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nazunaは長男で、じいさまばあさま子でしたから、素直で親の言うことを聞く子でした。
父親はすごくスパルタで、勉強にも厳しく学校の成績は1位2位であたりまえという人でした。多少はその期待にも応えつつも藝能(特に音楽)が好きでしたので、どちらかというと真面目な優等生にはなりません。おちゃらけが好きな子どもになりました。でも、どこかで「頭はよくなくてはダメ!」という価値観を育てていたように、思います。
大学浪人をし、本当にしたいことが何かわからなくなったときに、演劇と出会いました。そして大学に入学後に、本格的な人形劇サークルに入り、脚本を書いたり演出をしたり役者をしたり照明を学んだりと、その世界に浸りました。
そこで、家のことお寺のことなどいくつかの重荷から自由になりました。又、今の連れ合いともそこで出会い恋愛しました。
やがて教員になったとき、また息が詰まりました。1年目2年目で学校へ行くのが辛い状況になりました。そのとき、出会ったのが、竹内敏晴著「言葉が劈かれるとき」という一冊でした。
難聴で聾唖であった筆者が話し言葉を後天的に回復された経験を元に、演劇をとおして自己回復をするというレッスンを行っておられました。
nazunaは、竹内氏に会いたくて会いたくて、東京へ通いました。演劇教育連盟という組織で、竹内さんのレッスンがセミナーとしてもたれていたのです。
衝撃的なレッスンでした。言葉と全身で向き合う。言葉が生まれるメカニズムを全身で感じる。演じることは生きることであり、言葉は話し言葉であった。そこから、身体性の回復という課題に気付かされます。ノーミソ中心の社会。頭が下半身を支配するというあり方。近代社会が生み育てたそのような人間の姿に、根本からの疑問を持ちました。
「人間は動物である」エロスの解放。身体と心を分ける(二元論)ことは危険。まるごとの私という感覚の共有。五感をすましていくと感じ合える第六感。そうです。自力の仏道修行の目指すものがラフスケッチされているのだと直感しました。
ちょうど、哲学者の内田樹さんが古武道との出会いで、その哲学を深化させられたように。nazunaもとおまわりをして、仏教に戻ってきたのです。
さて、nazunaはレッスンでの経験を今でも大切にしていますが、この10年くらいで世間が変わったと思うことがあります。それは気配を感じてくださらない人が急激に増加したということ。
歩くときや、心や身体が詰まった時、イメージとして「地面からぶら上がっている自分」をイメージします。足が上で大地から空に向かって真っ直ぐにブラ下がっているイメージをひっくり返したもの。これで背筋がまっすぐに伸びます。駅の階段を上るときに、頭をブラ上げていくように上る、というように利用しています。
問題は人混みを歩くときです。身体全体で「こっちに行きたい(生きたい)のです」と表明して(つまり心の中でも話しかけて)歩くと、人が除けてくれる。これは、もっとも初歩のレッスンで25年前に、実践して感動しました。大阪で東京でも、何気なくぬらぶら歩いている人や、行き先がはっきりしている人たちは、こちらが発する信号を受け止めてすっと道をあけてくれます。反対に、相手が何かそういう気配を発しているときは、こちらがそれを読みとろうとし、道を空けてあげることもよくありました。
さて、困ったのは、この頃これがダメなんです。全くだめです。30代のころにJR大阪駅で50m10秒ぐらいのスピードでもすいすいと人どうしがスレ違っていけたのに。私が「いくぞ」という気配を出しても受け取ってくれないのか、感じても嫌なのか、いつも「お前こそのけ!」という身体言語が返ってきます。
さらに、「いくよ!」という身体が、瞬時に「ごめんなさい、私が悪いんです」という身体になる人も多く、いったん譲ろうとした身体をこちらが持て余すということもしばしばです。
言葉ではなく身体性でコミュニケーションする力が、ものすごーーーく低下している。さわってもらって気持ちいい。相手が気持ちいいのがわかるから、もっともっとこちらが気持ちよくなる。こういうエロスが、消えつつあるのでしょうか。頭をなでたり肩を寄せ合ったり。背中と背中を合わせたり。男女関係のみならず、犬や猫との『ふれあい』でもそういう感覚が「わかる!」という人は、いっぱいいらっしゃるはずです。でも、人間どうしの中でそういった部分やコミュニケーションがものすごくレベルダウンしてるように思えて仕方がない。
(汗)まあ、あんたがおじんになったから感性と能力が落ちたんよ、といわれれば、それはそれで納得なのですが(笑)。
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