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廿日市市の葬礼の行列(野辺おくり)
遺影や仮位牌を持って、斎場へ行く。このルーツはやはり、葬礼の行列にあろう。
葬儀は家や公民館ではやらなかったのだ。もともと、通夜をして出棺する。ここまでが自宅であって、斎場(火葬であれ土葬であれ)まで、行ってから葬儀を行うものであった。
葬儀に僧侶のかかわりを求められたら、臨終の勤行を行い(今からかちがいなく浄土に往生し仏となることを聞かせていただく最後の読誦・礼拝・称名の場)、次の日に出棺のお勤めを行う。
で、それから、葬式をするための道具をもって、家の前に隊列をくんで、斎場まですすむものである。
今日では、葬儀を自宅もしくは会館で行い、自動車で斎場までお棺を運ぶとそのまますぐに窯に入れられるわけで。すると、仮位牌と遺影はただただ運ばれて帰ってくるだけになってしまうのである。
葬儀式場→斎場→精進落とし(料亭や会館)→斎場(骨拾い)→自宅もしくはお寺、というパターンであるなら、遺影や仮位牌を持って移動することに理由があろう。葬儀式場に戻らないのであるから、持って出てもらわねば片づけができないことになるからねえ。
けれども、斎場から葬儀会場へ戻るのであるなら、遺影や仮位牌などを持っていく必要がないわけである。そうすると、位牌と遺影の移動が違和感なく行われているということには、別の新しい意味が加わったと言えるのではないだろうか。
それはすなわち、参列者に見せる「遺影」「位牌」であり、かつ喪主や中心の遺族が誰であるのかを、第三者に明示できるグッズとして必要とされている、と思われる。
葬儀が遺族や知人友人さらにはコミュニティの社交の場であることの証左であろう。がしかし、そうなると「葬儀」を宗教儀式とする必要もないということになろう。
そこで。nazunaが仕切る葬儀では、式場に戻るパターンの場合には、遺影や法名紙・法名軸・仮位牌などは、斎場にもっていかないのである。かわりに、懐中名号をもっていただくのである。そして、真宗の葬儀として、「仏法聴聞」に徹するのであるが。
このあたりはそれぞれの考えが、成立しそうでありましょうねえ。
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住職、涙チョチョ切れる
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(死絵)
旅に出たら、葬儀が続いた。「浮気するから門徒さんが戒められたのよ」「ははあ、
それは住職は他所へいってはいけません、ということでしょうなあ」
一因一果であるから、主観であり真実ではない。ないことが理解されているから、お
寺ではそういう「冗談」が多い。坊守に言われ、直林師にも言われ。真宗僧侶である
から言えるジョークであるな。
11月23日に始まり12月18日まで。6件の葬儀を執り行った。ウチ二件は、代理であ
る。ホーム(お寺)が3件。それ以外は外なので、久しぶりに「葬儀社の常識」にあう。
まずは、遺影である。いつから飾るようになったのか?
俗耳であるが、
①戦死者(兵隊さん)の葬儀に、靖国イズムが浸透してきた結果、「顕彰」すべき死と
なる。そこで、死者を直接知らない人も通夜・葬儀に参加するようになって、死者の
肖像が必要となった。
②肖像絵がその原点としてあって、神社仏閣に奉納される故人額(もちろんそれら
への供養料。布施・神饌を伴う)作成が発展した。これは場合によっては地域や神
社仏閣側あるいは政治が作成することもあった。
③①と②が特別な事態として存在していたが、第二次大戦という大量戦死者が出
て、葬儀数が増大し、また「遺骨」のない葬儀も生まれたため、遺影=写真の需要
が増大した。
という理由が想定される。
千葉工業大学の浜野志保氏(視覚文化史・写真史)は、
「死後写真(post-mortem photography)や心霊写真(spirit photography)など、写真が普及した後の西洋において、肖像写真は、しばしば死者を追悼する手段として用いられ」「今日の日本で行われる葬儀においても、故人の肖像写真である遺影が用いられないことは稀である。遺影の大半は、生前に撮影された近影の中から近親者によって選別された後、葬儀中は祭壇に飾られ、火葬場へと向かう弔いの列に随行する。葬儀が終わった後は、家へと持ち帰られ、仏壇や仏間に飾られることも多い。」「写真術が発明され日本に伝来した時期を鑑みれば、こうした遺影の習慣は、それほど古いものではない。しかし、江戸時代の役者絵の一種である死絵には、たとえば三代目尾上菊五郎死絵(嘉永2/1849)、八代目市川団十郎死絵(嘉永7/1854)、五代目市川海老蔵死絵(安政6/1859)のように、生前の姿を描いた肖像画が追悼の手段として画中に示されているものがあり、これが遺影の原型であると考えられる。」「また、葬儀において遺影が使われはじめた時期は、火葬の普及や生活空間の変化に伴い、葬儀の様式が、棺を墓地へと運ぶ葬列を中心とするものから、祭壇前での式典を中心とするものへと移行していった時期と重なる。」
まさしく歌舞伎役者(つまり当時の芸能人・有名人の代表)の「死に絵」を、葬儀に装飾するという江戸期の文化にその水源を求めtられるのである。それはそれで面白いのであるが、nazunaが問題にするのは、「この遺影をなぜ、火葬場まで持っていくのか」ということである。
位牌の問題も述べるが、火葬へ行くのになぜ写真がいるのだろう?葬儀において「死に絵」が飾られる、あるいは死後に絵馬や供養額が奉納されることと、それを葬場(火葬・土葬)にまで持っていくのとでは、大きな意味の違いがある。
とある葬儀の中で、満中陰が済んだときに、遺族である娘さんが、「これからは、写真を拝んだらええの? それともお位牌を拝むの? それとも仏壇を拝むの?」と質問されたことが、今日のnazunaの葬儀へのスタンスを決定づけたことを思い出す。
グッズが多けりゃ、そりゃあ混乱もしますわねえ。
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8月20日。安居の一日を利用して、福岡から朝倉・甘木へ 法泉寺さまという浄土宗の名刹を訪問した。 永代経をあげて、お墓をお寺におまかせするためである。 これが、残っていたお墓。五世まで記名されている。 壽光寺は前にも書いたが、1540年の創建。山城国西岡今里邑・天神堂道場、極楽寺として、今の長岡京市に創建された。本願寺実如の弟子と寺伝にはある。その後、西本願寺の御堂衆として『慶長日記』等の史料に顔をだし、秀吉亡きあとの徳川の隆盛によって、3世了加(賀)は伏見桃山城下に通寺を建立する。この城下町が大阪夏の陣の後の、壊滅した大阪城下を再建させるために、移転させられた。門徒が移動すればお寺も動くのが真宗。元和六年には大阪入りしたようで、この時期・本願寺御堂衆から極楽寺が消える。以来明治維新まで大阪上町・天満・船場・島之内の門徒の寺として護持発展してきた。 その初期、大阪北新町・極楽寺は、5世のとき貞享年間に寺号を「壽光寺」と改号した。御堂衆とは本願寺の勤行や法事にかかわり、声明や読み物、さらには能役者として芸能も行った存在。この少し前の寛永期に本願寺御堂衆としての極楽寺が史料で見えるので、通寺と本寺が分裂したことようである。そののち何らかの事情で、大坂の方が改名した。残っている史料では良如上人の御絵像下付との関係があり、寺にはそのとき寂如上人から下付された「御文章」が現存するので、本願寺側の裁量での寺号変更のようである。というのは、この後も已前として、「極楽寺」を名乗っていたので、屹度のお叱り≂閉門、を受けているからである(『摂津国諸記1』)。 (そののち、14世の急逝と15世の継職までの空白に、大阪市からの移転命令を受けて今の地へ、大正15年に移転して現在に至るのである。) そんなこんなの江戸期からの門徒が七家いづれも200年のおつきあいである。 そのうちの伏見屋O家。ご当主が去り奥様が残られていたのであるが、体調を壊されて東京の娘婿さんのところへ行かれた。そこで、代々の過去帳の写し(ホンモノは空襲で焼失)と残された古文書を読ませていただいた。 先祖は甘木・水町で薬屋を営み、代々善三郎を名乗った家。その三代目傳兵衛で大阪へ出られたこと。そしてその背景に甘木の大火がありまた、傳次郎という弟の存在がわかってるので、大阪伏見屋は相当に古いと思われる。 こう言う経過で、甘木がルーツであることに疑いがないので、今度は甘木側の史料をあたった。歴史資料館のお世話になり、市史に「水町・伏見屋O」の記述があること、水町のお寺は法泉寺さまであること、を示唆していただき、法泉寺に問い合わせたら、現存するO姓の檀家さんでは不明なO姓の墓が、中途半端な場所に残っていて、真宗の法名があるといわれた。これが2008年のこと。 そこで、このたびご縁が整って、門徒家族の代理で住職が代参し、事実確認を行ったというわけ。これも夏の安居(僧侶の学習)の1つである。地方史の中の寺院史・門徒史はnazunaがコツコツとフィールドワークをし門徒家の古文書を探索して調べていることの1つである。 いやあ、現地にいってみるもんです。秋月は秀吉の島津攻めで降伏した土地であって、この島津攻めには本願寺教如が同行していたので、朝倉・甘木には真宗寺院が圧倒的に多い。それも、お西が。それはデータで知れたのだがいってみて??? 福岡から1時間余。山中の盆地。法泉寺さまの大黒さまのお話では、「しょうっちゅう市が立つ商業地であった」とのこと。街道筋の集積地であったのか、まわりが農村なだけに謎が多い。そして真宗伝播と繁昌の経過も知りたくなった。 肝心のO家のことは、関連ありだが石碑では善三郎と惣太郎もしくは辧太郎がかろうじて読み取れるぐらいであったので、O家先祖の墓とは断定できなかった。けれども、現甘木にはO姓は二軒しかない。そのいづれもが、伏見屋とは無関係とのこと。もっとも大阪の伝承では、写真の竹屋さんが本家であるそうだが、それも遠い昔の分家本家であるから当代にはチンプンカンプンであろう。 一応お話を聞いたが、「水町のOは知らない」とのこと。真宗寺院の教法寺・清原さまも訪問したが、伏見屋、Oとも記憶無し。したがって、関係は江戸の内に記憶をとどめ、歴史の彼方へとフェイドアウトした。 O家の意志で、永代経を納めさせていただき、壽光寺からは手土産を、法泉寺さまと甘木歴史博物館(写真)にお渡しして、この旅は終わった。 博多での一幕は次回に。 |
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7月、法事にさいして、門徒さまから、想いを綴った手記をいただいた。 ご院主さま Yの50回忌に際して、一言、私の思いを聞いていただきます。当時、私たちは広島県の小さな島に住んでおりました。私を含め御近所で3人の若嫁が男の子を出産しました。私と隣とお向かいと。3人で赤ちゃんを抱いては、おしゃべりをし子守をしておりました。戦後すぐ本当に絵に描いたような、楽しい和やかな日々でした。 ところが、私の赤ちゃん、Yが死んでしまったのです。生後4カ月で…… 手のとどかないところへ。私の前からあの子が消えた。 長女を抱きしめて茫然としている私に、皆が同情して声をかけてくれます。慰め、励まし。けれども、耳に声は聞こえても私の心にはとどかない。「子どもをなくしたことのないものに、なんでこの痛みがわかるのか」と叫んでおりました。 そんな私に母が言いました。 「あんたは四か月の子どもとの日々に胸がいたんでおられる。けどな、わしはA子を原爆で亡くした。16歳じゃった。16年間の日々を残してあの子は逝った。言葉ではいえん思いじゃった。そやけどな、人間ちゅうもんは勝手なもんじゃ。3年たったら少し心が軽くなり、7年たったらフッと忘れることができるんよ。辛抱しなさい、辛抱して待ちんさい」 それでも「この悲しみが3年7年で?そんなはずがない。」と、よけい頑なになっていきました。 毎年、椿油を行商にくるおばあさんが、ある日、家の中に入ってこられました。いつもの日本手拭で姉さんかぶり。絣の着物に赤いおこし姿です。80歳くらいだったでしょうか。そのおばあさんのお話が私を変えました。 「この家はボクちゃんが死んだそうやなあ。お宅は浄土真宗かいなあ。浄土真宗やったらそのお子は、仏さまじゃ。ねえさん、ねえさんはこの家のお仏壇を相続して家を守り仏さまにお給仕される立場にあるお方やから仏さまが可愛い我が子の姿で現れて、そして還っていかれたんやで。可愛い子どものお姿で、仏さまにお導きいただいたんやねえ、きっと」 この言葉が悲しみを乗り越える力になりました。今思えば、このおばあさんも仏さまのおつかいのように思えます。あれから50年。大好きな母も椿油売りのおばあさんも、忘れられない言葉を残して浄土へ還られました。ただただ合掌です。 今、一枚きりのセピア色になったお宮参りの写真を見ています。Yくん、ありがとう。抱きしめられていたのは、私の方でした。ありがとうございます。 法事のあいさつに代えて、ひ孫まで合わせて20数名の家族に、この手記をあいさつとして読まれたことである。 戦争は多くの悲しみを生む。原爆の日に、全ての子を喪った親を想う。世界中の人間を「わが一人子である」とされる、大悲の親、如来さまの胸の内はいかばかりであろうか。仏説阿弥陀経を「わしはあれを『仏説ナミダ経』としか読めん」とおっしゃられた先師がおられた。 念仏に生かされるとは、その如来の涙の一滴でも汲み取れるヒトに、お育ていただくことである。 原爆の日に。 |
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浅井成海師の 訃報に接する。御病気であらせられたが、こんなに早いとは…。無常迅速である。 師は、大伯父・東森善城とともに、桐谷順忍和上を師と慕われ、そのご縁で我が曾祖母、東森のおテルばあさまのことを、書いて下さった。「暁の鐘」である。 不思議なご縁で、節談説教研究会の会長職を担って下さり、播磨の東保流の研究会でお会いしたときに「東森のひ孫です」と、ご挨拶させていただときには感無量であった。それが、昨年のこと。 師は、龍谷大学で教鞭をとられ、本願寺教学伝道センターや同和教育振興会で、常にそのときそのときの「今」の課題と切り結ばれていかれた。厳しくとも真摯な姿勢を貫かれたお方である。nazunaのような学もないものであろうが、誰であろうが常に同じ「信心のなかま」として受け止めて下されたことである。 著書も多い。写真は、まさに今、毎土曜の「お朝事」でのくり読みからのご讃嘆(その日の和讃を讃題とした一座説教)のための、トラの巻として、座右にしているもの。 その師の残された言葉のうち、次のものがもっとも心打たれたもの。折りにふれて、nazunaの胸に響き渡って蘇るのである。真宗者はこの言葉で言い尽されてある。 南無阿弥陀仏
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