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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

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3月

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学校劇の指導をしていた時代を思い出させてくれる映画。まっすぐな世界。

       三月          谷川俊太郎
                  
                わたしは花を捨てて行く
 
              ものみな芽吹く三月に
 
       私は道を捨てて行く
 
           子等のかけだす三月に
 
 
              わたしは愛だけを抱いて行く
 
           よろこびとおそれとおまえ
 
       おまえの笑う三月

「春よ来い、はやく来い、歩きはじめたトコちゃんが〜」―孫ができましてとことこと、歩いております。最近は、ビデオレターにスカイプで、積み木をつんだり、ぬいぐるみをだっこして、走り回ったりする姿が見られます。微笑ましくあきません。気がつけば日差しが優しくなり、草木が芽吹いています。三月は、四月新年度の前で、しめくくりの月でもあります。
 詩人は、「花」と「道」を自分の人生から「捨てていく」というのです。目の前に、かけだしていく子らがいれば愛だけを抱いていくのだと、決意を固める。ここで「花」や「道」とは、世阿弥や光太郎のいうところなのでしょうか。普通に人生の成功をイメージさせる言葉であり、「はなやぐ」「すすんでいく」という感じでしょう。それらを捨てて、「おまえ」を中心にしていくのだと。そう決意する。
 そこにシンプルな「喜び」を見出していく、「おまえ」を中心とするということは自分の側では計画できない予想できない事態にこれからは出会っていく人生を選択すること。だからそこに「おそれ」が生まれる。でもそれでいい。お前の笑顔があればいい。
 いかに自己を立てて生きても必ず去っていく世界に私たちはあるのです。そこに残っていくもののために最良を尽くす。そのようなあなたまかせの生き方こそが、豊かではらはらどきどきの人生だと。「全てをあなたに注ぐ」というアミダさまのお慈悲は、そのように眩しく嬉しいのです。
 

行事予定

3月12日(木)午後2時〜 常例法座 本堂

正信偈 ご讃嘆:塚村真美師(奈良・正覚寺)

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2月

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Seven Daffodils  Lee・Hays


I may not have mansion, I haven't any land
Not even a paper dollar to crinkle in my hands
But I can show you morning on a thousand hills
And kiss you and give you seven daffodils

I do not have a fortune to buy you pretty things
But I can weave you moonbeams for necklaces and rings
And I can show you morning on a thousand hills
And kiss you and give you seven daffodils

Oh seven golden daffodils all shining in the sun
To light our way to evening when our day is done
And I will give music and a crust of bread
And a pillow of piny boughs to rest your head
A pillow of piny boughs to rest your head


「七つの水仙」 作・リー・ヘイズ 蕚慶典・意訳 
 
                   僕にはマンションも土地もない。
                   皺だらけの一ドル札一枚さえ無い。
                   けれど、千の丘での朝を君に見せて。
                   キスと七つの水仙の花をあげるよ。
 
                   僕にはステキなものを買える財産は一つも無い。
                   けれど、指輪やネックレスを作るために月の光を紡ぐよ。
                   そして、千の丘での朝を君に見せて。
                   キスと七つの水仙の花をあげるよ。
 
                   ああ、七つの黄水仙が太陽に輝いている。
                   日が沈んだあとも僕らの夜道を照らすために
                   君に音楽と一かけらのパンをあげよう
                   そして、松の枝で編んだ枕をあげよう。
                   そこで君の頭を休めるために。

 ギターを手に歌い出したのは、中学二年生の冬。同居していた従姉が大学でサークルに入り、歌い始めたからです。アメ民、アメリカ民謡研究会などというサークル。今なら、「軽音」でしょうね。つまりはフォークソング。 従姉はP.P.Mのコピーバンドで、vocal担当。ラジオに出たりコンサートをしたりでずいぶん影響を受けました。私もやがて同級生とバンドを組み、最初に歌った曲が、この「七つの水仙」。ブラザース・フォー版でした。
 そのころはお寺の前庭にも、水仙が植わっており、こどものころに、最初に名前を覚えた花でした。水仙は書いて字のとおり、水辺の仙人。ギリシア神話でも「ナルシス」のまれかわりとされ、少し首をかしげた人に見たてられるのです。
 リー・ヘイズの詞は、幸せとは何かをもつことではなく、共に朝を迎え、あるものを分かち合うことでいいのだと教えます。水仙はギリシア神話では恋愛から逃げたナルシスが自死し水仙となる。つまり、水仙はエロスからタナトスへと引き込まれたものの象徴とも言えます。ならば、リー・ヘイズは、反対にその水仙をこの詞では、エロスの方へと引き戻しているともいえるのでしょう。浄土教は浄土を説き、そこへの往生一定を説きます。ですから、タナトスの流れで理解されることが多い。しかし親鸞さまはそれを「現生之正定聚」と切り返さて、今ここの命の讃嘆に収斂されました。信心歓喜とはタナトスの果て。しかし一念慶喜はエロスです。
 阿弥陀様は、究極の苦である「死」を「至福」に変換されて、その心を受けるものと共に生きて下さる。外から何かを持ってくるのではなく、今既にあるものが喜びに変じる。それを共に味わう。南無阿弥陀仏と称えると、「いつでもどこでもいっしょだよ」「喜びも悲しみも共に分かち合うブッダだよ」「安らぐ場所と心をあたえるよ」と、エロスとタナトスの総合唱が聞こえてくるのです。


今月の行事
2月12日(木)午後2時〜 新説親鸞聖人伝1「桜花の喩え」
2月28日(土)午後2時〜 新説親鸞聖人伝2「磯長の夢告」
       ★いづれも、DVD録画取りがあります。ご協力ください。
お朝事 7日、14日、21日、28日 午前7時半〜8時半

2015年 1月

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去年 金子みすゞ


舟、みたみた、

お正月、元日、

旗も立てずに黒い帆あげて、

ここの港を出てゆく舟を。


お舟、あの舟、

乘つてるものは、

けふの初日に追ひ立てられた、

ふるい去年か、去年か、さうか。

 

お舟、ゆくゆく、

あのゆく先に、

去年のあがる港があるか、

去年を待つて、たあれか居るか。

 

去年、みたみた、

お正月、元日、

黒い帆かけたお舟に乘つて、

西へ西へと逃げてく影を。


 新春合掌。明けまして南無阿弥陀仏。住職もとうとう還暦を迎えます。小さい頃に想像していた六〇歳と、実感がずいぶん違いますね。思いはずっと三〇代の感じです()が、身体は正直で、いろいろと老いを認めざるを得ない状態になってきています。本年五〇回忌を勤めます、祖父・十五世住職、了諦法師が六十四歳の往生ですから、リアルに「死」を想うようにもなりました。毎日の日暮しの中で、必要なことはやっておく。そういう気持ちの新年です。 みすゞが描いてくれたように、いつもの一日ながら、初日の出とともに昨日は「去年」になる。私たちの関心が新年へと向かっているうちに、その「去年」は人知れずに旅立っていきます。それは捨てられ忘れ去られていくのでしょうか。いえ、嬉しいことに静かに西へ西へとすすみ、帰るべき世界に向かっているというのです。それがアミダさまのおはたらき。「あがる港」でまちきれずに、ここにおこしの名号です。

12月

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    赤い木の実    竹久夢二

              雪のふる日に小兎は

                  あかい木の実がたべたさに

                  親のねたまに山をいで

                  城の門まできはきたが

            あかい木の実はみえもせず

                  路はわからず日はくれる

                  ながい廊下の窓のした

                  なにやら赤いものがあ

                  そつとしのむできてみれば

                  二の姫君のかんざしの

                  珊瑚の珠のはづかしく

                  たべてよいやらわるいやら

                  兎はかなしくなりました。


ナンテンの実。お寺の庭でも、夢二のいうようにまるで宝石のように輝きます。ナンテンは、葉も実も薬になります。彩だけではなく実用的でもあるのですね。「南天」と漢字で書くと、噺家の「桂南天(初代)」が思いだされます。本堂での落語会や、子どもたち相手の影絵芝居に紙切、余興の踊り。多芸博識の人でしたが、千本通りに引っ越されて壽光寺との縁が薄れました。人間国宝の桂米朝師がその晩年のお世話をやかれて、昭和四十七(一九七二)年の葬儀には、アチャコさんやら著名の芸人さんが集合して、にぎにぎしく玉出の光福寺で行われました。

 それから、四〇年すぎて、住職は高座で、「落語」のルーツである「節談説教」を本分としていそしんでいます。これもまた不思議の御縁、「遠く宿縁を慶べ」といただくことであります。南無阿弥陀仏。

 


11月

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これから 

                                                        榎本栄一

 

                   未熟には たのしみがある

                   まだ 日月に照らされ

                   これから 熟するという

                   たのしみがある


昔、お寺の入り口に柿の木があった。今「じゅげむ」のあるところである。渋柿なので、もいでそのままは食べられない。押し入れに米櫃があって、祖父や祖母が、そこへ橙色に染まりかけた柿の実をしまっておくのである。不審げな孫の私に、祖父は「こうしておくと甘うなるんやで」と教えてくれた。幾日かして、米櫃の蓋を外すと、お米の匂いがして、さらさらの米粒に包まれて、真っ赤になって押したらつぶれそうな顔をした柿が、甘い香りをまとって現れるのだ。それから私たち兄弟は、秋になると争うように柿をもぎ、自分で米櫃に柿の実を埋め込むようになった。柿の木に登れるようにもなり、自分で熟柿が作れるようになった。

 時が過ぎて祖父は浄土の仏となり、米はレバーを引くと決まった量が出てくる機械に収納されて、米櫃そのものがお寺から消えた。それから五〇年、あちこちで作られる様々な「干し柿」をいただくようになった。ジュクジュクもカチカチも大好物である。

 阿弥陀さまのおはたらきを「超熟の光」といただくことである。摂取の心光に目覚めて一念帰命となるよう、導き、諭し、思い知らせて、育てて下さるのである。「まだかなあ」とみつからぬように、米櫃の蓋をこっそりと開けてのぞいていた、あの幼い頃のドキドキを、六〇になっても八〇になっても味わえるのがご当流。南無阿弥陀仏の醍醐味である。
11月の予定
〇常例 12日午後2時〜 正信偈 講師:安方哲爾師
〇住職出講 3日 大圓寺(堺市美原区) 午後2時〜 7時〜 報恩講
      16日 浄願寺(大阪市旭区) 午後2時〜 寄せ報恩講
      22日 旭照寺(堺市東区)  午後2時〜 7時 報恩講

      23日 旭照寺(堺市東区)  午後2時〜    報恩講

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