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ESDと仏教

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本願寺派機関誌的新聞「本願寺新報」 ESDと真宗が親和性が高いということが、やっと俎上に上がってきた。以下、過去私がある研修で示した文書を掲載する。

同朋運動の未来形として(視野を変える)        

西成組壽光寺 蕚 慶典

1.ESDとは ESDは、Educationfor Sustainable Developmentの略で「持続可能な開発のための教育」と訳されています。現在、世界には、環境・貧困・人権・平和・開発といった様々な地球規模の課題があります。ESDとは、地球に存在する人間を含めた命ある生物が、遠い未来までその営みを続けていくために、これらの課題を自らの問題として捉え、一人ひとりが自分にできることを考え、実践していくこと(think globally, act locally)を身につけ、課題解決につながる価値観や行動を生み出し、持続可能な社会を創造していくことを目指す学習や活動です。つまり、ESDは持続可能な社会づくりの担い手を育む教育です。

2.ESDの考えESDの学習や活動で取り上げるテーマ・内容は必ずしも新しいものではありません。むしろ、それらをESDという新しい視点から捉え直すことにより、個別分野の取組に、持続可能な社会の構築という共通の目的を与え、具体的な活動の展開に明確な方向付けをするものです。また、それぞれの取組をお互いに結びつけることにより、既存の取組の一層の充実発展を図ることを可能にします。


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3.ESDで育みたい力(価値観の教育)
持続可能な開発に関する価値観 (人間の尊重、多様性の尊重、非排他性、機会均等、環境の尊重等)体系的な思考力(問題や現象の背景の理解、多面的かつ総合的なものの見方)
l  代替案の思考力(「批判」力から「築き」へ)
l  データや情報の分析能力(アクセス権保障と教育保障)

l  コミュニケーション能力(「行動」へ)
l  リーダーシップの向上(「競争」から「共創」へ)
文部科学省HP http://www.esd-jpnatcom.mext.go.jp/ より


4.仏教(真宗)の価値観との近親性―持続可能な開発目標(SDGs 2030)から
目標1:あらゆる場所で、あらゆる形態の貧困に終止符を打つ
目標2:飢餓に終止符を打ち、食料の安定確保と栄養状態の改善を達成するとともに、持続可能な農業を推進する
目標3:あらゆる年齢のすべての人々の健康的な生活を確保し、福祉を推進する
目標4:すべての人々に包摂的かつ公平で質の高い教育を提供し、生涯学習の機会を促進する
目標5:ジェンダーの平等を達成し、すべての女性と女児のエンパワーメントを図る
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目標6:すべての人々に水と衛生へのアクセスと持続可能な管理を確保する
目標7:すべての人々に手ごろで信頼でき、持続可能かつ近代的なエネルギーへのアクセスを確保する
目標8:すべての人々のための持続的、包摂的かつ持続可能な経済成長、生産的な完全雇用およびディーセント・ワークを推進する
目標9:レジリエントなインフラを整備し、包摂的で持続可能な産業化を推進するとともに、イノベーションの拡大を図る
目標10:国内および国家間の不平等を是正する
目標11:都市と人間の居住地を包摂的、安全、レジリエントかつ持続可能にする
目標12:持続可能な消費と生産のパターンを確保する
目標13:気候変動とその影響に立ち向かうため、緊急対策を取る
目標14:海洋と海洋資源を持続可能な開発に向けて保全し、持続可能な形で利用する
目標15:陸上生態系の保護、回復および持続可能な利用の推進、森林の持続可能な管理、砂漠化への対処、土地劣化の阻止および逆転、ならびに生物多様性損失の阻止を図る
目標16:持続可能な開発に向けて平和で包摂的な社会を推進し、すべての人々に司法へのアクセスを提供するとともに、あらゆるレベルにおいて効果的で責任ある包摂的な制度を構築する
目標17:持続可能な開発に向けて実施手段を強化し、グローバル・パートナーシップを活性化する
 
※ダンマパダ(岩波文庫―中村元訳)より
ものごとには発生と消滅があるということを理解せずに百年生きるよりも、発生と消滅の原則を見通しながら 一日生きる方がすぐれている →個の執着から離れる。共同体的に今日をアクティブに生きる。

この世ではうらみがうらみによって鎮まるということは絶対にあり得ない。うらみは、うらみを捨てることによって鎮まる。これは永遠の真理である  →捨てるためには向き合う。「対立」を怖れない。

愚かな者が自分を愚かであると自覚するなら彼はそのことによって賢者となる。愚かな者が自分を賢いと考えるならそういう者こそが愚か者と言われる →機の深信。仏願を仰ぐ。
学ぶことの少ない人は牛のように老いる。彼の肉は増えるが彼の知恵は増えない” 
→信知せられて「お育て」をいただくという生き方は「生涯学習」

48願より 11171822願成就の上から 「現生正定聚」の利益
) たとひわれ仏を得たらんに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。
) たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、寿終りてののちに、また三悪道に更らば、正覚を取らじ。→三毒の煩悩に囚われている私たちを嘆き、そこから解放されていくことを悲願とされた。
3) たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、ことごとく真金色ならずは、 正覚を取らじ。  
4) たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、形色不同にして、好醜あらば、正覚を取らじ。
浄土は差別のない平等な世界、住人もまた平等で差別がないということを誓われている
33)たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、 わが光明を蒙りてその身に触れんもの、身心柔軟にして人・天に超過せん。もししからずは、正覚を取らじ。 
→ 本願力廻向を受けていく私たちは、自己に固執せず柔軟に生きていく。
まことの信心をえたる人は、すでに仏に成らせたまふべき御身となりておはしますゆゑに、「如来とひとしき人」と『経』(華厳経・人法界品)に説かれ候ふなり。(『親鸞聖人御消息』『註釈版聖典』)  →利他を生かされる

課題 35願をどう聞いていくか
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仏陀は「ブッダ」の音訳。

ブッダは覚者。真実に目覚めた人。真実と自己同一化するから、真実の世界へ向かって死んでいくから、生生滅滅を怖れない。「生死出ずる」とか「死を越えていく」とか「四諦」といわれる認識から、正しい生き方を獲得する。

古来インドの思想からこれを見れば「梵我一致=ブラーフマンとアートマンの一致」となるが、釈尊は「無我」を説くから違う。

ブッダの生き方は「少欲知足」。

大衆に於いては、智慧のはたらきを最大限に引き上げるため、熱狂をきらう(不飲酒戒)。

五欲という人類がもつ根本欲求を否定するのではなく、「溺れる」ことを戒める。

無制限な自己拡大(不邪淫戒・不偸盗戒・不妄語戒)を厭う。

結果、資源を消費せず、自然環境を破壊しないように(不殺生戒)、理性的に社会を構築しつつ、出来うる限り他者の幸せを喜びとする生き方を奨める。

五体も地球資源であり、ここに返していくものとして、それを「生かせていく」はたらきを重視する。

それらを縁起と因果で説明していく。

さて、大乗仏教は再生された大衆仏教だから、「ブッダ』の生き方を理想としてそれを基準とし仰いで生きていくこととなる。

それは「利他」を理想とする生き方であるから、必然的に社会的に生きる。何も小難しい理論をふりかざさなくても、この社会のすべての「ひと」「もの」「こと」と私はつながっているという認識は、仏教の前提である。

浄土真宗は、私の上に「摂取不捨」とはたらく阿弥陀仏の願いのはたらきを受ける宗旨である。

「摂取不捨」とは、阿弥陀仏が私を自身のサトリの内(浄土)に生まれさせて、自身と同等のブッダに生まれ変わらせる、という願いが成就してはたらきとなり、「もうあなたの未来は決定した」と知らせること。

つまり、阿弥陀仏は私に「ブッダに成る身」と決定したとおっしゃる。それは、現在の私の有り様が、ブッダへの道とは真逆の生き方、すなわち親鸞さまの御言葉では「地獄は一定すみかぞかし」という状態でありながら、それを自省することなく、むしろ五戒を破り、欲を貪っているからである。

つまり、そういう生き方から転換してほしいという願いである。

その願いに信順するのが、念仏者だから、当然、生き方は「社会」へ開かれ、利他を求めていく生き方に自ずと転換していく。気がつけば、そっちむきになっていることに驚愕し、ブッダの智恵と慈悲に感動することを「信心歓喜」という。

これ以降は、称名を通じて「繰り返しブッダの願いを仰ぎ」、ブッダへと育てられていく人生であることを仲間と共に広がっていくことを、人生とするのである。

「釈」と名乗るのは、そういう人生を選択された(恵まれた)ということである。






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人は死んだらどうなるか?

わかりません。だって死んだ人から「死んでみたらこうこうやった」と

聞いた人いる???

ああ、中には「私には死んだ人の声が聞こえる」として、ああじゃのこうじゃのいう人いますね。

でもそれは、私の判断において、本当かウソかは、わからないでしょ。

そいうことは「言わない」。無答にするのが 仏教です。

ああ、これ仏教徒のコラムですからね。

念のため。

だから、人が死んだときに、お坊さんにお経を読んでもらっても、祈ってもらっても、何をしても、まったく無根拠です。直接関係がない。

だから、お釈迦様もおっしゃってです。

「修行者は葬儀にかかわるな」と。

じゃあ、呼ばれたら葬儀にかかわるのは?
方便であり、勝縁といただくから。

そうでないなら詐欺をしにいくことになります。



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私の御先祖さま。でも御先祖様を礼拝はしない。この方が私にお念仏を伝えられ、経典を慶ぶものとなれと命名され、そして先の浄土の仏さまとなっていつもいっしょだよとお呼びかけなられてある。それを感じる度に「お慈悲はぬくいなあ」と胸が温かくなるのです。それが嬉しい真宗の盂蘭盆。苦の人生を歓喜に転ぜられる如来のはたらきを仰ぐばかり。だから歓喜会。)

ウソも方便ということわざがある。

芸能風にいいかえると
「フィクションもノンフィクションを超えることがある」

学問風に
「言語は其の社会のコードから生まれコードを絶えず書き換えていくという人類の共同行為であるので、コードの変換課程では、言語表現そのものが無効になったり、無意味なものが意味を帯びることもある」

ネット上に形成されるお寺がある。それは一つの可能性である。ヴァーチャルリアリティの場であるから、それぞれの参加僧侶や信徒が自分の現場でリアライズすることは前提として、フリーな形で新しいコードを生み出す可能性もあるなあと。

この何年かそのいう感覚で「虚空山・彼岸寺」を拝見してきた。

でも、そういう形成にならなかったね。

例えばメール。
8月盆も残すところ僅か、お坊さんも正念場!
彼岸寺も盛り上げていきますので、ぜひお参りくださいね。」

だそうです。で人気記事は、禅僧がお書きになった「御霊具禅考」。

「現在、お盆の棚経(たなぎょう)の真っ直中です。 棚経というのはお盆の時期に、精霊棚(しょうりょうだな)を設けて種々の供物を用意し、僧侶を招いて読経して死者の霊を祀ることを指します。 江戸時代になってから、各寺院の僧がそれぞれのお檀家さんのお宅をまわって読経するような現在の形になったと言われています。 」

つっこみどころ満載のこの文章が、何の論争もなく掲載されているってどういうことなの?

死者の霊を祭るのが「禅宗」であることを初めて知りました。僧侶は霊になることを目指すんですかね。成仏道だとばかり思っていました。また「〜と言われています」と誰の言葉か責任とらない言い方。厳しい禅問答はどこへ???


というような、この発言もふくめて、各教団の歴史性や現実の僧侶の日日と成仏道とがどういうことになっているのかとか、戦後の宗教表現抑圧や神社が宗教法人になっていったことやら、地域での民俗信仰の実態やらを、まるごとそのまま無批判に受け入れて「こんなもんさ」としないためにできているネット空間じゃなかったのか???

ネットのお寺といいながら、そこに仏教そのものを考え問い直す回路がない。ただお寺に関心をもってもらい仏事に関心をもってもらいという宣伝パフォーマンスの場になり果てています。

各人が一人の僧侶として、日常の宗派では縛られてフリーにできない発言や行動や企画をネット上の他者の支持によって可能にしていく場、という私の期待とは、違う方向へいっちゃったんです。

このコラムでも「仏壇に祀られているご先祖様は、仏弟子となる儀式(授戒会)を旨とするお葬式を経ています」とあって。

ここだけでも例えば豊かな議論ができるはず。

「じゃあその御先祖さまは、霊なの? 仏弟子となってもまだ成仏していないの?」という疑問。

「お盆だけお迎えし帰っていただく」ってどうなの? 

「そもそもお盆でなに?」「読経=死者を祀る、っていう禅宗の認識はいいの?」

誰かが疑問をはさめば、日本仏教の中でもっと切磋琢磨されて現代社会、人類史における仏法の意義にまで迫って行ける可能性があるのに。

というわけで、私が勝手に期待していたぶん、がっかり度が高かったというお話。

ただ、このHPで展開されている「仏教」への率直な感想は、
「ウソも方便と、世間に迎合しているうちに、方便は嘘ということになってしまいましたね」なので、これを真宗においても自坊においても、そして在家僧侶と云う生き方に恵まれた一人として、自戒としておきます。






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ユネスコスクールの示す、ESD(持続可能な開発のための教育)の「概念図」

今日は、おシャカさまがおしえてくださったことから、ひとつみんなにお話をします。

さて、みなさんが暮らしている、この場所は、宇宙の中の星です。名前を知っていますか?(「地球」)
そうですね。そのほかに、太陽、お日さまのまわりをまわっている星があるのですが、それも知っていますか?(大きい子、水星、土星、などなど)
うん。太陽から近い順では、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、です。

さてこれらの星の中で、今のところ、私たちの星「地球」にしかないとされるものがあるのですがなんでしょう?

答えは水です。さてみなさんは水を飲みますか?飲みますね。私たちは水を飲まなければ生きていけません。それいがいに、何かからだにいれるものはありますか?
(「食べ物」「酸素」) なるほど。では食べ物って何ですか? お魚、お肉。なるほど貝やエビ、カニなどなど動物を食べますね。それから?はい、キャベツやニンジン、ピーマン、キュウリ、バナナ、みかん、……。いっぱいありますね。これらは植物です。それ以外に、キノコやらも食べます。

ところでそれら、私たちヒト以外の生き物もまた、水がなければ生きていけません。それから、酸素、空気がないとダメですね。生きることは「息をする」ことですからね。

さて、ここで最後の問題です。私たちは「生きる」といいますが、さて、水や酸素がなければ生きていけない。ところで、皆さんがおぎゃあと生れてきて、「地球さん、地球さん。私が生きるのに、水と酸素がいるから下さい」とお願いしたでしょうか?皆さんのお父さんお母さんはどうでしょう。

私もそんなことはお願いした覚えがありません。私が生まれるよりも先に、酸素と水のあるこの星、地球がありました。暖かいお日様がありました。これらをかんたんにいうと、「宇宙の力」といっていいかもしれません。

私よりに先にはたらいている力の中に、私たちはおぎゃあと生れてきた。これがどうも正しいことだと、オシャカさまは発見されました。インドの言葉で宇宙のはたらき、力を「ダルマ」といいます。

ところがこのダルマを知らず、認めず、私たち人間は「私が先だ。私が発見した石油だ。私が生きていくのに必要だから牛があるのだ、ブタがいるのだ」と思いこんでいます。

今日は、おはなまつり。おシャカさまの誕生日。おシャカさまがおうまれになったことをお祝いするのは、私たちが地球を使って生きるのではなく、地球や宇宙のはたらき、「ダルマ」によって生かされているという真実を発見し教えてくださったからです。

けれども私たちは、地球を我が物顔に使うことを、なかなかやめられません。おシャカ様の言う事を聞かない。悲しいですね。せめて今日は、地球や宇宙のはたらきに思いをはせて、知らないことを知って行こうとする気持ちを確かめておきましょう。そして、おシャカ様の教えにも少しは耳をかたむけてみましょう。

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