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10月3日 日中法要。
「入西観察」。原稿がうまくない。前日まで、ああだのこうだの。気持ちと体があわないというか。疲労か?元原稿はそもそも、武藤幸久師より頂戴した原稿。武藤師の整理されたものに再度手を入れたが、言葉がこなれない。内容的には、9月初めに聖徳太子の絵解きを体験して、善光寺如来の由来と聖徳太子をからめて、仏かねて衆生をみそなわして、という流れにしているのであるが。伝説部分と法悦がかみあわなくて乗らない。苦心して行ったのが以下。武藤師への讃として、不十分でありまだ、改良せねばならんが一部掲載する(なお五段法を付しておく)。
讃題 子の母をおもふうがごとくにて 衆生佛を憶すれば
現前当来とをからず 如来を拝見うたかはず 法悦(前略)
いったいわが親鸞聖人は、六〇歳をすぎられたから京都にお戻りになられましてお住まいをいくつ変えられておられます。法然門下であらせられても京都を長く離れておられたこと、また、ご出身が支援の望めるようなお家柄ではなかったことからでありましょう。最後は弟君のお家にいそうろうなさって御往生となりたまいたのですが、その間にご讃題のようなご和讃を沢山ご制作なされた。 中でも引用のご和讃にては、われわれ衆生の根機をふまえて、如来のお徳をご讃嘆なされてある。衆生の根機とは、曇鸞大師の曰く、「如来、三界をみるに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、尺蠖の循環するががごとく、蚕繭の自縛するがごとし。哀れなるかな、衆生はこれ三界に縛られて、顛倒不浄なり」というもの。どうにもこうにもならん苦に苛まれてじっとしてられんと逃げ出すが結局同じことを繰り返しておる。こういうわれらが境涯に目覚めたとき、つまりは弱ったとき困ったとき、さびしいときかなしいときふと親を思う。それは、私たちの心に親の身口意の三業がはたらいたものやね。ああお母さんあのときこういわはったなあ。ああ、わーって泣いたらだっこしてよしよししてくりゃはったなあとね。せやから、私たちが仏さま、阿弥陀様のことをふと思うということ、お会いしたいなあと思うとき、それは親の慈悲のはたらきなんです。だから、實はもう親に会うとる。今ここに親がある。ならば、やがて浄土にて阿弥陀様をはじめ先の仏さまとお会いすることを疑う余地はないですね。
譬喩・因縁譚
親鸞さま御年七〇歳の時のお話ですが、その余間に飾りましたる御絵伝の二幅目の最上段にございます、入西観察といわれる一段。 絵の右が入西坊道円。左が蓮位房。蓮位房は、下間宗重といい親鸞さまのお父上と打倒平氏を戦われた源頼政公の孫にあたられる方。では、入西房はと申しますと、一昨年語らせていただいた日野左衛門、すなわち親鸞さまや蓮位房西仏房を雪の中で石を枕に寝かせたという邪見のものが御本願におうて懺悔しお弟子となった姿、枕石寺の開基。さて、その入西房に御影すなわち肖像画を描くことをお許しになられた所がこの図。「世の中にかくし おきたる身の咎を しるや佛の こころはづかし」、御開山さま入西房の心をとっくに見抜かせられて知って御座ッたのですが、入西房は「聖人の真影を寫し奉らん」つまり肖像画を描かせていただきたいと思う志があり、少しそれをも他人に話さねば知らぬことと思っていたわけ。ところが、聖人は入西の様子を御鑑察あって、「一体、師は水の如く弟子は魚の如しというではないか。遠慮には及ばぬ故。入西房心願あれば。何なりとも申されよ」と仰せらるる。入西、あら恥ずかしやと恥ぢ入りたる顔の色の紅葉した色の濃さを、もみじを以て知らせてある。
「日をへつつ ふかくなりゆく紅葉々の 色にも秋の ほどぞしりぬる」
我々御互いも御法義の秋の日に照らされたれば、自づと赤くなりゆくのでしょう。さすれば入西房、かねて志たる真影圖絵の事は、御開山さまの御鑑察によって京都七條辺に居住する、定禅法橋というものに寫さしむべしと仰せになられたので、「入西房鑑察の旨を隨喜して、すなはちかの法橋を召請す」となったのです。さて、「定禅左右なくまいりぬ」とその法橋が、朝顔咲く早朝より參られた。そして真影を寫さんとて、尊顔に向い奉って驚いた。「あら、昨夜見たる夢に、善光寺の本願の御坊がこのお方であるとあった聖僧の姿と、少しも変わらんやないか」と。 「咲きまじる 千草はわかで 白妙の 尾花ばかりぞ 月に見へける」外の色花は昼は見えることなれども、夜は見分けにくい。他流の祖師方は上代の昼はよく其徳も見へ分かり諸人の帰依もあるけれども、末代の夜分は光りかなし。吾祖は、「善光寺の本願の御坊これなり」と云ふ位なれば、さながら尾花・すすきの穂ように御徳もすぐれて立ちのびさせられ、其上より衆生済度の為に、肉食妻帯の在家と同じき宗風になびかせられた。せやから、諸人の見分けが易くあり、御帰依申すべきは御開山方でありましょう。この親鸞さまが善光寺の阿弥陀様の生まれ変わりであると定禅法橋は確信されたというのがこのお話。 そもそも善光寺の如来のおいわれを聞けば、東インドの月蓋長者が娘、如是姫は十三才の時疫病を病み、町中一同も同じ病気にかかった。月蓋長者が大層の金を費やして、名医耆婆を招待したれども、如何とも致し方がない。就いては町中一統と申し合わせ釈尊を請待し佛力を乞われた。しかるに月蓋長者を始め、この町中一統のものはブッダを嫌い、かつて釈尊が七日の間托鉢せられたれども、佛に一粒の供養も差上げず佛や他の弟子が町中に入ることを停止せられた。釋尊はそういうものほど御不便に思召させられ、月蓋長者は姫の難病のことをいいかけられると、釈迦如来は大に不便に思召され、「そなたの娘、如是姫は疫病のようやから、おれが見舞に行く」と仰せられ夫婦の者と共々に、少しの間に長者の宅へ至りたまい、如是姫の容態をごらんいなられた。するとオシャカサマは黙然としてさしうつむき、「サテサテ大病、己が手だけでは叶はぬ。西方の弥陀を念ぜよ」と命じられえた。藁をもつかむ思いで、一七日の間、町中「南無阿弥陀仏」と名号を称へたるに、一七日の念佛終ると其夜、月蓋長者の門の上に、虚空中に弥陀観音勢至の三尊顕はれ、釈迦如来は阿難、目連を召し連れて御見舞ひなされ、念々に相身互いを照らして広大の光となって、弥陀釈迦二佛の光明、長者の家内を照らしたもうと、不思議や姫の難病即座になおったという。月蓋長者、何卒御姿を御残し下されと願ふたれば。釈迦如来の御指圖に任せ、閻浮檀のあらゆる金を集めたまい、二佛の光明に照せば、金は忽ち融けて阿弥陀三尊の佛が出来上ったので、弥陀の真佛は御浄土へ、釈迦は精舎へ御帰へりなされた。
この御仏が不思議のご縁で我が国へ至り、かの崇仏廃仏論争のときに、邪見の守屋の手にかかり難波江に捨てられてしまったという仏さま。月蓋長者のほうは、次の生はもっと佛を供養したいとの心願で、貧者を望まれたは、終に日本では信濃の本多善光と云ふ貧者に生れた。この善光、国司にともなわれて大和の橘の京へ上りしおりに、難波の池にかつて邪見の守屋が沈めて置いた。閻浮檀金の御佛の光にさそわれてこれを救ひ上げ、背負いて信濃の国へ御供申し、佛間もなけれは臼の上に御安置なされた。すると妙なる光を放たれ近隣のものをご教化なさったので、この善光の家宅をが「座光寺」となった。其後、皇極天皇をも御済度申したれば、別置に一寺を設けたがかの善光寺。其恩を報ずる為め、善光寺には禁裏様の姫宮が御一人づつ御出家なされ、尼宮となり本願院の御住職、大本願尼宮と申し、今に相続していらっしゃいます。
ミクシばかりを書かさせられたは、一体首から上で世界が全部あるからです。わかりますか?ええわからん?ここにね、天地、森羅万象が全部そろたある。頭のてっぺん丸いでしょ、これが大天。両眼は日月。鼻の高ひは山。口は穴その穴と鼻の穴よりフウフウ出る息は風。叉、風引の時の咳は雷、身を震うは地震。のぼせてクワツとするのはカンバツ。汗の出るときは洪水。ソシテ目が二つ耳の穴二ツ。鼻の穴ニツ口の穴一ツぢや。この口だけは一ツでさえ困るにニツもあれは迷惑するから一つや。この七穴より出づる涙、鼻汁、涎などは雨や河の水や。。歯は石、髪は木、産毛ほ草、皮は大地としてみれば、ほらね、天地のことが皆収まる。「離中知合中知」というのが倶舎論にある。眼と耳とは離れてヾなければ見たり聞たりすることが出来ず。鼻と口の舌とは物に接せねば、嗅ぐことも味うことも出来ぬ。ソシテ目は一役。鼻はニ役(かぐと息の手伝)口は三役(息と食と、しゃべるとなり)ある。仕事が多いのう。せやさかい役人も四人(喉、舌、歯、唇)ある。口には一番沢山の人夫を遣って一番忙しいが、多くの者が口に遣われて難儀する。そこで鼻が腹を立てて口は多く物を喰ひ。眼は毎夜寝ると閉じて楽をさして貰うに。おればかりは其方達が寝ても。すうすうと挨拶をして居るに、おれには何にも喰はせも呑ませもせぬ、義理知らず奴といかるれば、口が答えには鼻殿は何か喰度と思ふても喰ふことは出来ぬ。その換わり鰻屋の店先で香をかいで鼻をヒクヒクさして居よと。口と鼻との云ひ合を。眼玉が聞きて目をむき出し、彼是と下の方で八釜敷云うな。この目玉様が明て居やこそ香も嗅げば、言うことも出来るが、おれが眠ると鼻も口も仕事はない。おれが眠りてさへそうぢやに、若しや白目むき出して死んたら。手前達は役揚りぢや。吾を大切に致せと云ふ所へ、耳が耳を欺てて。三人共黙りて居よ、この耳の役目は聞く計りぢゃが、この耳を讃めて解脱の耳と云はツしやる。おれに御教化を沢山きかせよ未来浄土へ手引する。御役柄はこの耳ぢやぞや。首尾よく浄土へ手引すれば。ロには百味の飯食を喰はすぞよ。鼻には清浄の香を嗅がすぞよ。目には七宝の樹を見するぞよ。其方達が喰ふの喰はぬのと小言ばっかり云うて、おれに腹立ツことや、欲のことばかり聞かせて名号の御謂れをきかさぬと、音なしくして居る魂が未来の行場がつまらぬと云ふた。耳の理解が一番尤もぢや。因りて首より上ですべてがそろうさかいに御首の御影を書かさせられた。
結勧 合法 セリ弁
さ、その其善光寺の如来の化身たる、御開山の御おしえを面のあたり聴聞するが我々の身の上ならば、たとえ信濃へ参っても、七重の御戸帳深く鎖して御姿は拝まれん。たとえお姿を拝んでも、目に拝んだ計かりでは往生は成らぬ。其如来のお誓の名号を聞て信を取らずば参られん。故に御一代聞記に、「他流には名号よりは絵像、絵像よりは木像といふことあり。當流には木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり」とありて、其名号を聞く一念が信心の姿や。ゆえに御和讃には、「子の母をおもふうがごとくにて 衆生佛を憶すれば
現前当来とをからず 如来を拝見うたかはず」と仰せらる。御助けが聞ヘた一念が真佛を拝んだ。只拝んで居る計りやない、追付自身も參って、帰命無量寿如来様なるとは何たるご果報。 「百歳と いのる心のはかなさよ 弥陀の御國は 無量壽なりけり」と、無量寿にさせて貰うことを忘れて、現世折りするとは真にあさましきこと。然るにこの無量壽になるは、往生してからかといえは、「善知識の言の下に帰命の一念発得しぬれば、そのときをもて娑婆のおはり臨終とおもふべし。」と、弥陀をたのむ一念の時、迷の命がきれて、心は無量寿に手をかけて居る。この安心をなんとしよ、さすれば、 華尽くしにて申すれば、「一、花の都に至るには、おみ法一つを菊の花。きけば信心瓜の花。うれば摂取の 抱き牡丹 。二、 たのめば弥陀はナデシコの 色にも見えたヤマブキの 香りも高き梅の花 さがりて嬉しや藤の花。三、迷いの綱はキリシマで 罪と障りはケシの花 疑いひとつは梨の花 聞くたびごとに初花で。四、行者の称名ツゲの花 月日も早くタチバナで 年もつもればコケの花 無常の風に花散らば 五、すぐに浄土の蓮の花 宝の花の数々を ながめてつきぬ悟りとは さても尊や 南無阿弥陀」 と頂戴せしめまして、肝要は御文章にて。
最後の方は、ややもうろうとした頭で、お慈悲の温さは讃嘆できたであろうか?不安な高座だ。
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節談
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ここから怒涛の三作初演である、と計画したのはよかったが…。まあ、無理はするもんではなかったと。
詳細は最後で(泣)
9月26日(日)午後2時〜 お勤めは「観無量寿経」。満堂である。ありがたいことである。
説教は「夢の浮橋」。前からかけたかった内容。菱川慧学師のものから。浮のりの部分に「浄土の宝殿」を武藤師の脚色を参考に、甘党ずくしで。
師の原稿を生かしたいという思いの一つであったが、法悦・譬喩・因縁譚と、うまく積み重ねられて、セリ弁からおまけで「念仏数え歌」で締めた。
さあ、みなさん。助かる采女が助かったのではない。助からん采女が助かったのは関白有道卿のお慈悲の現れ。助からぬ采女をどうかして助けてやりたいといろいろ工夫をこらし御苦労いただいて出来上がって助かるようになったのが三十一文字のかの歌や。煩悩成就して助からん私どもをどうにかして助けてやりたい仏にしたいと五劫の間脂汗のご思惟され、御身削って御修業くだされ、衆生の助かるタネはわしが手元でしあげたぞ、どうぞ受け取ってくれとの弥陀の一念が南無阿弥陀仏のお六字さまや。昨夜みた有道卿と今日の有道卿、姿にかわりはないけれど今日の関白さまは私の命をお助け下された命の親、昨日拝んだ仏壇の仏さまと今日拝む仏さま、仏にかわりはないけれど、落ちる私を浄土へひきとりそれだけでなく仏と仕立ててくださるご果報と頂戴せしむれば、たった一人の命の親さま、下がった頭があがらんのはお慈悲の声がとどいたしるし。 ふりかえりみれば、仏法をおのが命の一大事と聞くことできずに今日まで、行方も知らずうろうろと彷徨い続けて六道輪廻。かかるいたずらものやとて、とどけおかれた六字のまこと向かうは花の浄土やぞーと、シャバの海原船出して、衆禍の荒波よそによけ、西の彼の岸指しゆかば、右は御恩の山高く、左はお慈悲の海深し、海よ山よと景色を眺め、南無阿弥陀仏と称えつつ、勇み勧める楽しさよ、何に喩えん乳飲み子の母に抱かれる心地して、寝るも起きるも御仏の、光の中に育てられ、不足なき身の仕合わせとは、さても嬉しや南無阿弥陀仏。
我ながらいい台本であると思う。これは何度もかけてみたい。 初めて聞かれた、設計者の文殊さんが「うまいことできてますなあ(構成が)」と、面白がられていた。
ごきげんな、スタートであった。
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九州は、日本列島に成立する政権にとって、玄関口にあたる島であるから、佛教寺院史や信者史を単純に述べられない。それこそ、日本書紀の記述やヤマタイ国、倭国の宗教から始って、遣隋使・遣唐使期の中国・朝鮮との交流と仏教、さらには宇佐八幡の存在や宗像三神、などなど。 神道史としても仏教史でも重要である。真宗史でいえば、16世紀『天文日記』に登場する端坊下、大分で端坊(興正寺六坊の一つ・在山口県で現本願寺派)が開発した門徒集団が、もっとも古いといわれる(臼杵にも1つあるが)。 現在大分市にある専想寺さまは、豊前守護の大内氏出身の天然・釋浄祐が開基もしくは復興した寺院で、九州における最初の真宗寺院。天然はもともと浄土宗の僧侶であったが、蓮如上人の教化によって真宗に帰依した。 天然の墓は、「天然塚公園」になっているぐらいである。 また、大友氏の時代には、この専想寺門徒からキリシタンが多数でて、いろいろとあったようである。 このように、九州は、別立てして「九州仏教史」もしくは「筑前仏教史」など国別などで、言及すべき地域であって、真宗史としても重要な地域なのである。 そんなこんなの予備知識の中で、節談説教研究者には、徳栄寺さまは「大野義渓」のお寺として名高く、nazunaはこの「徳栄寺義渓」本から、節談説教の研究や実演が始ったので、原点ともいえるこのお寺を一度は訪問したく、残された時間(なんせ実際、甘木から博多へもどったのが午後5時半)で、訪問をお願いした。 御本尊に手を合わせるだけで帰る、まあもしも何か「義渓」師にかかわることが分かれば、少々はお話を聞いてもええかと思い、お電話する。当日アポという失礼な話であるが、予定の立たない僧侶なのでなかなか事前のお約束ができないのも事実。 電話は留守電に切り替わったので、ああご縁がなかったか、と思った瞬間、プツっと音がして女性(おそらく坊守さま)がお出になられた。そこで、お参りしたい趣旨を伝えると「住職か父(前住さま)のお知り合いですか」と聞かれたので、いいえと答える。「ではお越しください」とおっしゃったので、喜んで出向いたのであるが。 この日、ヤフードームではなんと五万人の観客、「SMAP」のコンサートがあった!!! 福岡は交通渋滞。結局、五時四〇分にお寺につくと、美しい和服の坊守様がお迎え下さった。本堂でお参りして、降りると、お茶を下さったので、主旨を申してお土産を渡す。 お話を引きだされるのが上手な方で、ついつい甘木行きのこと、節談説教のことを、話しこんでしまう。福岡でも、「節談」へのアレルギーは強いそうである。 坊守様、「教学に力をいれるのはいいのですが、いつから真宗のお話はこんなに難しくなったのかと」「受け念仏があったあおの御取次が大事ですね」「お寺を留守にしてまで勉強会をするのはちがう、と思うのです」「実は、今日は娘の結納でして。頂戴したお電話は私の携帯に転送されたのです。でも、お参りにこられるというので私は帰ってきたのです。住職は組の会合に行きまして、娘たちは今結婚式の衣装を決めているところなんです」 わあーーーである。申し訳ない。しかし、ご教化に遇わせていただきました。家族の記念日であっても、ご縁をたまわりたいという不審の人を優先する。御法義第一の人生とは、そうでなくてはならんなあと、恐れ入った次第である。 ご住職とは数分の邂逅であったが、歴代住職に義渓はないようで、また「こういうもの(説教ネタ)は、真宗皆の財産でありますから生きていれば許可もいるでしょうが、お使いになられて結構ですよ」とおっしゃっていただいた。 結局六時半すぎまでオジャマしてしまい、大迷惑をおかけしてしまった次第である。坊守に「あんたは相手の都合を考えンと、自分が興が乗ったら際限なくしゃべる。ええ加減にしとき!」と叱られるのも無理はないなと、あやまりはてて大阪へ。 帰阪は、午後九時四五分。帰寺は十一時前。朝八時からの強行軍、日帰り九州弾丸ツアーであった。それにしても新幹線は早いです。 |
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さて、推敲である。9月26日に初めて語る「夢の浮橋」。初稿の台本はできている。菱川慧学師のものを因縁譚として再構成してみたもの。また、今回は比喩の部分で「づくしのセリ」をいれてみたが、もう1つ舌に乗らない。 ご讃題は悲歎述懐和讃で、仏願を昨日書いたように「お前をまともな人間にしてやりたい」と説くつもりである。また、真宗とは「まむね、真向きになる宗旨」という江戸期の能化・円満寺義教の言葉を復活させる。 さて。今何をしているかというと、まず「夢の浮橋」の史実確認である。さらに義教のあれこれ。そして引用者(つまりnazunaは孫引きになる)の安田得忍についてのあれこれを調べる。およそ二月以上、本を繰りネット検索しまた、図書を調べとしている。まず、因縁譚のあらすじを。 美濃大垣藩、富田采女正という大名と関白藤原有道卿の話で、富田が京都所司代のときに「天皇崩御」があり、葬儀を仕切ることとなった。天皇の葬儀は真言宗で、京都今熊野の泉湧寺にて、火葬・埋葬される。その泉湧寺に、天皇の輿を運んで行く、つまりソウレンの行列があるのだが、泉山(泉湧寺)に入るまでは、普通の御幸として行列し、今熊野川にかかる〈夢の浮橋〉を渡るとソウレンになる。つまり、この橋はシャバとあの世との結界部分になるわけで。そういう習慣があって、決してそそうがあてはならないと苦心しんたのに、当日お輿が橋をわたろうとすると、橋の柱が傾いた。で、輿は引き返すことととなった。つまり葬儀が中止になってしまった。 この失敗によって、富田は切腹と決まる。これを助けてやりたい関白は、一計を案じて彼の命を救う さらに、この話のキーワードになる「和歌」が一首あって、「夢の世に 夢の浮橋 心して かえらぬ御幸 しばしとどめん」とある。この歌の出挙を調べねばならん し、作者も。 唯調査視点は、この話を手掛けた理由になるんであって ①救いが既定で、とどくのがあとという話の構造が、他力門にぴったり。 ②同パターンの話は結構あるが筋立てがシンプルであるのでわかりいい。 ③天皇制のバイアスのない(12、で述べた)伝統、すなわち「天皇家は仏教徒であった」という事実をさりげなく提示できること。 ④さらには、現在でも中世から江戸期の天皇の墓域は泉湧寺であること、つまり戦後のメディアが彼岸やお盆を いかに神道風の魂・霊論に導こうと、現前として「成仏された天皇」がいらっしゃることを暗示できる。お彼岸向き。 ⑤まあ、なによりもいい話である。 の5つ。これが判断基準になる。 まず大きな問題はこの話が、史実であるのか史実をふまえた説話であるのか、創作つまりであるのか、ということ。これがある程度かたまらないと、nauznaの語り口が定まらない。 で、調べている。まず美濃大垣藩は、富田ではなく戸田家である。かの三河の名家、戸田である。ところが京都所司代になった戸田は二名。7代目の戸田忠昌と28代の戸田忠寛。どちらも美濃大垣の戸田ではない。 戸田采女正氏定は、有名な「忠臣蔵」にでてくる。浅野長矩の母方の従弟である。 あわない。しかし所司代であるから切腹であるのだから、戸田姓の所司代にしぼってさらに調べる 7代目の忠昌のときは、霊元天皇。関白は鷹司房輔。葬儀はない。28代の忠寛のときは、光格天皇で九条尚実と鷹司輔平が関白。やはり葬儀はない。あらら、である。 でこんどは歌で調べる。現在、なくなっている「夢の浮橋」跡に歌碑がある。道円作として「ことはりや 夢の浮橋 心して 還らぬ御幸 志ばし止めむ」 ねえ!? 最初の五文字がちがう!それに道円師は近代の人ではなかったか。 調査して加わった情報に、「実際の夢の浮橋には、落橋(おちはし)という名もあり、天皇の輿が渡ると落ちてしまう橋である」という伝説があったそうである。まあ、今はこんなところをうろうろ。という現況なので、 ①今のところは、戸田采女正と関白藤原有道でいく(つまりフィクション)。 ②あくまでもこんなお話ですよ、という虚実のぎりぎりでいく(葬儀次第は事実)。 ③ただ、落橋の伝説がどの史料(資料)で確認できるのかを、もう少しおいかける。 ④安田得忍と円満寺義教について、別途作成しているの説教史録と覚書にまとめておく作業は続ける まあ、こんな風にして、話す一週間前ぐらいまで、いろいろと詰めて見るわけで。一週間前からは、実際の語りの方にウェイトを置く。こちらは、10度ほどの語りを実際にして、言い回しやニュアンスが自分の体になじむように原稿に手を入れる。 また、別途イメージがもてるように、写真や絵を沢山見たり古文書にあたる。江戸から明治のものでは、「長崎大学付属図書館」のデータベース、大坂に限定すると大阪市大のデータベース、国会図書館のデジタルアーカイブと府立・市立図書館のお世話になる。娘が大学生のときには、関大と龍大の史料・資料も、借り出してもらったが。まあ、多い時は史資料を10本以上読み込むことになる。
それでも、本番では微妙に変わるのであって、「噺にニン(人柄)が出る」といのうはホンマやなあと。で、こんな感じで気を許してくれるようになりました(笑)。 他の人は知らないが、こういった作業をして、史実、なかば史実、フィクションと判断してそれをふまえた語り口にしていくわけである。武藤師への報恩として、手の内は明かす方がいいので、書き留めておく。 追伸)
三業惑乱を調べていたら、お裁きにかかわられた幕府の役人が「戸田采女正」であった!! なるほどとうなづけたが、だとすればこの逸話(フィクションであっても)、200年前に成立していたとなりますねえ。
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2軒が借家で残ってそれが、母の隠居所と姉の家になった。さらに、夫婦の隠居所として1軒を買い戻し、今、銀行勤務の二女が住んでいる。で、既存の4匹は、お寺に2匹。母のところに1匹、二女のところに1匹住んでいるが、昼間はせん栽(中庭)で、4匹+ワンちゃん1匹が交差するわけで。 トマトは、にいちゃんねえちゃんが人間について家に出たり入ったりするのを経験値として、今、母の家の扉、庫裏の扉から、中の隙間をのそきこむようになっている。もちろん、他のネコや人間が寄ると「シャアー」といって飛び去るのであるが。 さてさて、昨日は節談説教の中央練成会。都合16名が登高座しました。nazunaも上がらせていただき、経験を積ませていただいた。そのマクラのお話にトマトのことを。 ええ、お寺には昔からネコがよくおります。もちろん番犬、ワンちゃんもふえましたが、このお供え物、おもちなんぞをネズミがきてかじりますので、ネコを飼うてこれを防ぐとしたもの。我が寺にも4匹のネコがおります。ちょっと事情がちがいまして、隣に昔の村の墓地がございます。そこで、ノラネコがふえます。エサにはお供えがあってことかきません。また都会ですのでエサだけやりにきて可愛がると言う人もいらっしゃる。ところがこれが墓地に収まらずご近所に出ます。うんちやおしっこやらしますのでいろいろと迷惑になる。あげくはどつかれたり殺されたりしますので、お寺にまよいこんできたものを、ウチでは餌付けをしまして、まあ賛否両論あるでしょうが慣れたところで病医へ連れて行きましてヒニン手術をしていただき離すのです。なかには慣れてしもうてそのまま住みついてしもたというので4匹おることになりました。この夏そこに新しいネコが来まして、こんな子ネコです。三女が夏にきたのでトマトと名前をつけましてもう1月ほど餌付けをしております。これがはじめはこう人間が近寄るととんでにげる。藪の中から「こわいことするんでしょ。」という目で見よる。慣れてきまして、エサをもらうようになりましたがしかし2mまでは近づけん。私が寄りますと逃げましてやっぱり「いじめへん?難か悪いことせえへん」という顔してます。はたと気付かされますね。自分では動物好きのええ人やでーと思うてますが、トマトからみた私は、よっぽど恐ろしい存在なのだと……
私以外に15名の御取次。年齢も20代から60代まで。地域も九州から北海道まで。講師の藤野宗城先生、松島法城先生の講評にもあったが、修正なしでも半分はもう立派に通用する。説教原稿としての構成がきちんとできてある。また、それぞれの持ち前の節も豊かであり自由であって、全体の3割が節の人、地語りも節になっていて全体に昔の説教を彷彿させる人、また一人芝居風、さらには節なしの人、もうバラエティに富んでいる。
なによりも、15人のお聴聞を休憩をはさんでも6時間、させていただいたのは生涯初体験!相互に投票評価をして、私がフルマークを付けたAさん(女性)が最優秀賞を受賞され、感涙にむせばれていた。
自己を棚に上げて、気がついたことを記す。節談の未来を含めて。
①自己の体験、話を素材にすることは、聞き手の関心を喚起する。しかし「体験談」ではなく、敢えてつかうが「ネタ」となるように、筋運びや表現を吟味整理する力がいる。福本師(本願寺仏教音楽・儀礼研究所主任)は「台本をきちんと書く」「人に見て(聞いて)もらい繰り返し推敲する」ことを示されたが、そのとおりである。今回、病や事業のことなどでnazunaの提出原稿は中途のものをあわてて送ったという次第。反省する(泣)。
②伝統の継承という意味で、先輩の原稿・音源がある。その中で、「法説」の部分について二通りの評価があることを知っておきたい。一つは宗門や教学に明るい人の見方。もう1つは、私たちは日々接する現代の門徒や一般大衆。そこで、
−Ⅰ 「本願をとけ」ということ。仏願の生起本末を聞くのであるから、それは弥陀をほめるということ、ご讃嘆である。理の上で、量は少なくとも短くともきちんと提示されねばならない。私がこう思うという話ではない。仏さまがこうおっしゃってですということである。さらに、説いても往生をゴールで語られる話が多すぎる。「成仏」や「還相の回向」をとかなくてはならん。阿弥陀様が、衆生を仏に仕上げたいというのはどういうことか。仏法です。仏になることが目標です。なぜ?大乗の仏とは利他です。つまりは、人類の未来図として全ての存在が「利他」を生きるように育ててやりたいというのが「ご本願」です。そのご本願に順うのですから、「利他」を目指して生きる今、とならねばおかしいですね。菩薩は自利利他です。現世正定聚は菩薩と等しい。これで他宗と同じラインが見えます。が、違いは明白。われわれには自利はいらない。阿弥陀仏の浄土往生成仏決定だから報恩行。親の願いに報いる生き方を喜びをもってできる、それをお育てにあずかるというのです。つまりは、生き方(生かされ方)を説かねばなりません。ここで、現代社会の話題とクロスします。
※追加 そう志しても裏切ってばかり(煩悩具足ですから)なので、お説教では「あやまりあやまり」「常懺悔」というのです。
−Ⅱ しかし、相手は、パク・ヨンハの49日には身銭を切ってお参りし、「天国へいって」「安らかに眠って」という方々である。真実信心、帰命、ご開山、などという言葉ですら通じないと覚悟しなくてはならん。いや、初めてお寺のご縁、或いは法座のご縁に合われて、「難しい言葉知らない言葉の連続で」「もう二度とお寺へはいかない」と思われたら、ジ・エンドである。ライバルはテレビでありレンタルDVDやブロードバンド通信ですぞ。教学的に正確であることがマイナスにならんような展開や工夫がないと隘路におちいります。
③大衆性という意味で、節を語るならばやはり「節自体の美しさ」が要求される。語りの声と節の声、あるいは感情の乗せ方、これにも2通りあって、語り手の情動と語りの中の人物の情動である。語り手自身の情動があまりにも露わであると、毀誉褒貶が激しくなる。すなわち「迫力に圧倒されて感動」「しらけてしまう、おおげさな」と。節の部分で、唐突であったり無理にアゲサゲしたり、ということに注意したい。藤野師のおっしゃるとおりで「棒引きでえええのです」
④これは因縁譚の語りにも通じることで、落語のように上下演じ分けるのか、浪曲のように大きな感情の起伏を演じるのか、それとも講談のように語り手の位置をくずさずに語るのか。強い表現には、アレルギーが起きることを計算にいれなくてはならない。ここからは個人の好み、私見であるが、因縁譚は講談調、つまり語り手の感情は後にさげて、その上でむしろ登場人物の感情表現は抑え気味にするほうが、聞き手の注意を引く。落語でいうなら人情噺の方である。
⑤節談は…節談か…と否定される方の意見をしっかりと聞く。ネット上で見受けられるのは、中身がない(教学的にふまえていない)、因縁譚が古臭い、同じ噺の繰り返し、などである。これは合法(因縁譚の示す世界は経典におけるどの世界であるのかという照らし合わせのこと)を精密にすることで解決される。同じ噺の繰り返しが「仏徳讃嘆」であるのだから、つまらない・おもしろくないという意に解するべきで、聞き手と講師の間に共通の世界が広がっていないということである。これらは、上記の①〜④の課題のことであろう。
⑥昨日の高座では、小林顕英先生がおっしゃっていた「高座から見下ろされて圧力を感じる」ということを感じた方もあった。阿弥陀様やおシャカさまの言葉を伝えるので皆が仰ぐ位置に上げていただくのであり、また物理的に声が通りやすいように高い位置に座るのであって、威圧感は現代ではマイナスである。通の世界では重々しい雰囲気もいいのだが。高座での態度ということであろう。
以上のように、まとめてみた。研究会の正会員(演じる人と研究者)は88名である。東西本願寺諸派と高田派興正派のメンバーである。そして、一座であれば、つまりお前座であれば「節談説教」で通用するものが、10名以上となっている。もちろん布教資格のある方は何千人といらっしゃる。けれども、実際に布教の最前線にいらっしゃる方は数百人ではなかろうか。仮に200人として、そこに割って入る力のある節談説教者が、研究会ではお師匠を入れると20名になんなんとしているわけで。
いやあ、正直15人は多かったけれど、感激しました。若い人の進歩に。そしてオリジナルな話が沢山聞けたことに。
松島師によれば、お西の新門さまが、わざわざ松島師を呼ばれて、「あなたは節談説教をなさる方ですね。節談説教の研究会も熱心になさっておられるそうですが、これからの時代は情念のあるお話でないとと思います。しっかりやってください」とおっしゃられたそうである。
この状態を10年維持して続けることですね、と終了後の有志の懇親会で申し上げたことである。もう「ほそぼそと残っておる」とは言わせないように。
と記事ができても、網戸越しにまだくつろいでいるトマトが見えます。クァワイイ。
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