはゴミもいて欲しいという思いに気がつき、オレの顔が夕焼けになった。

第一話タイトル 「たかおくん」 (完)

エガちゃんたちと簡単に打ち合わせして、二手に別れる。平日の動物園にはそれほどの人手はないので、ペピちんを刺激さえしなければ見つけて連れて帰ることは、そう難しい事ではないだろう。

オレとゴミは爬虫類舎の方へ向かう。エガちゃんたちは、バードゲージからゾウやキリンの方へ。
「ねえ、ペピちんと蓮さんは知り合いなの?」
「知り合いといってええかどうか」
動物園特有匂いを抱いた風が、ゴミちゃんの頬をなでる。ゴミは蓮さんにいたく惹かれたようだ。
「いやね、ペピちんはあんなだろ?ウチに来る前は、結構大変だったみたいなんや」
「そういえば、ペピちんにはパパがいないんだっけ」
うなずきつつ眼だけは辺りを注意深くパトロールさせる。アシカにえさをやってご機嫌な男の子の後ろで、お母さんは居眠りしている。
「見てみい。あれが普通の幸せちゅうもんやな。親も子も気がついてるかどうかわからんけど。」
ゴミが深く頷く。ペピちゃんのママさんは37歳だけど、どう見ても40歳以上に見える。四六時中目放しがきかない子をもつということは、親にプライバシーが無くなるということでもある。
「パパさんも初めはがんばったんや。ま、今やから言えるけどがんばったんがアカンかったんやろな」
「そっか。クタビレタんや。人間ずっとがんばるなんて無理やもんな」
「あ、それでか。おまえさんの作品がなかなか完成せんのは」
「そういうこと。私、無理しないもん」
「けど、そんなやり方でおまえさんの世界ではやっていけるのかねえ」
「よけいなお世話」おっと、ヒジウチ。へっ、ガードしてやったぜ。ヒジウチ?ふいにゴミとの出会いを思い出す。

ゴミは、これは本人が〈五味太郎〉とかいうその道の大家へのおまんじゅかオマージュだかでそう名乗っているのだが、アートが本業でウチの正式な職員ではない。オレがベースを立ち上げて3月目に、取材にきたフリーライターと称する今時のオバカな若者にくっついてきた。ちゃらちゃらしたガキめ。敵意満々のオレに気付かない鈍感なライターは、「へえ、けっこう広いんですね。」とずかずかとベースに上がりこみ、ペピちんや昌子さんに無遠慮に接近した。もちろん予想通りに彼は絶叫に耳をつんざかれ、いったん叫びだすと止まらない二人に困り果てて退散した。ざまあみろ、とちょっと愉快な気分なオレは、ちゃらちゃらの姉ちゃんがスケッチブックを広げて絶叫しよだれを撒き散らす二人の前で、静かに坐ってクレパスを動かしているのに驚かされた。
「何してるンや。あなたのツレはもうフケたで」と背後からのぞき込むオレに「しっ」と短く息をはき強烈なヒジウチが襲う。辛うじてガードしたがコンマ何秒かの間ができてしまった。そのスキに彼女はペピたちにクレパスを差し出す。「あ、それマズイ」とあわてるオレを尻目に、彼女に寄ってきたペピちんはしっかとクレパスを握りしめ畳の上に大好きな「レール」を描き広げる。一方昌子さんは、静かに彼女のスケッチブックに見入っている。

「これが、あなた。これが彼」そう説明されている絵には、真っ赤なバラとまっすぐに伸びた向日葵が生き生きと描かれていた。昌子さんがにっこりして皺だらけの指をそっとバラの上に置いた。
「そう。あなたでしょ?」にっこり笑った彼女の顔に、ちょっとズキンときた。「ああ、わすれてたねえ。このオジサンも描いてあげなくちゃね」期待するやんか、オレはどんな花になるんや。ペピちんの「アート」を中断させることも忘れるぐらいオレの視線を奪う腕の運びが美しい。
「できた」という声とともにペピちんから、さっとクレパスを取り上げて道具をしまうと「おじゃましました、また来ます」と彼女ポニーテールが去っていった。

はっと我に返って、ペピちんに水を飲ませる。Dスキンさんから取り寄せてある万能フキンでカラーのレールアートを惜しいけどふき取る。昌子さんはスケッチブックを抱えてうつらうつらしているので助かる。小一時間かかって後始末を済ませたら、エガちゃんたちが散歩にでたメンバーを連れて帰ってきた。
この民家をベースと呼ぶには深い理由があるのだが、それはさておき、ここにはペピちんや昌子さんをふくめて6人の「障碍」者たちが集まって暮らしている。サポートメンバーはオレ以外には三人。エガちゃん以外は通いであるから、8人がここで寝泊りしている。仕事に出ている2人は夕方まで戻らない。
「あれ、昌子さん。宝物が見つかったの?」昼食の準備をしていたエガちゃんがスケッチブックに目をとめて話しかけると、昌子さんがそっとページをめくる。ああそうやった。どれどれ、オレはコスモスかなそれともうん、大きなケヤキの木かも。

バラと向日葵の上に、翼をせいいっぱい大きく広げたカラスが一羽か描かれていた。これがオレ?
「へえ。昌子さん上手だねえ」と事情を知らないエガちゃんが誉めると、昌子さんはすっと立ち上がり玄関の方へ向かう。そして、上がりがまちにそっと腰を下ろして外の様子を眺めている。そっか、昌子さん彼女が気に入ったんやね。そういえばあいつ「また来ます」って言わなかったか?

これがこの日からの昌子さんの日課になった。そして3日目の朝、昌子さんが同じ場所に坐り大好きな牛乳を飲んでいる所に、「こんにちわ」と彼女は真っ赤なバラの花束を抱えて再び現れた。それからはほぼ毎日のように昌子さんに会いに来るようになり、週末にここで寝泊りする事が自然になった頃、ゴミはベースの一員になっていたのである。

「だってさあ、ペピちんが泣くんだもん」
ポニーテールの中でイイダコのように唇がとんがる。
「お前さあ、だからといって街に出しちゃダメだろうが。」
ああ、息が切れる。5分間の全力疾走でなけりゃ、オレも年か?なんて自分を疑うところやねえ

「出したんじゃないもん。ペピちんがうまくフケたんやもん。」視線を左右に注意深く配りながら、いっそうとんがる唇に、風船の結び口を連想してしまったぞ、このヤロウ。せめて少しはいろっぺえカッコしてこい。視線をねっとりとゴミちゃんの身体にからめてエネルギー補充しようとした時、
「バニさん、こっちやわ。」
ペピの痕跡を発見する。ペピは「並べ屋」なのである。ゴミちゃんが指差したのは、最近マスコミで有名になった串カツ屋の前に、二列にきちんと並べてあったAビールの王冠。とすると…。
「パターンC」やね、とゴミちゃんがトランシーバーを早速オンにして別班に連絡する。そのあいだにオレは、50m先の将棋道場と雑誌屋に目配りし、雑誌屋のスタンドがすべて平行で等間隔である事を確認する。
「こっちだ」

ジャンジャン横丁を抜けて動物園の入り口にやっと辿り着く。厚作りのダンボールアートの中の蓮ちゃんが「おう」と声をかけてくる。蓮ちゃんはワンカップの入れ物に水を入れていた。どうしようと迷うが背に腹は代えられん。ペピを早く捕まえるのが第一命題、うん。
「パクさん、元気か。」と話かけると、蓮ちゃんはにやりとしてカップを嬉しげに掲げた。
「まあ見てみい。今日は機嫌がええそ。水替えしたるとくるんくるん宙返りしよる。」
じっと、ガラスの向こうを覗き込み「ほんまや、回っとる」と言うと、止めるよりも先にゴミちゃんが口だしした。ワオ。
「蓮ちゃんすごいなあ。ぐるんぐるん回っとるなあ。井村のシンクロより凄いなあ」とつっこみを入れたつもり。藪蛇よ、あんた。

「姉ちゃん。」と緊張感が走った声。だがゴミは気がつかない。
「なに?」と天真爛漫に水を見ている。
「あんた頭おかしいと違うか?この中に水以外のモンが見えるんか」
「え、あの。いや、だって、バニさんが」
とあせってオレの顔と蓮ちゃんの顔を見るが無視。因果応報。自己責任。
「金魚かなんか入ってるんかなあと、」
おそるおそるのゴミに全部言わさず蓮ちゃん噴火。
「このどアホウ。見たらわかるやろ、見たら。ワンカップの中に金魚がおるんか。おったら網貸したるさかいにすくうてみい。」いいながらちゃんと〈ポイ〉がポケットから出てくるところが蓮ちゃんのすばらしさ。あっけにとられてるゴミの右手に握らせて、カップの水を頭からかけた。
「はい、水もしたたるいいオンナ!!!」

無理やり〈ポイ〉を持たされたポニーテールの巨乳の女。戸惑っているゴミに蓮ちゃんご満悦である。
動物園の入り口に相応しいアートである。やっと「はまった」事に気がついたゴミが、「もうなんやのん。」とポイを投げる前に、バチバチバチと満足げなシャッター音がした。

これで、蓮ちゃんたちは一ヶ月は食える。
「で、ペピは?」と聞くと蓮ちゃんは黙って中を指差した。「まいったなあ」とゴミの手を引っ張って入園する。白クマがホースで水をかけてもらっていてご機嫌だ。二人でゆっくり歩いてペピを探す。

「さっきのあれ、何ですか」「お前知らんかったんけ。女はあかんねん。」「どういうことっすかサル山では、みんなお昼寝である。母ザルにぶらさがったこの春生まれの子がちらっとゴミを見る。こいつ自分の肉体的価値に気付いてないのかね。サルさえもわかってるのにね。

「蓮ちゃんにとってコミュニケーション相手は男だけ。女は商品。カップの水を替えていたでしょ。あれはきっかけ待ってますていう合図。」アシカの方へ行くかバードゲージへ行くかちょっと迷う。で、売店前で一服する。そのうち別班も入園してくるし、ま、あわてることはないでしょ。

「じゃあ、パクさんて金魚のことじゃないんだ。」
「そう。金主のこと。」
「じゃあ、ぐるんぐるんが…」
「10人単位で20人ぐらいいますって事やネエ。」
「誰が?」
おっぱいの大きいオンナは鈍いというがと思って、セクハラやんけとつっこんで黙る。
「あ、他に誰かいたんだ。」
「ジャスト。君が商品になるあの瞬間を待っていた商売人がね。」
「え、あたし商品になったんですか。」ソフトクリームをほおばりながら満更でもなさそうなゴミ。
「そういうこと。もうすぐアンタの写真が二三流の写真投降誌に掲載されるの。ま、被写体提供料で一人3000円かけるあのシャッター音からいくと14,5人。五万くらいにはなってるでしょ。」
タバコが尽きたぜ。もう一本出そうとしたら、乳母車のママににらまれた。はいはい。

さて、どうするかなあと思ったとき、「エガちゃん、こっち」とゴミが別班を見つけて呼んだ。よし、これで万全だ。ペピ探しのエンディングは近いね。

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