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10月1日。夜は ゆうくんの コンサート。
うーーん。なんとなんと、「じゅげむ」 音響がいいのである。
11月に出る絵本のCD曲の新曲から、「Baby You」まで。なんだろう?
しっくりくる音感というか、いいとおりのギター音。
SUREのマイク、YAMAHAのPAと、空間がマッチしたのか???
なんともいえない、美しい音楽の時間でありました。
ぜいたく。
闇の中の 「じゅげむ」も 美しい。サインするゆうくん。
明日は東京ライブ。11月にはワンマンが江坂で。詳細は下から
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芸能よもやま
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詳細
nazunaのお気に入りの「芸能」を取り上げて、プッシュ。
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中入り
お彼岸の「おはぎ二種」で舌鼓。
100名近い人が出入りすると、それはにぎやか。
阪堺線グッズを販売に、工藤さんと福井さんも来寺。先月のシンポに代表として出席なさっていた福井さん。
なんと、若林眞人師の義兄であると!!!
不思議なご縁であった。
下座でお三味を調整する、寺西美紀さん。空調のバランスが悪く、風邪をひかせてしまったかもしれない。染丸師のお弟子。
口調の明るい、文三師匠の「十徳」。この襲名にはいろいろとあったが、nazunaはよかったと思っている。実力派であること、師の力がもっと知られたら爆発的な人気になる可能性があることからである。
何か、売り物になるスゴネタができればいいのだが。
三代目文三は「赤俥」といい、赤い人力車に乗って寄席を回ったり祝儀をした。これが誤って「春団治」伝説に取り入れられた。名人である。息子が四代目をついだ卯之助文三。30代半ばで急逝したので名跡が宙に浮いたままとなった。昨年、80有余年ぶりに復活したのだ。
文三は、もともと初代文枝の弟子であるから2代目文枝となった名前。しかし三代目の橋本文枝が、小文枝→文枝となったので、系列ができた。5代目文枝も、玉出の上出クリーニングの筋のところにお住まいであったが、小文枝から文枝となった。
四代目はあやめ(阿や免)から枝三郎。 つまり六代目文枝は、筆頭弟子の三枝協会会長から18番目の文三師まで、資格があることになる。ドキドキであるな。
ラストは 染二師の「質屋蔵」。リクエストである。難しいネタをあえて。
やっぱり決まりますね。下座さんとの呼吸。怪談風の展開。ネタ自体のもっている力が、十分に発揮されたいい高座。
気が付くとすっかりと、夜の帳が下りていた。 嬉しく有難い一日。繁盛亭ができたのであるけれど、19歳のときに夢見た、「上方落語の定席」をこの手で作りたい、という夢は、門徒の皆様のお力添えによって、実現した。地域寄席として定席化することも可能であろう、この「じゅげむ」
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わーい。
大好きな噺が一日に、四席も聞けた
最初は、第一回の前座さんであった、笑福亭喬若さん。「時うどん」を達者に。
トップの仕事は、「席を温める」といって、客の緊張をとり寄席の空気になじませること。
くすくすわらいとともに、落語の芸にも心を配らなくてはならない。三喬門下の秘蔵っ子はさすがの腕。
また、この人、鳴り物が達者なんです。見えないところ(下座)でも大活躍でした。
すぐに、染二師匠。替り目の半ばから、御祝儀の「松づくし」の踊りに。新会館「じゅげむ」のコケラ落としに、色を添えていただいて、有難いかぎりでありました。
そして、ゲストの染丸師匠は「蛸芝居」 これも三番叟があるのでご祝儀ネタ。しかし、歌舞伎の素養は大したもんです。次の人間国宝候補であります。堪能しました。
この噺は力量も必要であり、nazunaが生で聞かせていただいたのは、米朝師・吉朝師・染二師と大師匠の4人。大師匠の所作は全部、シーンが浮かんできまして、米朝師匠よりも明らかに勝っておられました。芝居噺では群を抜いていますね。(つづく)
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3月21日の彼岸寄席は、大入り満員。 林家染二師は「ちしゃ医者」と「井戸の茶碗」を熱演。 井戸の茶碗は、一人として悪意の人が出ない。「落語は性善説です」というのが染二師の持論。 お前座は、林家染吉さん。兵庫舟の一席。お囃子は豊田公美子師。初めからお囃子志望のお人。 若い人が、歴史伝統を継ごうとして下さるのが有難い。 染吉さんは年季あけ。ネタは10ほどを全てくっているそうである。大事なことだと自戒にする。あとは、寺向かいの「GENJI]にて大いに盛り上がったのだが。山澤由江師の急逝に話が及び、しんみりと。 (写真は奇しくも、節談の関山先生と染二師、染佐師と 由江姉さま) 壽光寺彼岸寄席の最初のお囃子できて下さった。寺報に追悼の思いで記事を書く。少し紹介すれば、彼女は学生落語家としては名人級であられた。その後、四世・林家染丸師匠に下座として弟子入りされたので、染二師にとってもお姉さんであった。 まだ、となりの「GENJI]であったときの打ち上げで、「円生」評価に及んで、nazunaは、六代目松鶴師との間の文我控の一件で、上方落語界の損失を思うので「円生は嫌い」と申し上げたら、由江姉さんは「あたしは好きやけどな」と切り返されたことを覚えている。 ご主人は笑福亭仁勇師。今年高校に入学される娘さんを残してであった。今日か明日が「満中陰」ではないかと思う。今日の「彼岸寄席」の基となって下さったおひとりであった。合掌。 さて、昨日は染丸師の全快祝意の会。繁昌亭。染二師との師弟会。染丸師は、芸術選奨を、昨秋の還暦記念の会でのお家芸「浮かれの屑より」で受賞された。wの喜び。 楽屋見舞いでお祝いする。秋の当寺の新会館のコケラ落としは、「彼岸寄席スペシャル」。染丸師匠の出演をお願いし決定した(嬉)。手ぬぐいもらったべ。師匠の受賞理由は以下のとおり 上方落語の特色は,「はめもの」と呼ばれる効果音楽を多用した演法にある。その一例として音曲ばなしや芝居ばなしがある。四代目林家染丸氏は,三味線の名手である基礎上に,これらの分野の境目に非凡な手腕を発揮している。とりわけ,平成21年10月3日に上演された自身の還暦の会における音曲ばなし「天下一浮かれの屑より」は出色の出来栄えであった。最も脂の乗り切った落語家としてその存在感はずしりと重い。 染二師の「お神酒徳利」はかの円生ネタ。うまくはまって、いい味になっていたが、初演の緊張と師匠への祝いで、ややかぶせずぎの展開。で、サゲ前で師匠へのお祝いをはさんで、やっぱり泣いた(笑)。ホンマに師匠のすきな人です。 師匠の「胴乱の幸助」は、10数年ぶ理に聞く。フラ、というのか、染丸師自身の持つ軽みが、おかしみになって、クスクスが笑いになって止まらなくなる。久しぶりに声をあげて笑った。なんだろうねえ、このコクは。運びはきっと上手な人が沢山いるのに、人物とストーリがくっきり浮かぶ。 説教師として学ぶところ大であるなあ。今夜は染二師が「千両みかん」。染丸師は「小倉船」。竜宮城龍の都、である。大変昔に師匠が染二時代にラジオで聞いたのみ。ライブで見るのは初めてとなるので、かけつけることとした。
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今回は あえて 書庫を「芸能」にする。 今回の原稿は論文化するには時期尚早である。ならばもう少し資料整備をしてから、という向きもああろうが以下のような論説が常識化しつつあるので、とにかく異をとなえておこうということなのである。持ち上げていただくのは結構であるが。 落語や講談、浪花節など、日本の話芸共通の原点が、浄土真宗の説教にあることは意外と知られていない。 徳川幕藩体制は、西欧カトリック教会の徴税システムを転用する「寺請制度」を導入した。(中略) 欧米社会では今日でも、ほとんどすべての市民がローカル・コミュニティの教会に所属している。これと同じように、江戸期以後の日本でも、ごく少数の例外を除いて人々はどこかの寺院に「檀家」として所属することになった。 また各地の寺院を結ぶさまざまのネットワークが組織されていった。実質的には戦国大名と言って過言でなかった蓮如以後の本願寺教団は、比叡山すら焼き落とした信長が征服できなかったほぼ唯一の武装勢力でもあったが、秀吉との和議に応じ、旧石山本願寺が秀吉の大阪城となり、やがて徳川幕藩体制が確立されると、東西二つの本願寺に分割されることとなる。 もとから強力なネットワークの力を持つ真宗教団は、各地の寺院を布教使が巡回する独自のシステムを立ち上げた。布教使たちは本堂で「高座」と呼ばれる半畳敷の台にのぼり、法談と呼ばれる説教を行って、檀家門徒の教化にあたった。真宗の説教はしかし、単に抹香臭いだけの語りを超えた形で民衆の生活にしっかりと根付いてゆく。(中略) テレビもラジオもない時代、都市のような小屋掛けもない地方では、ほぼ唯一のエンターテインメントとなったのが、お寺さんを訪れる説教だった。説教は喜怒哀楽、あらゆる感情を揺さぶって民衆をとりこにする。各地の方言で語られる耳懐かしい噺の数々。それらは現在でも「能登節」「加賀節」「尾張節」「明石節」などと呼ばれ、そんな中から「浪速節」と呼ばれるものも生まれてきたと考えてよい。実際には僧侶の語る「説教」から派生して、講談や説教節など噺専業の芸人が出、やがて明治に入って遊里の幇間芸などと混交して「寄席」の話芸へと変容を遂げて行くのである。フォーラム神保町 より 書き手は東大の准教授にして、音楽家である伊東乾と言う人である。東大にいながら東大に絶望するという悪口を平気で公開する人である。nazunaはこういう人は信頼できないのである。自分が組織の一員であるなら組織がダメで自己はいいということはありえない。組織をダメにしているのが自分ではないかと一°は疑ってみることをオススメする。 ま、それはそれとして人格と学問は別かもしれんからと、読めばびっくり。これだけヨタ話を書かれては閉口する。間違い探しの問題みたい…。 いくつか指摘しますね。「落語や講談、浪花節など、日本の話芸共通の原点が、浄土真宗の説教にある」というのは、誰がいつ証明されたのであろうか???寡聞にも伊東准教授の論文を知らないので、あれば誰か知らせてほしいが。 芸能史研究、たとえば説経節や古浄瑠璃に詳しい室木先生などの業績を踏まえておられるのであろうか。nazunaが学んだ方でいえば、神田由築氏(お茶の水大・近世芸能史)や芸能史学会の斉藤利彦氏(仏大・歌舞伎史)や武内恵美子氏(秋田大学・東洋音楽史)あるいは本願寺関係では籠谷真知子氏(龍谷大)の論文を読んでおられるのであろうか??? また日本史・真宗史の部分はある意味すごい!? ぶっとんでますね。寺請け制度は徳川幕府が「西洋カトリック教会の徴税システムを転用した」と断じる史料は???また大坂本願寺の顕如教如は信長と和睦して大坂本願寺を明け渡したはずですが?東西本願寺の分立は秀吉の政策に端を発し、朝廷方と将軍方、豊臣方と徳川方、そして教如と准如という兄弟の、路線の違いから生まれたのであって、1つの本願寺を幕府が二つに分けたとは到底言えないのですけれどもねえ。 「もとから強力なネットワークの力を持つ真宗教団は、各地の寺院を布教使が巡回する独自のシステムを立ち上げた」とは知らなかった。教団というのは江戸期の事ですから本山本願寺です。本山本願寺が各地の寺院に布教使を派遣して巡回させるというシステムがあったという史料を是非に紹介してほしいです。秀吉と大坂本願寺が和議した さてさて、驚きは続きます。 「それらは現在でも「能登節」「加賀節」「尾張節」「明石節」などと呼ばれ、そんな中から「浪速節」と呼ばれるものも生まれてきたと考えてよい。実際には僧侶の語る「説教」から派生して、講談や説教節など噺専業の芸人が出、やがて明治に入って遊里の幇間芸などと混交して「寄席」の話芸へと変容を遂げて行くのである」 現在「浪花節」といわれる芸能が真宗の節付き説教から生まれたとは、関山先生も真っ青ですな。芝清之氏が知られたらひっくり返られることでしょうな。 伊東先生「考えてよい」という許容の根拠を示してほしいものです。説教節と文字まで変えて表現なさるのも???であるがねえ。 ちなみに芸能史の定説は、説経節(正しく経である!)は、屋外の門付けの藝として室町期には成立していたとされる。寺院境内に筵を引いて、ささら、という竹で拍子をとりつつ語るというスタイルから、安土桃山〜江戸期に大坂・堺に琉球より「三味線(三弦・三絃)」が入り、上方地歌が成立する。その三味線を取り入れたところから、説経浄瑠璃が発展して人形遣いと浄瑠璃語りと三味線というセットが生まれた。これを研究者では「古浄瑠璃」という。 お気づきのとおり、ここには真宗説教との関連は見いだせない。高座説教は、そもそも浄土宗のものであるし、法説をとくのは宗派に限らず清少納言の古から行われていたのであって、声明に端を発する「説教節」が中世の段階で、既に寺院内と外という形で分離したことは明白である。 浪速節は、関東では浪花節と書かれるべきで、,関西では「うかれ(浮連)節」といわれたものである。これは、山伏たちの藝である「でろれん・祭文」を願人坊主が「チョンガレ・チョボクレ」という屋外芸を元にして、それに説経節や阿波浄瑠璃などをとりいれて浪花伊助が「うかれ節」と名乗って工業したことをルーツとするのが定説である。この浮かれ節・浪花節は出発点から「小屋掛け興業」で屋内藝である。 以下、煩雑をさけて短くいうが、講談は軍記読みがルーツで太平記読みである。軍談であるから侍分の教養でもあって、帯刀する。屋外の門付け芸とは全くルーツがちがう。また、落語は関西では辻話から始まるが江戸は座敷芸である。もちろん安楽庵策伝のものが落語ネタになっているが、策伝は真宗ではない。 以上、おわかりのとおり、現代の「節談説教」というジャンル設定に対する、伊東某(あえていう)の議論は、日本芸能史・真宗史における新発見のオンパレードである。一切史料提示はないのであるが。 このような人物を中心に関東から名古屋にかけて「節談」研究が行われるとはとんでもないことである。興味をもたれるのは勝手であるが学問的蓄積を無視されては困る。研究者の一人としても大変困るので、些か厳しいが批判しておく。 ちなみに「説教」が語りの諸芸のルーツであるというのは、宗教から芸能は分離したというのと同じくらい普遍的かつ概念的なものいいであります。しかし一方で稗田阿礼以来の暗誦・モノ語りの歴史もあり、簡単に言い切れるものではないのです。ましてや真宗説教がいかなるものであったのか節がついていたとしても、大谷本願寺期、吉崎道場期、山科本願寺期、大坂、鷺森、天満本願寺期、さらには堀川本願寺期、東西分立期、そして江戸期における東、西、仏光寺、高田専修寺、それぞれにどのような説教が行われていたのか、それらをきちんと踏まえてこそ「日本の話芸共通の原点が、浄土真宗の説教にある」と初めて言えるのである。学者さんでなければ推測であっても想像でもいいが、学問の徒、そして東大という肩書のある人であるから、妄説は謹んでいただきたい。 さて、最後に私の仮説を示す。根拠は薄弱であるが、2で引用した「賽の河原物語」の説明文。 「いとも哀れな 賽の河原の物語を談じなば恐らく涙を袖にしぼりつつ…」とあるので、先行する地蔵和讃もしくは賽の河原の物語というタイトルのネタをまさに江峯道人が「談じた」のであろう。 この江峯道人は妙弁文庫で別途〈江峯菴主人〉として『結辧百集』『大正滑稽百辧』『新しき因縁』『新しき譬喩辧』、そして〈江峯菴姉右軒〉として『哀れな死とうれへ辧』を出している。『賽の河原物語』は今のところ古書界に出回わらず「国会図書館本」しかない。であるから、内容が推測である。誰か国会本を確認してコピーをくれろ。 江峰庵(江峯菴)がナニモノであるかもしたがって不明。ただ姉右軒というのは講釈師や浪曲師っぽいが。これも情報を求む さて以上を無理やり結論する。節談説教、は関山先生の造語。しかしそれは、先行する「説教節談」に誘導されている。そして説教節談は、説教―節談ではなく、「説教節」−談、であるとしたい。以下のことを想定して。 寛政から文化文政期に興業型の芸能(歌舞伎・浄瑠璃・寄席)が隆盛をむかえたが、天保の改革でそれらがぽしゃっる。その時期から安政期にかけて、「説教」名目での芸能興行のみが可能となり、説教と芸能の再統合が加速されたと推測する。
寺院法座側からいえば聴聞衆(行き場のなくなった芸能享受者)の拡大によって、一気に説教者の需要が増えたと推測する。東保流獲麟寮の隆盛や各地の僧侶私塾之隆盛期が符合するのである このとき「落語」や「浄瑠璃」や「説経節」として成立していたものから説教師が生まれたりその逆があったりしたであろう。それは、真宗高座の譬喩・因縁説教を芸能ネタにし、また芸能ネタが高座説教に取り込まれることで、現在とつながる。節もしかりであって、説教節や浄瑠璃や浪花節の影響下に「節談」は成立したと思われる。その中でかつて説教ネタであったもの(既に藝として成立しているものだけでなく廃れたものも)が再評価されて復活していったと思われる。 つまりは、現在の「節談」とくくる高座説教の直接の契機は、近世末期から明治にその成立を見るというのが仮説である。もちろん、基層としての、声明節や読み物節は常に鳴り響いていることは言うまでもない。
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