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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

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有隣寺 祖父江佳乃師
5月19日(土)朝9時〜
今年の春の説教旅の最終。祖父江佳乃師のお寺へ。
 
昨年に続き二度目の出講。いわずと知られた、テープでの大師匠様「祖父江省念」のお寺。
 
今回は、前住職である御父上のご往生にともなって、佳乃師の継職法要である。
 
いやあ、めでたいことである。前日に新聞報道があったとのことで100名を超える人。
余間にも座っていただいて。府越師と「輪燈はずしか?」と笑う。
 
かの昔は、お聴聞衆が溢れたら、内陣の荘厳を外しかたづけてでも、お聴聞を優先させた当流の伝統である。
 
出講は、節談説教研究会事務局長・府越義博師(東京・本浄寺)、説教東方流継承者・西田智教師(兵庫・福恵寺)、nazuna、そしてお師匠・松島法城師(兵庫・専福寺)で午前中終了。午後の一番で佳乃師が出講。それから「浅香の太鼓」で「MUSE親鸞伝」と盛りだくさん。
 
nazunaは、昨年12月に佳乃師からリクエストをいただいた、祖師聖人親鸞伝より『弁円済度』を語る。
 
開始直前に、時間の打ち合わせがあり、それぞれ30分となって、nauznaは法説の一部をカットし譬喩を2つほど削る。
 
西田師に「結弁やけど、露は同じき露ながら〜 と、シャバ海原船出して衆禍の荒波他所へよけ〜と、2つご讃題に合わせて用意してんねんけど、どっちがええ?」と聞くと、西田師「ぼくは、露は〜 が好きですね」とおっしゃったのでそっちにする。
 
なにせ、その場の空気で変えなければならんことも多いので、高座に上がらせていただいて、譬喩や因縁を変えることもある。今回は「因縁」話は「弁円」と決定澄なので、名古屋の地、しかも節談どころか初めて説教を聞くという人もいらっしゃてることを考慮する。
 
ところが、佳乃師から午前は4人で終わること、それから午後の太鼓が道路事情で到着が遅れているので「たっぷり」と指示が入る。府越師は直前なので調整できないから、西田師と私で11時15分〜30分終了にしないと、あとのお師匠様が困る。
 
わわわわ、と急きょ長いバージョンを頭の中で整理する。まあ、これもご縁で、おかげで新解釈の「弁円済度」をきちんとできると喜ぶ。
 
さて、西田節は東保流。研究会現会長の神子上恵群先生のお寺、東保・福専寺の獲麟寮にて発展した、本願寺派四流派の一つで最大のもの。正確に法説を説き、御伝鈔や御文章の拝読法や声明の節を生かした、最初から最後まで抑揚のついた説教。
 
我々のようにお聴聞を重ねまた、お聴聞によって聖教に親しみお念仏の尊さを知ったものにとっては、なんとも懐かしくまた有難いゆったりとしたリズム。
 
ところが、現代のしかも初めて聞く、という聴聞衆の反応は鈍い。仕方のないことであるが。喩えは悪いが成人して初めてお酒を飲む人に、超辛口の純米大吟醸をふるまうようなもの。
 
府越師、西田師と続いておよそ、1時間少し。休憩はとらないので、まずみなさんにノビをしてもらうとかして、空気をほぐさんならんなあと思いつつスタンバイ。するとさすが、司会の方が空気をとられてノビをしましょう、と指示してくださる。あとのお師匠さまのために、すべき仕事を一つとって下さった。
 
有難いと高座へ向かう。そのかわり、トイレに行く人うろうろする人、空気が一気に雑然とする。いっちゃ悪いがこういう空気が得意なんですね。ご讃題を厳かに朗々といただくと次第に静まり、第一声でつかむ。
 
お前座の仕事なんです。真打のお師匠には初めからこれで終わるというのと、キャリア、そしてネームバリューの期待があって自ずと「聞こう」という構えができる。だからケレンはいらない。
 
仲良くしていただいている、落語家の林家染二師によれば、繁盛亭の番組でも、「出番とネタを考えてできない噺家がある」とのこと。常に自己アピールを優先してしまうので困るのである。8人なら8人で、お客さんの立場にたって、最後までじっくり聞いていただき帰っていただく。それで、また繁盛亭へとなるんで、個人の独演会やホール落語と寄席は違うということをふまえて、ということである。
 
nazunaの場合は、お説教を聞いた人、中でも初心者が「おもしろく」感じてくださり、念仏の人が「どことなく有難い」と聞こえてくだされば、阿弥陀さまのお心を誉めたことになるかなあと思うているのですね。
 
まあ、新解釈のネタおろしという意味では、うまくいったかなあと。名古屋のCBCラジオに説教は収録されたので、これについては別途台本を公開します。
 
楽しい半日。夜はセレッソのホームゲームなので、佳乃師の『出家学道』+継職の思いを聞かせていただいて帰阪。
 
佳乃師は、10月7日はウチにお出ましになります。みなさん来てくださいね。
 
 
 
 
 
 
 
 

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なぜ節談か? 総論

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現「林家」師弟の看板(繁盛亭)
 
丹羽文雄は真宗の寺で生まれた作家である。その丹羽が小説の中で、『節談説教』を批評している。
 

本堂では、説教がはじまっていた。勉強室まで、きこえた。声に抑揚をつけ、うたい文句のところでは十分にうたい、高座の説教師は、善男善女を手だまにとっているようであった。浪曲に近い肉声の魅力が、聴衆をうっとりとさせた。鈴鹿もたびたび説教なるものをきいていたが、問題をだし、その解き方をしめして、答えまで説教師はだしてみせた。そのかぎりでは、理解にくるしむことはなかった。が、人生問題は数理とはちがっていた。方程式の解き方をいくらしめされても、抽象世界の問題では器用に納得がいかなかった。方程式の解き方は、自分が苦しんで納得しなければならないもののようであった。説教師は、これほど安易なありがたい教えが何故わからないかといった調子で、答えばかりをくりかえし、ありがたい節まわしで押しつけた。ひとのよい善男善女は、ありがたい答えをおしつけられて、自分でもわかったような錯覚におちてしまうのかも知れなかった。わかったような気もちになる。実にありがたがっている情緒で、念仏をとなえた。念仏をとなえずにはいられない雰囲気を、説教師は巧妙につくりだした。説教は、中途で休憩がはいった。説教師は高座を下りて、奥座敷にかえった。すると、寄席の休憩時問にもの売りが客席をあるくように、世話方が粗末な、四角な盆を、あちらこちらにちらばらして歩いた。うけとった参詣者は、なにがしかの賽銭をいれて、となりのひとに渡した。それが順ぐりにまわされて、最後に世話方が盆をあつめてあるいた。
(略)説教が終ると、説教師は目の前の黒い箱から高田派の御書をとりだした。第一頁をあけて、事務的によみあげる。 「……世間には王法をうやまひ、公方をあがめ、国主地頭の法度をまもり、公役所当つぶさに沙汰をいたし……」 今日ではまったく通用をしなくなった名詞をならべて、おかしな教訓を垂れた。よみ手自身も、時代錯誤はすこしも感じていない風であり、たれも矛盾につまずきもしなかった。
 勉強室の鈴鹿は、説教師の浪曲調になやまされると、はらがたった。しみじみとした対話調子の方が、参詣者の胸のそこにもとどきやすいのではないか。しかし、大勢を相手のときには、統制する意味からも一つの調子が必要のようであった。それにしても、浪曲のまねはいやだった

主人公の鈴鹿の述懐(下線)に見られる、受け止めこそ、漱石以来の日本近代文学のテーマであった。
 
ヨーロッパ近代と前世代においては否定し視野の外におかれていたキリスト教的世界観と人間観が、まさに雪崩をうって脳内に飛び込んできた世代。
 
明治生まれは、日本と近代世界との断絶を生きるという状況を与えられ、近代的自我の確立という、表現は悪いがサルのオナニーのような循環の輪に貶められたのである。
 
近代化→西洋の模倣と移植→オリジナルな近代へという「進歩史観」は、実は左翼(今は「サヨク」)から明治の元勲に至るまで、同根であった。これは、現代でも続いている傾向であり、マスメディアに特に残存する。「アメリカでは…」「ヨーロッパでは…」という紹介の仕方や口調に明らかに、遅れた日本と進んだ西洋、という構図がうかがえる。
 
共産中国が躍進して「進んだ中国」ができたら、この構図が崩れる。あるタイプの人々にとっては、明治以来の「近代日本」という構図の書き直しが迫られるわけだ。
 
古代では「中華・インドでは〜」といい。儒教においては「朝鮮では〜」といい、それぞれその構図が書きなおされた。それが歴史である。
 
さて、仏教は「無我」が真理と教えるのであるから、「近代的自我の確立」なんぞは世迷事である。
 
丹羽が描いた「近代的自我」の確立というベクトルから見た「節談説教」は、まさしく陰画となって、その「近代的自我」を批判する。
 
確かにこれが「没我」となったとき、ファシズムへの協力や世俗権力への無制限お追随を生み出すのであるが、御承知の通り浄土門は、「煩悩具足の凡夫」と自我を放棄しない、できないという人間観が基礎にある。
 
だから、「実にありがたがっている情緒で、念仏をとなえた。念仏をとなえずにはいられない雰囲気を、説教師は巧妙につくりだした」と丹羽が描くよう、「念仏のみぞ真におわします」ので、いいのである。
 
「南無阿弥陀仏」と称える宗旨である。それを見失って、「理解」や「批評」を求めて、つまり「理性」を発達させたら、縁起を見失って「無慙愧」のものが多数うまれただけである。個の確立ではなく「孤立」である。
 
そして、皮肉にも「念仏を称える」という行為そのものが、こっぱずかしく時代遅れ、という感性を育てて、「法座」は痩せ衰えたのである。
 
しかし、大乗仏典に依れば、仏法は正法輪身の菩薩による三輪説法(身業説法・口業説法・意業説法)の菩薩道に実践的に展開されるわけで。その口業は「四弁八音」と言われる。
 
四弁とは、四無礙智・四無礙解・四無礙弁のこと。教えに精通している法無礙智、教えの表す意味内容に精通している義無礙智、いろいろの言語に精通している辞無礙智、以上の3種をもって自在に説く楽説無礙智。これを理解力でいうと「解」となり表現力でいうと「弁」となる。
 
八音は、如来の説法の音声に備わる8種のすぐれた特徴。極好音・柔軟音・和適音・尊慧音・不女音・不誤音・深遠音・不竭。八種梵音声である。
 
また、経典そのものが聞書きであるから、経典(書記されたもの)を考察すると、12部経というジャンルわけが成立していて、そこでは、〈ニダーナ〉〈アバダーナ〉という
由来譚や教説の譬喩・因縁譚がある。また、〈ギヤ〉や〈ガータ〉などの韻文、すなわち節を付けて読誦されたものもある。
 
つまり仏典=説かれたもの、説かれるべきもの、であるのだ。
 
ライブの音声で語り謳い上げられるものとして、仏法は現象する。これは、講説というテキスト読解のもつ専門性と分析性には劣るかもしれないが、「四弁」にあるように、それを踏まえて大衆的に語るというベクトルもちゃんと示されてある。
 
つまり、思弁性も具体性も欠けた説教、というのは、単に不十分なだけであって、高座での譬喩因縁説教を排斥したり、否定する理由にはならない。
 
いやむしろ、その問題点を意識しながら進めれば、高座布教という伝統スタイルの付加価値と、譬喩・因縁説教というまさに大乗仏教の王道は、必ず「聞法」と「称名」をもたらすと言える。
 
 
 
以下は難解なことを書くので、関心のある人だけ。
 
 
今やっと世界は、多元的世界観や脱近代を次のベクトルとして選択しつつある。また、万能の人間観や直線的宇宙観(進歩史観や救済系世界観)に疑義が生まれているのである。
 
フッサールからロラン・バルト、そしてジャック・デリダミシェル・フーコーなどが、書かれたものを中心に情報の交換(ネット時代にはこの考察は必至です)や、オーラルコミュニケーションや、セックスを含むボディコンタクトに対して、哲学の伝統からジャンプして新しい考察や定義を述べています。
 
そこから場と状況とヒトに依存するパフォーマンス分析へ。ジョルジュ・バタイユジル・ドゥルーズ。それにはアントナン・アルトーに淵を発して、ピーター・ブルックにおいて大成する演劇論に至る別流がある。
 
これまた不思議のご縁で、演教連での「ワークショップ」と水上勉の『ブンナよ木からこりてこい』公演などで巡り合った、のちにアニーなどの演出で知られる、青年座の演出家・篠崎光正からの縁で、ピーター・ブルックを知った。(20代から30代前半のnazuna演劇体験ツアーも大きな財産であるなあ)
 
フェリックス・ガタリから、nazunaと同世代のオタワ大学のピエール・レヴィに至る大きな思想界の潮流は、情報社会論やヴァーチャル・リアリティ論へと展開されつつあるヴァーチャルとは何か?―デジタル時代におけるリアリティ』昭和堂・3045円(本堂や仏壇の荘厳論に援用できます)参照。
 
ちなみに、nazunaの大学卒論の「ファンタジー論」は、ガストン・バシュラールの詩的想像力分析と科学知識の獲得論に基づき、バシュラールはおっ師匠さま。その弟子が、科学史家でありながらその著述は「詩」としか読めないかのミシェル・セール。セールとフーコーは大のお友達。でその弟子がピエール・レヴィなので、レヴィとnazunaは同門である(モチ、こっちが勝手に言うてる)。
 
仏法ではすでに、三輪説法(身業説法・口業説法・意業説法)と唯識において、同程度の考察は考察にとどまらず実践的に展開されています。
 
何のことはない、周回遅れであるとあせって無理をしていたが、「大乗仏教」はトレンドになるのである。一周回って先頭である。そして、観念的にはコミュニケ―ションを絶した「念仏」こそが、現象的には真理からの呼びかけとしてコミュニケートし人と人をつなぐコンテキストとしての唯一性にはたらく。
 
無意識に伝統を生きた説教師たちは、「念仏」に浸る状況を生み出したのであって、実はそれこそが必要な実践であったのである。
 
最後に残る大きな課題を示す。これは現代的であり、今のnazunaでは、大乗経典の勉強不足でまだ、お示し(ベクトル)が見いだせない。もちろん現代哲学も社会もこれを今課題としている。
 
障碍者論である。「聴覚など受容作用が比較上少ない個体におけるパフォーマンス論」である。具体例では「障碍者のセックス」や「色彩心理」、あるいは病理学にも及ぶのだが「アレルギーとアトピー」。そして脳機能論。
 
もちろん、「節談説教」そのものの問題ではないが。しかし、「聴聞」というとき「聴覚のない人や失われた人をどうとらえるのか」。或いは、「視覚障害の人には荘厳(形色光)が見えない。それをどう伝達するか」であり、声を失っている人に進める称名とはという問題である。
 
(これらは、ディスクール考察にもかかわる、テキストとしての「経典」批判問題にもいたるので、今のところは個人的に消化するしかない状況であるが、人類全体の課題である。いづれ解答が迫られる事態はそこまで来ていると思われる。ただ、ここで三輪説法の可能性に思い至るのであって、意業・身業として成立する世界は確かにある。詳細はいづれまた)
 
 
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歌詞の保存研究と節の譜面化を進めた 保存会
 
さて、問題提起の②と③である。
再掲すれば、

②見えない状態の高座が、地上(ご門徒・大衆)に触れたときに、可視化されて竜巻となるぐらいの勢いやレベルをキープしているか
③そのための基礎構造を会が提供できているか(しょうとしているか)どうか。

小林顯英師は、『「臨終の法話」といつも思え』と戒められる。桐谷和上は「自身に聞かしめる如来の声」とおっしゃり、灘本和上は「ご本典(教行信証)を歪めることなかれ」とおっしゃられた。いづれも、nazuna自身のお聴聞の中での記憶である。
 
多くの善知識に恵まれてあるのは、「常例法座」のおかげである。祖父が住職となって現地に移転して以来、「月に両度」の常例を続けてきたことのおかげさまで、お聴聞が自然となった。
 
nazunaの少年時代では、渋川敬應師や小山法城和上、緒方秀樹師、雑賀貞浄師、渓間浄観師、そして梯実円和上である。大叔父の西王地寿真師は、「かずまのおっちゃん」であり、最晩年までお聴聞させていただいた。また、高座でのお説教姿がはっきり記憶に残っている師である。
 
10代で得度した直後から父の命令で「葬儀」や「法事」をまかされ、一座10分から〜20分の御法話をせよ、という場に立たされたが、「倶会一処」のお話が不思議と口にかかって、させていただけたのは、聞いたまんまを語っただけであった。
 
やはり、お聴聞につきるのではないか。法務につくものは、正直、時間と手間でなかなか自坊以外でお聴聞できない。②と③をかねて、「節談説教」を沢山お聴聞する、できうる場を設定する。これが大事であろう。
 
現在、会の中心は「セミナー」と「錬成会」である。これは非常に有難い。何せ、一日中お聴聞だ。また、自分の「高座」を多くの仲間に聞いていただき、お師匠からご示談いただける。
 
このうち、「錬成会」を地域で行えないかと、思うのである。その際、前述の「好み」に偏らないように、師は複数きていただく。会員相互の意見交流の時間を平座でとる。「錬成部分は伝統にのっとり師のご示談」で「会員相互はざっくばらんに意見交換する」という具合になればいいが。
 
 
その際に、中心観点は必要である。これはある程度客観化したいものである。たとえば、技術技能的には
・マイクなしでの声の通りと発声
・高座での作法とふるまい
・語りと節の混ざり具合
など。
 
そして説教内容については、
・五段法をふまえた台本づくり
・教学的な正確さ
・譬喩、因縁における用語や言葉遣いの検討
・高座に限定せず、「立って話す」形で節を抜いても、成立する展開内容
など。
 
これは、個人的な例であるが、議論すれば現在でもいくつかの共通理解は確認できると思う。
 
またそうすれば、「節談説教研究会」の、布教基準というものが、外部にも明示されて、④の各宗派内の理解へとつながっていくのではなかろうか。
 
以上、現在まで愚考した次第。
 
 
 
 
 
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魚津「せり込み蝶六」街流し:真宗教義や親鸞伝から始まる「口説き」である
 
問題提起の①と⑤にかかわってである。
 
会が「お師匠」とする方と、それぞれの宗派で「よい布教使」とされる方とは必ずしも一致しない。
 
「よい布教使」というのも俗っぽい言い方であることは承知であるが、御住職や宗派が呼ばれる先生と、門徒さんが「また聞きたい」「何度も聞きたい」と思われる先生にもズレがある。
 
僧侶の視点でいえば、教学的に正確であって、なおそれを感情豊かに説いて下さることに重点を置いてしまう。
 
しかし門徒さんは、これも俗な言い方であることを承知でいえば「わかりやすく」「おもしろい」ものを求める。「わからんままに救われる」ご当流からいえば、これは大変危険。けれども「わかる」という言葉を「直観する」という意である場合もあるわけで。
 
いくつかの危険をはらんでも、真宗各派で「法座」が立たない現状を思うと、「生の説教はおもしろい(清少納言的に「いとをかし」)」とアピールして法座を増やすことが、当面必要である。これは間違いない。
 
研究会はサークルである。サークルである以上、立ち上げたメンバーの「好み」が反映される。東京築地・大阪北御堂と大きな大会ができたのは会員の熱意と力であることは間違いない。けれども、ここで今一度、「好み」という主観的な評価軸を点検する必要がある。
 
創設にかかわり、或いは会員としてセミナーに一度は参加されたメンバーで足が遠のいている人が生まれていないだろうか?
 
或いは各宗派で「会のメンバー」はどう見られているのだろうか。
 
アーカイブ世代の我々と、随行世代の方々とは受け取りが変わる。
 
アーカイブ世代では、関山和夫先生と小沢正一さんの業績から、一般に広陵兼純師と筆頭にして、茂利宗玄師、川岸不退師、寺本明観師、誓山信暁師、野上猛雄師、祖父江省念師、が一人者となる。また、真宗内部では、すねいるや市原栄光堂などでカセットテープ化された「法話・説教」で、藤野宗城師や範浄文雄、真了師、滝川堅正師や青木明透師、毛利顕成師、西尾常信師、藤嶽敬道師、西尾常信師、佐々木伸麿師、そして東保流・竹内文昭師が認識される。
 
2007年時点で、これらの音源のある方に加えて、各地域や宗派で「高座説教」をなさっておられる師をお聴聞された布教使さん方を加えて、実際に高座で実績のある方を一律、お師匠とすべきである。これがアーカイブ世代。
 
しかし、2007年に既に「節談説教」を実践し、また師について学ばれていたり、過去に学ばれた経験のある方の思いは違うはずである。谷口幸璽師や佐々木高彰師、塚本敬慈師、千葉善英師、さらには東保流の方々は、違う評価軸で「師匠」をとらえられているであろう。
 
だから、会としての「好み」は偏らないためにも、2007年の時点で、高座布教中心の先生方は一律お師匠として、みんなでお聴聞するという機会が、今必要なのではないか。特に、ここ数年、お聴聞の機会のない先生方に、会員がお布施してお聴聞することが(ご招待)、あればいいなと思う
 
高座や節談に対する思いや考えも様々であるから、虚心坦懐にお話しをうかがうことが望まれる。
 
 
また、会のベースには、関山&小沢コンビの仕事があるわけで。特にレコード化された「日本の放浪芸シリーズ」「能登の節談説教」は1970年代の仕事で、nazunaが学生のころであったと思う。既に米朝全集のレコードを収集していて寄席通いはピーク。また、テント芝居に熱中して、「語り」と「物語」への関心を高めていたので、小沢の「板敷山」と「榎物語」を聞いた記憶がある。さらには、関山大先生の「説教」研究本や落語関連本に大きな示唆を受けてきた。
 
今、この仕事のあとに生まれてきた会員がいる以上、何らかの形で「関山&小沢&広陵}の回想録が望まれる。この仕事と、すねいるなどの法話テープの仕事が、真宗文化として特筆される業績である以上、会としてそこからきちんと学び、敬意を払う必要があると考える。
 
この2点は、個人としても自分の中できちんと考え続けなければならない。共時的理解歴史的理解の両軸であり、会の仕事の客観化でもある。
(続く)
 
 

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富山で見た典型的な積乱雲
 
大会が終了して、考えることが多い。
 
整理しなければならない問題も多い。
 
親鸞さまのご遠忌にかかわって、「節談説教」にお声がかかる。会員の実態を会が全て把握できるはずもなく、それぞれの地域で行われている情報を、いろいろな形で漏れ聞く。
 
今、「節談説教」はこの積乱雲のような気がする。
 
先日門徒さんからおしえていただいたのであるが、竜巻は下から上でなく上から下なのである。
 
ややこしい説明(気象学・自然科学的説明)を省いて言うと、積乱雲が地面に触れると竜巻となって可視化されるということである。ということは、あちこちで竜巻的状態が起きているわけで。
 
「みんな見えてないからないと思ってるんです」「目撃されない状況で国内でもしょっちゅう起きてるんです」とのこと。
 
 
トップダウンが現象化するとボトムアップに見える。これが会の現状ではないか。
 
そこで問題を整理すると、
①トップが実態として確立できているか
②見えない状態の高座が、地上(ご門徒・大衆)に触れたときに、可視化されて竜巻となるぐらいの勢いやレベルをキープしているか
③そのための基礎構造を会が提供できているか(しょうとしているか)どうか。
④各宗派内で認知と評価の努力を求めているか、またそのための努力をしているか。
⑤積乱雲は雨を降らすか高温度によって消える。説教・讃嘆は「語り」である以上、場とヒトに依存し消える。一過性である。したがってアーカイブされたもの(DVDやCD化や文字化)との関係を整理できているか。
 
の5点であろう。
 
 
 

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