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最後は、手前ミソで、申し訳ないが。 大日本帝国は、明治維新に孕まれて誕生し60年弱という寿命であった。胎生期の23年を含んでも、国家、社会を考えるのに、最大の仏教教団の動向は把握されねばならない。 がしかし、戦後の歴史学は社会進化論に基づく歴史観が隆盛になって、地方史・女性史・被差別民史、へと関心が向かうまでは、宗教現象も教団の動向も歴史記述の対象からオミットされていた。 生産構造の上部としての思想に、宗教を押し込め、思想と区別するに「政治体制への順応装置」としての働きをとりあげて、たとえば仏教の一部を批判し一部を必要以上に英雄視するという奇妙奇天烈な歴史を叙述した。 そのような教育を受けたものが現在の50代以上なので、近代宗教史や教団史などが、記述できない状況になっていたのである。今回そこに、風穴があいた。 それが、 どちらも、大日本帝国下の教団活動の基礎資料(寺院数や開教地)を収集公開し、さらには宗教は人であるから、個々の僧侶の動きにも一部言及しかつ教団首脳の言説にも触れている。 前者は、大谷派を中心にしつつもより広く仏教界や神社神道の動きを網羅していて、カタログ的に優れている。後者は本願寺派の「海外布教」というくくりで、移民と教団の関係をラフスケッチしている。 教団の進出が、戦死者や移民の死亡者の「葬儀」にかかわる宗教儀式の必要から生まれたのであって、キリスト教と仏教、西洋と東洋という文明批評、という側面がむしろ付随的に生じてきたことであるのは、今日の「在日外国人参政権」問題や、帰化問題ともリンクする文化的な課題であることを示唆する。 価値判断のないままに現象に引きずられるという構図、つまり政治と文化の分裂という症状は、近代日本の宿命なのであろうか??? いづれも、次の研究の基礎となるものであり、近代史を記述するものには必読の図書である。
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(ガブリエラの冬籠り) 学問というのは言葉の塊であって、「そういう言説」と称すべきものである。かつて人類学という学問ジャンルが意識され、その中で「人種」とか「民族」という概念が利用された。学問が学問たる所以は、「客観性の担保」と「再現性」であり、AならばBという因果関係を証明するには、観察者や実験者の主観をできるかぎり廃した地点が成立する必要がある。 ところが、案外にこれは難しいのである。自然科学の世界でも、たとえば「念写」といって、写真フィルムに人の思念を感光させることができる、といった主張をされた科学者がった。これは、客観性というよりも再現性に問題があって、同じ条件で同じ人に念写をさせても、うまくいかないことが再々おきたのであるが、その都度「前回とは○○の条件がちがう」と、実験者や観察者の体調まで素材にして語るものであるから、最後は「信じたものが救われる」ということになってしまった。 私が子供の時分の大人のものいいや漫画などにも、「土人」という表現がよくでてきて、なんだろうと悩んだものである。現地人(彼の土の人)という意味か、とも思ったがそうではなく、具体的には「アイヌ」や「ミクロネシア」そして、服を着ないで裸でいる風俗ももつ人を、意味していたのであった。それは、観察者による発見と分類であった。 思い起こせば、われわれはアメリカやヨーロッパによって発見され観察されたのであって、そこでの評価基軸は「キリスト教」「近代国家」「産業社会」「帝国主義、キリスト教近代であった。それを内部に取り込むことで、今度は自らが観察者たらんとしたのが日本の近代、中でも勝つはずのない戦争に「勝ってしまった」日露戦争後の帝国日本であったろう。 まさに、そういう中で、「日本人の起源」「天皇」などなどの自画像を、ポジで描くのではなくネガ、で描く役割を果たしたのが、人類学だったというのが、著者の証明である。 ヨーロッパの人類学が、文明社会=ヨーロッパ=キリスト教に立脚して無批判に自己の立場を肯定していたことが、帝国主義と顕現したのであれば、被観察者であった「日本」が観察者に転じるにには、見られた部分の修正あるいは隠蔽、さらには見る側にまわるための「近代化」は必然であった。民族や人種をいう概念は、そのような歴史的な言辞であることを、21世紀のわれわれも肝に銘じておきたい。 柳田民俗学もまた、「日本」とは「日本人とは」を日本の民俗のフィールドから寄せ集めて形成する学問であった。そこにや柳田の政治性を読み取る敏感さもまた、失ってはならない感性であろう。 20世紀を「民族」の世紀とくくってみれば、見る側と見られる側という分裂からそれの統合へと向かう流れがその歴史であると私は考える。そうであるからこそ、人類学が自然人類学と文化人類学に分化し、民族学も民俗学もいったんの衰退をむかえざるを得ないことも必然である。見る側も見られていたのであるという、両側の記録やまなざしを交差させるところに、類として生きるという意味での「人類」学を成立させていく作業が、21世紀の歴史であろうか?
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ええ、このブログを読まれるお友達から、「あんたの頭はいったいどうなってるの???」と聞かれたので、こんな本に惹かれて教えられています、というのを紹介してみる。 昨年、呼んだ学術書(だいたい3000〜10000円する)の中で、一番 国家論や日本人論、はたまた天皇論を論じるためには、神道をきちんと学ばなくてはならんのだが、案外体験を絶対化する人が多い。 この本の内容から学べるのは、「神道」というくくり概念そのものが、時代とともに変遷し一定でないことだ。したがって、「神道とは…」という言説は本来個人が発話するのであるから、実は極めて恣意的でかつ主観的であることは、自明の理である。 ところが、多神教であるとか、あるいは自然崇拝であるとか、主観をあたかも歴史的論証の結果のように記述する山折哲雄などが言を弄するもんだから、明治の神道を過去に投影して歴史性を感じるという「顛倒」が起きているのである。 そんなこんなの、仏教者の不満をこの本は見事に解明してくれたので、「そりゃあそうだよな。江戸の初期に伊勢神宮バンサイとはならんわなあ」という常識を思いだしたのである。 悪口に聞こえてはいけないから、当流でいうと、おそらく室町の中ごろには、「親鸞」といっても誰一人知らんかったというのが真実であろう。蓮如と言う人が大衆に受けて、その蓮如と人格を通して「親鸞」という存在が知らされていくわけで。その逆はない。そういう時代意識に縛られた中で思想的に格闘されてきた先達の言葉や心に触れるのは心地よいのである。 この論集では、春と秋のお彼岸が、明治初期に祖霊信仰に再編成されていく過程と議論がなかなか興味深いことであった。
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内田樹著 新潮新書 2009年11月 777円 面白く読んだが、「日本論決定版」!というようなもんではない。ちょっともちあげすぎです。 さらには、親鸞さまにまで言及されておられますが、???です。 今まで論じられてきた「論」を体系的に紹介して、そこに「辺境」という地政学的な用語をかぶせた、哲学エッセイとして読めば無害です。 本気で日本論を整理しょうとするなら、ラフスケッチでも天皇とキリスト禁教について述べなくてはなりません。 それは、777円程度で手に入るものでなく、レビナス研究者の本業で聞くべきことですから、まえがきにあるように「クレーム」をつけないでください。 ただ、「中央との距離のとりかた」というこだわり(著者の言い方では補助線を引く)が、いかにもですね。 読んだから何か?という意味では、対価的には「極上」のエンターテインメントです。 アンチテーゼとしては、以下の2つの詩で十分ではないかと。 二十億光年の孤独 谷川俊太郎 人類は小さな球の上で 眠り起きそして働き ときどき火星に仲間を欲しがつたりする 火星人は小さな球の上で 何をしてるか 僕は知らない (或はネリリし キルルし ハララしているか) しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする それはまったくたしかなことだ 万有引力とは ひき合う孤独の力である 宇宙はひずんでいる それ故みんなはもとめ合う 宇宙はどんどん膨んでゆく それ故みんなは不安である 二十億光年の孤独に 僕は思わずくしゃみをした 正像末和讃 釈親鸞 五十六億七千万 弥勒菩薩はとしをへん まことの信心うる人は このたびさとりをひらくべし |
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上の本を読んだのである。 日明恩さんの新作で、楽しみにして読んだのである。ストーリーそのものに救急隊員の日常が織り込まれて、知的な喜びがあったのであるが。不思議なことが…。 この作品は、ある一日のできごとであるから、時間の経過というのも大事。 で、おそらく緊迫感やライブ性を読者に与えるために、小見出しに時刻が使われている。 順に「午前7時半」「午前九時二十四分」「午後十一時三十五分」「午後四時二十二分」午後六時三十四分」「午後四時五十九分」午後六時四十三分」「午後六時三十七分」「午後六時五十七分」「午後六時四十九分」「午後七時六分」「午後六時三十七分」「午後七時十六分」「午後八時五十四分」「午後八時五十一分」「午後八時五十五分」「午後九時三十八分」「午後八時四十六分」「午後九時四十六分」「午後十時十九分」「午後九時四十八分」「午後十時十七分」「午後十時二十七分」「午後十時二十五分」「午後十時四十八分」「午後十一時二十分」「午後十一時四十三分」。 これにプロローグとエピローグが付くのであるが。 さて、みなさん。お気づきだろうか? そう3番目! 午前九時二四分と 午後四時二十二分にはさまれての、「午後十一時三十五分」。 おもいっくそ、倒叙形式?? それとも未来か過去の挟み込み? と章立てされた内容をみると 「昼食」お話がでてくる。nazunaには、「午前十一時三十五分」の間違いだとしか思えんが。 だとすると、誤植なら編集ミス。原稿のミスとしても、編集者ならチェックできなければならんと思うのだが。出版社を見ると、因縁のある「双葉社」。おいおい、いい加減にしてくれよ、と嘆きたくなるが。 読者の方も普通に書評を書いているし、Web上でも話題にはなってないみたいだし。 これって、nazunaがなにか読み間違いしているのですかねえ?
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