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本年度も「布教使課程A」に臨時講師として出講させていただいた
夜間中学の生徒さんと、本願寺派で「布教使」を目指す方々との 交流を始めて7回目となった。
足かけ8年。途中で「住職課程」からの切り替えで、一年のブランクがあり、昨年「布教使課程」として再開されたのです。生徒さんは4月〜9月と長丁場。それでも、かつての地域の学寮に比べれば短いのですけれどもね。
事前で1コマ、交流は午後5時〜7時半まで。その間に2時間、生徒といっしょに授業を受けていただく。さらに事後に1コマいただいて、nazunaの方は3時間かける2の時間をいただいています。こちらはそのときの一会ですので、そういう思いでお話をさせていただいています。
主として、
①「夜間中学」の実態と歴史を知っていただくこと
②義務教育未修了者を生み出した歴史背景、15年戦争と戦後処理の学習
③戦前の国家経営における移民の必然と、真宗の教義
④真宗における「戦時教学」の存在と内容を伝達
⑤海外布教とは、現場の要請であり、それゆえにに敗戦とともに再評価されるべき視点を見失ったことで、門徒移民の実態やそれに伴う僧侶や寺院の活動も、④の枠でしか見られず、見失われていることを詳説。
⑥夜間中学の生徒さんの人生を通して、現場教学を形成する必然を学ぶ
⑦言語体系の中に教えを閉じ込めてはならず、私たちの生活の中で如来の本願を受けているという、リアリティを示すことが、真宗の布教であること
などなどを、そのときのメンバーやこちらの状況でいくつかお話をしています。
まあ、布教使資格のないnazuna が、布教使さんになろうという方々にモノ申すのですから、不思議なことですが、だからこそ言えることを、申していこうとしております。今年も、6月末に事前。7月4日に交流。そして7月6日に事後と、出講させていただきました。タカノマサオさんが来阪中だったので、無理をお願いして交流当日には、メッセージをいただきました。
ふりえりますと、妙好人には非識字者が多い。それはすなわち、聴聞主体の当流の伝統が生んだものでしょう。またそれゆえに称名念仏、声になった仏さまをいただく意味があると感じます。
そこで、節談説教に取り組んだ今があるのですが、忘れてはならないのは、こちらの計らいですから、抜け落ちがある。
これは、生徒さんがnazunamへの批判として、気づいていただければ、と言いませんが(笑)。
この前の記事とのかかわりでいいますと、声の伝達ということは反対に文字伝達しかできない人を疎外しています。ろうあ者といわれる人ですね。また重複障害(この場合は被害の害ですね)者に対しても、実態的に排除したうえで、「法座」は成り立っています。
音声認識とまではいいませんが、せめて法話原稿を事前に提出して、文字放送するぐらいはすぐにできると思うのです。手話通訳をつけることも、考えなくてはとも。
また、自坊もそうですが、車椅子ごと本堂に入ることはできません〈新会館は配慮しました〉。
これらはnazunaの課題です。わかっているけどやらないなら、結局は差別を温存しているということです。
まあ、人さまにモノ言うことをしていても、この程度です。お恥ずかしいことだなあと、この講義交流が終わると、いつも懺悔することです。
ただ、現状では「節」が伝わる方法が思いつかないので、まだ何らかの手をうてないでいます。
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学びの家
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詳細
夜間中学校での授業風景やこまごまとした生徒さんとのやりとりを
中心に記録していきます。
中心に記録していきます。
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竹田孫太郎さんは、中国残留邦人一世。
今年三月、夜間中学を卒業された。
真宗寺院の末裔であり、また兄の渡満に伴い、開拓団村へと移住された。
戦前の日本は、資本の集中とそれによる貧富の差を利用して、安価な労働力を準備したのであって、それに依存して富国強兵がはかられ、移民と領土の拡張で経済を発展させたのであった。
安価な労働力とは。
農林漁村においても都市においても、底辺では旧藩秩序や村落自治町自治に依存しつつも上部構造においては近代化するという矛盾により、生産手段をもたない層(借家人や無株層に『水吞百姓』などの江戸期の非納税者層と、明治民法の規定によって土地屋敷財産の相続から除外された次男三男以下の個人や所帯層)のことである。
真宗は、「いつなんどき命終わっても、安養浄土で倶会一処」といただくから、御恩報謝として、「家族のために」「御国のために」、そして生き所を求めて、移民に応じた者を沢山生んでいく。
明治初年のハワイ移民。ハワイがUSAに合併されてからは、アメリカ西海岸からカナダ。そして、北米移民が政治的に制限されると、大日本帝国は半民半官の会社を設立してブラジルなど南米移民を斡旋する。
また、領土の周辺と意識された北海道や沖縄を中心とする南西諸島、そして新領土たる南樺太や千島列島、或いは台湾、朝鮮、と移民を広げていく。それはまた、その地の人を中央にとりこむことであり、反対にそれぞれの土地の人を動かしていくことになる。
インドネシアからオーストラリア、南方諸島にも、多くの日本人(漁民・山民)が移民していくのである。
こういう構造の中で、貧富の差はますます拡大し都市集中による農村疲弊は激しく、それらの中で打ち出されたのが分村計画であった。
国内の地方自治体に適正人口を算出したうえで、それぞれの自助努力を求めるとともに、余剰人口を海外に移住させるという政策である。
このターゲットが「満州」であった。
こうして、竹田さんは、満州の人となり、日本の敗戦とともに「棄民」となって、中国大陸で地を這うようにして生き抜いていかれる。
夜間中学で、nazunaが初めて親しくお話を聞かせていただいたのが、この竹田さんであった。
当時、お元気であったので、喫煙室でタバコをくゆらしながら、満州の話や山での暮らしなどなどを、まだたどたどしい日本語と中国語のチャンポンで、ぽつりぽつりと聞かせていただいた。
上記の本はこの竹田さんの人生を自らつづられた作文を中心に編集されたもので、題目題字も竹田さんの手による。
名もなき中で一生を終える多くの日本人の一人が、歴史と社会の力によって、波乱万丈の人生となった。その竹田さんの人生を通して、私たちは本当の歴史に出会い戦争や政治のもつ「残酷」さを味わう。
それは、今、ここの私が、何に依拠し何を否定し何に委ねて何を学ぶか、という私の人生の糧となって、生きる。そしてまた、私の名もなき人生もまた誰かの糧となっていくことを望む。
そういう生き方を、教えていただいたことである。
卒業して数日。竹田さんは阿弥陀さまのもとへと参られた。こうして記事を書き竹田さんのことをお話するたびに、今ここでいっしょにいられるなあと、いただくことである。
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生徒さん自身の歴史や、今の生活にかかわる古地図
巨椋池の地図を比べながら、縮尺の学習をする。
5万分の1なら、地図上の1cm実際にはどれぐらいの距離になるのか。
これで「かけ算(×1ケタ、×2ケタ)、「㎞・m・cmの長さの単位」学習」が実践的に含まれる。また、生徒さんが地図を見る体験となり、かつこれから生活の中で地図を見る必要が起きたときに、役立つ。
夜間の単元がこうして構成していく。
これをさらに、学校のある大阪府の地図のおきかえていく。
そうして、ここで、東日本大震災における原発事故の避難区域生徒さんの現実につながる。
地図の距離の測り方
①道や鉄道の距離
糸を用意して、その線の上にのせていく。測りたいところで糸を切る
ピンとのばして、定規で長さをはかる。縮尺をかけ算する。
例)11.5cm→11.5×50000=575000 100で割るとmに。100000で割ると㎞に。
575000÷100=5750 5750m 575000÷100000=5.75 5.75㎞
②福島原発の状況を近畿地方にもってくる。
A.地図上の距離を計算する
20㎞圏内とは、地図上では何cmだろう?計算してみよう。
㎞をcmにするには、×100000をする。20×100000=200万
5万分の1なら÷5万で、40cm。10万分の1なら、÷10万で20cm。
B.これをコンパスでとって、円を描く。中心は
1)福井の美浜、大飯、高浜の原発を中心にして描いてみる。
2)大阪府庁を中心に描いてみる
1.福島の白地図に市町村名を入れていく。
2.人口も調べて見よう。
市町村の人口合計を出すと「大きな数のたし算」学習になる。
このように、算数における習得課題を明確にしながら、扱う内容や問題解決が、ヴィヴィッドな話題になるものをあて、また、普遍的な生活課題との関連の上で、教材を作成してきたのである。
授業が終わるとPさんはじめ、生徒さんの反応を見ながら、次の授業の組み方を考えるのである。
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地震を考えるために:大陸棚と海溝
Pさんは、在日朝鮮人一世。渡日した父をたよりに母親よ関釜連絡船で11歳で日本へ来られた。
生徒会長を務めるTさんとは、夜間中学で知り合った仲間。このお二人がこの三月で卒業である。
夜間にご縁をいただいて以来、丸八年間、「学び」を共にした生徒さんである。
そのPさんとは数学の授業をおよそ6年ごいっしょした。
「ほかの先生の数学はかんたんやのに、先生のはできない。いやんなる。」と愚痴られことがしばしば。何も難しいことをしているのではないのだが。
内容的には小学校5年生までのことであるけれど、実は数学的思考と現実社会の数学をあつかうために、橋下氏のいう学力、陰山氏のすすめる「百マス計算」などの、「できる数学」ではない。
そこで、達成感がなかなか得られないという意味であろう。この真摯な批評答える形で、実は夜間中学の学力像が育てられた。Pさんのおかげである。
さて、そのPさんが今年、「どんな学びをしていきましょうか」と問うた時に、「あの地震のことや原子力発電所のニュースを見るたびに、わからないこと疑問なこと、知りたいことが増えてるので、そういうことをやってほしい」と言われた。
そこで、それをコンテンツとした上で、必要な学力を求めてこの一年授業を組んできたのである。詳細は次に譲るが、地図を見る見方からはいって、縮尺の学習から入ったのである。以下、「グラフと表の見方」=データをリアルに感じるために、を大単元として、四則計算と棒グラフ折れ線グラフ円グラフ帯グラフ柱状グラフの読み書き計算を習熟していった一年であった。
先日、昼の学生と交流があり、その席で「卒業したら何がしたいですか?」という14歳の質問に、Pさんは「私はここで学んだことで、夜間中学のことをみんなに知ってもらい守っていけるような活動がしたいです」と、はっきりと言い切られた。
生きる力となる学び。まざまざとそのことを教えていただいたことであった。(続)
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2011年11月24日
私は夜間中学生 木下俊 71 大阪府守口市
我が家の晩ご飯を4時に食べるようになってから、はや2年が過ぎました。私はいま夜間中学に通っています。午後5時40分から始まる授業に間に合うよう、いそいそと準備をします。
私の父親は戦後の混乱期に福岡の炭坑で働いていましたが、不景気と閉山により炭坑を転々としました。そのため、私は満足に学校へ行くことができず、義務教育を全うすることなく13歳で家を出て働き、職を転々として18歳で大阪に出てきました。
68歳で体を悪くして廃業するまで、私は字が書けませんでした。このことで、いろいろな面で苦労しました。自営業でしたので、同業者や仕事をくれる親会社には随分気を使いました。字が書けないことがばれないように、片意地を張って生きてきました。
仕事をやめて思ったのは「今なら勉強ができる」ということでした。私が行けるような学校がないものかと思っていた時、妻が夜間中学の生徒募集の広告を見つけてくれました。
入学当初は学校に馴染めませんでした。今まで片意地を張って生きてきたので、それを簡単には脱ぎ捨てることができず、「今さら、なぜ俺が」と、心の中で抵抗したのです。
しかし、そこには私と同じような経験をした人がたくさんいて、こんな思いをしてきたのは自分だけではないと知りました。今では心の垣根も取れて、学校に行くのが楽しみです。
年をとってからの学びなので思うように頭に入りませんが、同じ苦しみを持った多くの仲間と、少しずつあせらずに学んでいます。
わが夜間中学の生徒さんである。夜間中学生として入学してこられて、あるとき生徒さんは激変する。何歳も年齢が若く思え、よく笑いよく泣き感情をきちんと表現し自分の意見や考えを人前で話し始めることになる。
「学び」の目的が、究極の自己肯定を他者とのつながりの中で獲得するとき、わたしたちは社会的人間としても、或いは生物の類としてのヒトともなる。
木下さんの発言は、いつも深く思い。それをひょうひょうと軽妙に語られる。
交流のときも、中学生や高校生の思考が深まるような、意見や質問をされる。
上記の文章にもその力と生きてきた証がきちんと「書く力」となって、つづられている。夜間中学の目指す「学力」の一つの到達点であろう。
生涯学ぶという夜間中学から、阿弥陀様のお慈悲の光に包まれて念仏者は 「いつでも育ち盛り」とお育てに預かる。ありがたいことである。
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