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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

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(地蔵とは大地に内在されるもの、という意味。kSiti gharbha=クシティ・ガルバという)
 
ストーリーを先に追う。

高野山で僧侶となった藤太の庵へ、一人の修行僧が訪ねてくる。問わず語りで、「姉が男を追って京都の西院へ行き、父は戦に参戦して関東へ行き戻らず、自分も結婚するはずであった娘に死なれて、つくづく無常を感じて、出家したとのこと。
 
なんと、おりんの弟であった。して、貴坊のご出家の因縁は、問われて答えに窮し、「ああなんと、逃れたと思うたかのおりんの因縁であったが、そうはいかんかった。かくなる上は、諸国遍歴の修行に赴かん。また、西院に残してきた妻子にも一目あいたいものだ」と高野山を降りる。
 
すると不思議に生臭く、山を出るとまた再びその腹に、蛇身がとぐろを巻きちろちろと赤い舌を出しているのであった。

 
「海・河に網をひき、釣をして、世をわたるものも、野山にししをかり、鳥をとりて、いのちをつぐともがらも、商ひをし、田畠をつくりて過ぐるひとも、ただおなじことなり」と。「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」とこそ、聖人(親鸞)は仰せ候ひし」と親鸞さまは語られた。
 
上記の説話もそうである。高野山へ上って修行していればそれはそれで新しい業因となるのだが、だからといって宿業は消えない。自業自得であって、藤太の中にあり続け働き続けるのである。
 
したがって、この説話は室町以降、地蔵伝説が十王説と結びついていく以前の地蔵の姿が描かれてあると判断できる。縁起を受け取れない凡夫が、いらだちそねみ悲しみの中で、自ら苦を作り出していく姿を描いているのである。
 
ここでの地蔵(まだ登場していない)は、空也伝説の中の地蔵であり、最終的には念仏勧進のための地蔵である。
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『西院河原の物語』としての探索は進行中であるので、後述したい。
 
さて、最初に仏教説話のもっている問題を指摘しておきたい。この『西院河原』もそうであるが、一因一果が意図される。蛇を無益に殺生した→子どもに祟る、という構造である。それはそれで庶民にわかりやすいのであるが。
 
実際にはおシャカさまの思想では、複因複果を示す。縁起である。それを一因と受け止めていくのは「選択」であり、それを選択することそのものが主体性である。
 
ここに、「すべては過去のよって決定されていて未来はそれを受け取るだけで、どうああがいてもさだめには逆らえない」という単純な運命論を否定し越えていく道が明らかになる。

物語に即せば、
 
おりんは藤太の裏切りを怒り、熊野から西院へのりこむ。そして藤太と対決するが、男の甘言に騙されて新婚家庭の下女として同居する。しかし、夫婦に子どもができるによって、再びおりんの嫉妬心と瞋恚に火がつき、蛇形となって夢で夫婦を苦しめる。そこで、とうとう藤太はおりんを殺害することを決意し、「家を捨てて熊野に行きいっしょに暮らす」と又もや甘言をもちいて、連れ出す。
 
淀川を下り、渡辺津から四天王寺、熊野街道を下って堺に来ても、タイミングをのがす。やっと岸和田でりんを惨殺する。しかし、おりんは怨霊となって藤太を襲い、その腹に蛇身となってまきつき離れない。
 
この姿では西院村の妻子の基へは戻れない。仕方がなく藤太は、高野山へ上り出家となってこの因縁を絶とうとする。不思議なことに高野山へ上り、結界内に入ると、腹に巻きついていた蛇身が消えてしまったのであった。

このように、一因一果の形で展開するが、ここで近代の私たちは外部視点と内部視点を獲得しているので、物語を批評できるわけである。
 
すなわち、藤太自身が縁起の中から、自己の主体によって選択した結果、このような事態に至ったとみれば、藤太の責任でこうなった。おりん殺害で(因)が蛇身に呪われる(果)ことになる、という見方ができる。ナラティブではそうだ。
 
けれどもこれをおりんサイドから見ればまた、おりんの嫉妬心や瞋恚が因となって、自身が殺害される(因)となったと見える。
 
さらには、藤太のおりん殺害という事件は、藤太自身の放埓による勘当からであり、それはまた藤太幼児の際の父の無益な殺生が因となったともいえる。
 
一方で、「無益な殺生」という見方そのものい「有益な殺生」があるのかという問題、そもそも『殺生』をしない人間があるのかという問題がはらまれている。
 
この物語は、「モノかたり」であるから、話者と聞き手との間に成立する説話空間において、成立する感情がその基底となるべきであって、物語のスジからの論理的帰結はむしろ物語を成立させる骨組である。
 
したがってそこに仏教的な装いがほどこされれば、「仏教とは」という新たな「語り」を生む母体となる。こうして、仏法は無数の物語の連鎖によって、「仏教」となったいったのであり、それは歴史的必然である。
 
けれども、日本神話において、理由もなくカムヤマトイワレヒコによって追いやられるトミのナガスネヒコのように、追いやられるもの排除されるもによって、担保される中央性と正統性こそが、論理というものの中核である。
 
多因多果という、現在ではむしろパラレルワールドとしてSFのエクリチュール(批評を含む書き言葉)であるものこそ、シャカのパロール(話し言葉・説話)の特性であったのである。
 
そして高野山。こうなると物語の背景に「高野聖」の唱導を想定できるのではなかろうか。
 
 

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初の旅高座2

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報恩講という行事は、浄土真宗の中核となる行事です。
 
今回の旅で、島根県の大田市温泉津の真宗門徒のありようと、お寺の成り立ちについて、いろいろとお教えられることがありました。
 
お座敷の火鉢です。nazunaのお寺でも、その昔の「報恩講」のイメージは火鉢でした。御正忌は真冬。その前の報恩講ですから、火鉢の準備が本堂でもお座敷でも行われていました。
 
祖父の姉つまり、大伯母夫婦が岩おこし工場で作った「岩おこし」が定例のお供養。さらには、素焼きのおかきをカンカンにいっぱいつめこんで持ってこられて、こんな火鉢で焼く。
 
で、子どもだったnazunaは、火鉢の番であった。お寺へ入って案内されたお部屋にあった火鉢で一瞬にしてそういう記憶がよみがえった。
 
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お斎を準備するのに、村中がお寺で作業される。そしてお勤め前に僧侶門徒いっしょにいただく。中身はお精進。これも懐かしい食卓。お寺さん自らが手打ちされたそば、うどん。いわゆる「共食」の伝統が生きている。
 
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宿泊させていただいた宿は伝統の「ますや」さん。仲居さんもご門徒。いろいろとおしゃべりさせていただいた中で、「70代80代の先輩から、料理の味、お寺での作法、みんなとの協力で行事を支えること、若い者が覚えなあかん」というのがすごかった。
 
60代のかたであるからねえ。娘にもこれを継がさにゃならん、ともおっしゃってた。
 
 
そういう文化なのである。
 
 
旅に出て知る、ご当流の広がりと厚みでありました。
 
 
 

初の旅高座1

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11月25日26日と、ご招請を受けて、島根県大田市のお寺へ、旅高座にでかけました。新幹線で広島。そこに息子さんが車でお迎えに来てくださいました。2時間弱でお寺へ到着。
 
昼のお座を二席勤めて、旅館へ。次の日はお朝事とお昼のお座二席。都合五席の高座を無事に終えました。
 
旅での高座は初体験でした。かえがたい法友の依頼でしたので、夜間中学のお休みをいただき参りました。
 
セリ弁を言い損なったりして、ドキドキものでしたが、とりあえず、昔のお前座レベルのものが、特別に主賓にしていただいているとの思いで、精一杯勤めました。
 
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かけたお話は、①出家学道(無常の理)②子規とその家族(慈悲通心)③大乗のブッダ(全分利他)④朝寝八石(大悲の名号)⑤臨末の御書(還相化導)の五席。
 
コンピュータをもっていったので、その場で譬喩を入れ替えたりできた。また、因縁譚も少々組み替えた。念のために「身代りの名号」と「吉水入室」を祖師伝から、モチネタ?としての「夢の浮橋」と「犬の手術」をさらっておいて、できるようにしておいたが、ほぼ予定の流れでお話しできました。
 
流れは、無常を知る→仏道へ→仏になるとは→本願力回向賛嘆(聞即信・一念帰命)→還相の回向。4席目がメインになるように考えて。
 
底流として、「機の深信」を笑いとともに、そして「祖師讃仰」を感激をもってというように思いこめて弁じさせていただいた。
 
旅して、見知らぬ地域で、と緊張する要素があり、さらには前々日から葬儀が生じてそちらに神経をさいたので、準備不足かとも思われたのだが、貴重な経験をさせていただき大変ためになりました。
 
同時に、「節談」「高座説教」の研究に取り組んできたこの10年と、はからずも高座のお取次ぎに至ったこの5年を、振り返らずにはいられませんでした。武藤師に送った一通のメールが、研究者→実演者へとnazunaを導いた。不思議のご縁でありまするな。
 
2日間、門徒さんだけでなく村の人がつめかけてくださり、熱心なお聴聞にこちらが感激させていただいた。御住職や寺族のみなさん、そして講の方々の報恩講への取り組みにも真宗文化と、地域の力を見せていただいた。
 
そちらの方は、次に。
 
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物語は、京都の西院村から始まる。

フシこれはこの世のことならず 死出の旅路のすそ野なる
賽の河原の物語 聞くにつけてもあはれなり」
 
今から丁度千年ばかり前のことである、平安城の西にあたる西院村で名を知られた立花藤左衛門景信と云う豪族があった。一子、藤太重信が九歳になった延長八(930)年の夏、散歩の途中に草むらにいた蛇に女中のお虎が驚き、乳母が確かめる。すると、つづらになった蛇が寝ている。三尺もある銀色の白蛇である。景信「乳母を驚かせたやつめ」と退屈まぎれに蛇を太い杖で打ち殺してしまった。(無益の殺生)
 
藤太は二十歳となると、悪所通いに放蕩三昧。白拍子に入れ込んで立花家の身代がかたむくほどになったが、両親の意見も空しく相変わらずのこと。とうとう有り金もなくなり田地田畑は悉く人手にわたってしまったので、藤太は勘当された。しかし両親は追い出した子どもが心配であって、身を削る思いで暮らす。そのことが原因で父、景信は骨と皮になりやせ細ってしまう。
 
5年の月日がたち両親はどうしても息子に会いたいと、探させると奈良で墨屋をしていた。隣家のなじみの若者を使わせて、「勘当を解いたので、帰ってきて幼馴染の従妹の好女と結婚せよ」と知らせたが、その間に父は亡くなってしまう。
 
藤太の方は、墨屋をしているうちに、紀州路熊野の女、おりんという女性と割りない仲になり二世を誓う身となっていたので、帰参を断る。しかし、使者の若者は説得する。なやんだあげくに藤太は京都西院に帰り、好女と所帯をもつ。母は息子の帰参を待っていたかのように帰らぬ人となった。婚礼と同時に、藤太はおりんに去り状を出した。


発端である。まず、景信の無益の殺生・蛇殺しが因果の因とされる。さらには、息子重信は、熊野の女、りん女を裏切る。
 
りん女の父平蔵は、俵藤太(娘が化生した蛇の因縁で、三上山の大ムカデ退治をする)=藤原秀郷の家来として、天慶三(940)年二月十四日に関東に向かったとされている。
 
この年月日はもちろん後世の付託であって、関東新皇・平将門軍と藤原秀郷・貞盛軍の決選の日である。
 
朱雀・村上天皇時代の話として、物語舞台は設定されているのである。
 
熊野の女というのがどのようなイメージでとあれられるのか。のちの展開をみれば、へき地・鄙の地としての熊野であって、未だ朝廷帰依の阿弥陀本地垂迹の権現というイメージはない。
 
ここから物語の原型は相当に時代を遡れるように思われるであるが。
(続く)
 
 
 
 

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