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歴史というものを「地方史・女性史・被差別者史」から、とらえ直すこと、と指標を与えて下されたのは、かの林屋辰三郎師であった。権力側からは常に「捉えられる側」としてしか、史料に登場しない存在こそ、歴史の主役である、というのがその隠された主張であると学生の私は理解した。 それは、宗教史も同じ。教団側や教学側からの視点だけでは、肝心の主役をこぼしてしまう。一例をいえば、我が宗派は、伝統佛教での最大多数派で日本でメインの教団であるといような錯覚を未だにもっている。 けれども「他力本願」問題以降、実は日本社会の表面の価値観には、その教学や領解からくる「価値観」が、真宗や本願寺のフレームで、知られることはまずない。 私の寺がモデルとするところを理論化された、慶大の中島先生がおっしゃるように、「日本のお寺はコンビニより多い」のであるが、また「その三分の一は、住職が不在であるか寺院として機能していない」という現実がある。 かつて1960年代には1000万門徒というておったが、本願寺派だけで500万門徒。其の中で、仏教・浄土真宗的価値観を主是としていう人の数はおそらく十分の一に満たない。 つい最近も真剣に「自分のあげるお経で死者が救われるのであろうか」と悩む真宗僧侶の話を聞いたばかりである。このフレーズには真摯さがあるから、信心を得る道にあるとはいえるが、既に真宗僧侶であるものが、読経の意味や葬儀法事での自分の位置づけやらそこで何をするのかという目的意識も、そして何よりも「救う主体」である「阿弥陀如来」を見失っているなど、おそるべき事態であることを示す。 何がいいたいかというと、仏教徒・親鸞門徒として歩んでいるという人の数はおそらく、日本全体で10万人ぐらいしか存在しないということである。社会からみれば明らかなマイノリティ。マイノリティな価値観で生きている私たちが、それを真実とし他者もまた救われていく道であるとするならば、価値観を共有していない人々にこそ、念仏のみ教えを聞いていただかなくてはならない。 通俗といわれ卑猥と非難され扇情的といわれた「説教」。しかし、芸能的要素の濃いその説教こそ、大衆社会に向かって開かれてあったと認識する。 それゆえに、マイノリティの中のマイノリティである「説教」に関心をもつものが、大衆の中に埋もれ、教団のヒエラルキーからもっとも縁遠い「説教の歴史」をこそ、しっかりとほりおこし見つめ直し、そこから学ぶことが、未来に向けて重要なのである。 だから、私は「節談」説教を研究し実践するのである。と同時に同じ意味で、全ての大衆芸能に関心を持ち愛好し、マイノリティ故に、メジャーなメディアの提示する価値観や合意の形成過程に過度の注意を払うのである。 現代史を形成している自分を含めて、それぞれが歴史の主体であることを怖れてはならない。 |
浄土真宗をカタル
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本願力にあひぬればむなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて煩悩の濁水へだてなし 新春合掌。あけましておめでとうございます。夜中の新年でありますがよくお参りくださいました。天親菩薩さまの『浄土論』には、本願という言葉は二カ所出て参ります。その一つ「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」とございますのをやわらげて下されたご和讃がご讃題。仏の本願力を観じて~以下、というのは大変難しい言い回しであります。ここでは「観」と「遇=もうあう」という二つの動作を表すコトバが使われまして、その主語はいずれも如来さまであります。これが御開山聖人のお領解。如来廻向のおはたらきが称名という大行となり、如来の願い、すなわちわが浄土に引っとって仏たらしめる、悟りを開かせる、なぜなら現実の私やあなたがあまりにも理想の人間(十善のもの・中道を歩み煩悩を滅して悟りを得るもの)から遠ざかっていく生き方をしているからであります。
それゆえに、捨ててはおけないというお慈悲心を起こして、本願を建て成就した撒いたがかの阿弥陀仏。親様でありますから、この観と遇を「本願力にあいぬれば」と仰せになる。そして浄土往生とは悟りに入るということですから、如来の一味の世界を大海として、それぞれ個々に煩悩まみれのままのものが如来の功徳によって、悟りに転じて行かれる世界を与えて下さったと喜ばれていますが。それが満足す。そうしますと、速という字が残る。これは時速秒速というように、動いているもののスピードを表す時に使われる時間の言葉です。これを少しうかがいたい。
昨年を表すコトバは輪でありました。リングではなくサークルの方であろうと思いますが、人がつながっているという意味でありましょう。けれども、輪を作るとき私たちは必ず、ウチ外を無意識に作ります。 30日の日に東京では、とある公園でホームレスの強制立ち退きがありました。大手メディアではニュースされませんでした。おもてなし、が流行語になり、オリンピック景気に逸る国民の中で、そこから静かに外されている人々があることを、如来様のお智慧はお教えになります。経済であれ宗教であれ、人間のすることは「分別」の智慧ですから、内外をつくってしまい自分を中心にした同心円を描いて、遠いものはゾンザイに扱います。そこで凡夫同士がよりますと、いろいろと珍妙なずれがでる。オリンピック=国民全体 という観念に囚われると、その「輪」から外されているものが見えない。 生駒山を家の物干しから毎日見てる人が、生駒へ久しぶりに言ってきたと言うご近所さんに「そんなら、ウチの物干しが見えやろ」「いや、見えん」「おかしいな。ウチからは毎日見える」と言うたというい話がある。笑っておられん話でありまして、私たちはそうであると知らされます。だからこそ、平等心をもってヒトモノコトを受けとめる者になてくれよと、南無阿弥陀仏と仏様の願いが、今ココの外でもないこの私の上にかけられ、はたらかれているのです。気づけよ目覚めよ育てよと。
ついこの間、「僕が歩くと月はついてくる」という子と「月は動かん」という子の言い争いにあった。「そんなことあるか」「だって、この間の満月の日にお父さんと近所のコンビニに行ったら、僕が歩いてくるところをずーっとお月さんがついてきたで」「それは錯覚やろ。」「そんなことない。今歩いたらお日さんもついてくるで」「ほんまか」面白そうなのでついて私もいきまして。そしたら皆で「わあほんまや。雲のこっちからあっちへ抜けてついてくる」そこで、おっちゃんにも教えてと思わず話に入りまして「ほんまやな。ついてくるように見えるな」「うん、雲を追い抜いてついてくる」まあ、理科の先生の私はほおとけませんので、「あのな、ここにいちょうの木があるやろ、これを目印にして、雲と太陽としばらく見てみ」とものの一分もしますと、「ああ、太陽とちごうて雲が動いてる」「うん。歩くときについてくるのは、ものすごく遠い所に太陽や月があるからや」「こっちがずいぶん見る場所を変えても向こうから見たら、みんなはめえちゃ小さいからほとんど動いてないのと同じやねん。」こっちは1m先の砂を動かして説明しました。太陽と雲がどちらが動いているのか。それは動かないものを基準にしてみればわかります。もちろん太陽も動きますけれども、雲の方が速く去る。その太陽・月・星が動いているのも、地上の動かないものを基準としたときに、わかる。 何がどれだけそこからズレているかがわかる。如来さまが我等衆生にかけられてある願力とは、浄土に生まれよという願い、成仏せよ仏になってくれというはたらきです。「仏」の完全な智慧で我等をご覧になると、そ我等ののズレ、愚かさが明らかにみそなわされてある。だからこそそれを憑みとせよ、支えとすべし、とこの口にかかって下さる南無阿弥陀仏の名号を通しておすすになる。 新しい年は午ですが、午というのは午後午前の午という字を書きます。午の刻が24時間制でいう11時から13時をさし、その真ん中ですから正午というのが、お昼の12時となります。その昔は、お寺の鐘や太鼓で時を知らせたそうで、大阪城では時太鼓、御維新後は連隊がでできましたので空砲をドンとうちまして合図したと聞きます。それがないと、今のように時計がありませんから時刻がわからん。ドンならんなあ、というと時がわからなくなる。基準がなくなるのですから、秩序が乱れてるなあと。じゃあそのドンは何を基準にして打ったのか?太陽の南中だそうです。結局私たちは地球や宇宙の法の中にある。それに包まれて存在しているのであるのですね。仏法が願力となってある、それが生きる基準。速ということを比較ではなく、全体的かつ絶対的ものとして、AならばB,という時のAとBに時間差を見ない。ちがうけどいっしょという有様といただきます。 無雑無疑の真実心は知らされた時にはいただかれてある。比較できない速さで今あられるから「速満足」を「みちみちて」とおっしゃる。本年も身に余る如来の願力によって浄土への道を育てられていく私どもであることを喜び喜び、報謝の念仏絶え間なく。ご相続いたしましょう。 肝要は上人一流章御拝読。 |
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11月に入って大阪編。M.O.P のキムラ緑子さんの快演で、嫁いびりが盛り上がるが、かの西門家がご門徒。 船場のお家は商家や資産家(多方が家主や地主で、相場をはったり相撲取りのタニマチであったり、歌舞伎や浄瑠璃や落語家の贔屓筋)が多く、始末にうるさいが使うところはぱっと使う。 この西門が見事にお西の門徒さん。緑子さん演じる小姑さん、西門の仏壇に向かってお朝事(勤行)。正信偈の御本を開けてのシーン。今日は、仏壇を背にセリフ。下がり藤の御紋の入った御文章箱が写る。 たぶん、西の門徒で「西門」とついたか??? |
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小学館ビルが取り壊されるそうである。マンガ週刊誌として、nazunaが初めて読んだ「少年サンデー」!40円
人間と書いて「じんかん」と読む。
世間ということ。
お経では「衆生」と出てくる。時代が下がると「有情」とも訳されて、原語は「サットヴァ」。在るという意味での生きものか?感情や意識あるものという意。
また、「バフジャナ」という言い回しを意訳して、お説教では「衆多の生」ということがある。これは時間軸が意識されて。多くの生命現象を輪廻しているという意を述べる。また、現象的には共時的に多くの境涯の違う生物が宇宙中に溢れているさまをも述べる。
つまり、類としての人間という観念が仏教の前提にあるということ。
話変わるが、ペットの葬儀。そういうと眉をしかめる先生も当流にはいらっしゃる。しかしそもそも、人間の葬儀だって仏教がかかわる必然はないわけで。
法事だって行ってもいい。全ては仏教を学ぶ「縁」となるならOKじゃないか。もっともそう考えが整理できれば、
「あれ?今日殺して食った、ハモの葬式していないなあ」
「畑のキャベツをいただいて丁度一年か。よしキャベツの一周忌をしよう」
というのもアリでしょう。
「受け難き人身」と仏法は言う。類としての人間を他の生物とは「境涯が違う」と区別する。それはもう、現代では「あたりまえに」人間だけが特別だと類内では理解されているのだが。
その特別が実は人間自身を縛り苦しめると見抜かれたのが釈尊であるのだが。その人間感覚を外に広げて、「子ども同然のポチやタマ」が生まれる。
でも、反対はないのですよ、念のため。あなたが先に死んでも、ポチ・タマは葬式してくれませんから。
ましてや「親同然の人間の法事があるので、今日は散歩を止めて、実家へ帰ります」と、他の類はいいません。
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悪の続きとなる
源空上人・法然さまという人はすごいお方で。
大原・勝林院で、南都北嶺の学匠方々の教理問答に対して、「称名念仏で浄土へ往生して仏となる」ことを明確に述べられると共に、今ここの私、という実存的な問題の立て方、「時代と機〈人)に相応した」というフィルターで大乗仏教を整理された。
それまでは天台の五時の教相判釈。
これは中国で成立した学であり、テキスト批判であった。そりゃそうだ。経典というテキストでしか仏教の全体像は把握できないのだから。そしてそのテキストに矛盾があたり量が膨大であったりするから。
これが天主教や回教であればテキストは一つ。だから逆テキスト批判ができないので、「解釈学」での正邪になる。
そこで仏教。仏教は絶対的崇拝者をもたない。だからブッダに至る道はそれぞれ、といわれても納得できる。
時代と人により「煩悩を滅して涅槃に至る」道はいろいろあるのだ。
でも、私が歩めるのは一つ。
じゃあ、私が歩める道とはと考えるときに、一つは自性が二つには縁(時代や社会の在り様)が問題になる。
つまり、今の私はどういう存在であるかという実存が問題となる。ここに形而上学が実践学になる契機があるわけで。
源空上人が自身に見出されたお答え。それは、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没(もっ)し常に流転して、出離の縁あることなし」という善導大師のご自覚でありました。
ブッダになるということは本当の人間になること。真人間の人生を生きる。
でも、そういう要素が自分で自分の中に見出し得ない私であります。お釈迦様が命をかけて導いて下さった教えを聞かず、生活の在り方もその教えに背き、むしろ煩悩の限りを燃やしてなお尽きない。
それが私と。法然さまは上記の善導大師のお言葉に深く同意されるのです。
仏道に背いている私の発見。こうなった人を「悪人」といいます。
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