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つまらない仏教談義4

佛教に「真諦」と「俗諦」という考え方がある。

科学では作業仮説という表現をして、言葉だけでの「推論」を表す。この仮説というコトバも仏教語でこれが「俗諦」である。

実験を通して現れる科学法則は、科学においては真理であるが、「有為の法(形ある世界の法)」であるので、仏教においてはこれも真如とはせず、く仮説(俗諦)とする。つまり、「認識できる範囲における真理」ということである。

龍樹菩薩は、釈尊の基本的な認識・実践である「四諦八正道」の苦と集(じつ)が俗諦であり、道・滅が真諦であるとする。

老病死に悩み脅えるさまと、そう私たちが感じ認識する事態は、私たちにおいて「ほんとう」であるから、世間における真実であるといえる。けれどもこれは無明煩悩から起きることであるから、菩提=サトリの上から虚妄であるとブッダは示す。

佛教とはそのように、自身が生み出すタネによって起きてくる「苦」からの解放を目指すのであるから、目指すこと(道)と至った境地・世界(滅)が、真理であるのだ。

こっちが「真諦」。

そこから、天親菩薩が「言語表現で決定できるもの=俗諦」として、「言語表現ができなくとも真実存在するもの=真諦」とし、大乗仏教においては、この二重構造が世界認識ともなります。

ジャンプしていえば、現代の日暮しの中で、人権を守ることや犯罪のない社会を目指すことなどは「俗諦」に含めていいだろう。その上でそれらを通してしかし、犯罪や抑圧が起きる根本原因の解決が「真諦」であるということ。

この俗諦は「あくまでも歴史・社会のクロスした五蘊仮和合の私の上での真実を求める実践であり獲得した真実」であるから、これは真のサトリへと導くための「仮」であるわけだ。


で、明治。儒教・朱子学武士道など武士階級が掲げていた倫理や道徳は、江戸幕府や藩を否定する以上持ち言えない得ない。また、「仏教」も廃仏毀釈でやっつけてしまったから、真理に至る道に背いているともできない。

勝てば官軍が道徳になったから、靖国神社は「敗者=反抗者=反社会的人物」として、祭祀しなかった。

さてそうなると、何が道徳や倫理の基盤となるのか。欧米ではもちろんキリスト教でありユダヤ教であり、アジアではイスラム教である。神の意志が存在していて、それに背かない日暮しをすることが「道徳・倫理」。

で、困り果てて「教育勅語」。しかもそこで使ったのはなんと主君を「天皇」におきかえた君臣論と「孝」を中心とした儒教道徳であった。江戸の遺産を使ったわけだ。

庶民はどうしたかというと「ムラの道徳」を維持した。藩や幕府の保障がなくなったので、村内の地位利益を維持する為に「家の道徳」、すなわち世襲と血縁共同体による利益独占である。「仰げば尊し」にある「身を立て名をあげ」の「名」とは家名である。これを守ることが道徳であるから、明治になって「異人差別=血筋差別」が常識となって歴史に浮上してくる。

ところで現代。文部省が「道徳」を教科にしたが、さてさて。何をもってくるのか。まさかの「教育勅語」であろうか。それとも「血縁主義」であろうか。皆さん、御注目あれ。
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台風の当たり年であった今年。フィリピンを襲った大型台風も、自然法則の中。
加持祈祷で台風の発生を抑えられるようなことは起こらない。受け持ちが違う。

年末にあたって、つまらない言い方で仏教や真宗を説きます。つまらない、というのは伝統的かつ感動的ではないということで。

科学とか科学的認識とか。そういった体系を歴史的にまた、実践的に学んだのは、全て「仮説実験授業」を提起された、板倉聖宣博士と研究会の皆さんからである。

その、師匠が「宗教について語られたのが、『たのしい授業』2014年新年号に掲載されている。竹田美紀子さんが聞き取り筆記された、その概要を引きながら。

宗教の話になると、普通は「宗教はあるのが当たり前だ」というのが大前提であることが多いです。でも、「宗教なんてなくていいじゃないか」というのが僕の考えなんです。

こう師匠は結論から言う。あらゆる自然物を人格的にとらえたり、何かの啓示的にとらえるのは、その自然は尊敬の対象であることを意味する。敬して遠ざけるという態度がその底流にあって。それは、結局は「まだよくわからないものに、早急に結論を出さない」という理性の一面であるという分析をされるのだ。

それに対して包括的かつせっかちに結論を出すのが一神教。だから間違う。間違いを含むとそれが真理を楯にした人々の間の裏切りや権力性をはらむことになる。

マルクス主義みたいなものも、ある意味では一神教からくるんですよ。「社会主義はいいものである」とか、結論を決めちゃうでしょ。だから間違いが起こるんですよ。(中略)結局一神教は絶対的な神に同意することを求めるから、侵略性を持っているんだよ。学問だって自分を座標にして考えるから、侵略するんだよ。(中略)最近、僕は「そろそろ一神教の世界支配は終わった。だから、新しい時代が来た」と思っています。

実はここまで全く、nazunaの見ている風景と、同じ。さすがに師匠だなあと思うのであるが。そこで「真宗の時代」だとnazunaは結論づけているところが、師匠との違いであるので、そこのところを少々。


そも、仏教は生き方指南である。釈尊は、目覚めよという事を繰り返し推奨されるが、その道として示されたのが、自己の内部から生まれてくる無明煩悩を克服することが具体的な実践であった。つまり、何かを拝めとか祈れというような要素はない。外部から自己増殖させるような力を取り込み、自己を特別化する方向はむしろインド社会の伝統的支配的権力的なバラモン教の構造であって。それを打破して新しい生き方をしようとした釈尊が、自分が別のカリスマになろうとされるはずはない。

むしろカリスマのない社会、全ての人間が同等であるという認識を核にして、それを実践的に展開されようとされた。もちろん、科学・技術と社会の生産力等の発展段階があるから、釈尊在世の言説と行動においては不十分なことが多くみられる。例えば女性認識とか、障害者への認識であるとか。まだ分化していない「家庭=直径家族」のこととか。それでも、人間が進むべきベクトルは明確に示されてある。

そのために、ダルマ=仏法(釈迦師匠おける普遍の法)と、それを態度化、言語化できるところの師(ブッダ=佛)、それに従いを学ぶところのサンガ=僧侶=学習者集団、これを三つの宝として、いつのどこの社会でも、尊重されて保持することを、運動として残された。

釈尊の死後500年後に、大乗仏教運動がインドで起こり、ブッダ=理想の人間像となり、ボディサッタ=菩薩、先達の実践者集団(死者も含む)によって、生老病死がもたらす個人における苦からの解放を目指す実践と思想が体系化された。これが日本に伝わった「仏教」である。そこには既に中央アジアナイズされたもの、中国ナイズされたものが支配的に含まれてあった。

しかしその本質、法を拠り所にし自己を拠り所をするという在り方、は内部に担保されていたが、、日本おいては、一神教的ブッダ=スーパーマン信仰、が広がり、国土(自然)・国家(社会)を守る一神教的な受け取り(仏教では領解といいます)がなされた(これを打破しようとしたのが、法然浄土教であるのだが、それは次に)。

これは、歴史的に残り、またキリスト教の伝来から、科学と融和し俗化したキリスト教文明による近代化によって、実は強化される。真宗でいうなら、戦国期に便宜として「教主の支配権」的言辞が爆発するが、これもその一種である。

戦争の無い江戸期には、社会維持の倫理を説き、仏道を歩むことが優先的に説かれて、先祖崇拝だの「死後に極楽でのんびり」、などという説教はなくなる。

むしろ戦争の時代となった明治以降において、そして大量の戦死者と戦争犠牲者が生まれた二次大戦によって、「あの世で安らかに暮らす≒神のもとの天国で眠る」という疑似キリスト教観念で強化された現世否定観が、仏教各宗派に大きなバイアスを与えた。

墓や葬式やらが熱心に求められたのも、そういう事態からである。死や思い出に形を与えることに熱心になる。

しかし、真宗も仏教も、そのコアとして「成仏道=理想の人間になっていく生き方」を形を変え折に触れて説き続けているし、

繰りかえしになるが、仏教徒として生きる、サンガの一員となって生きるのは、何か絶対的な尊師に帰依することではない。また、超能力を身に着けることでもない。ましてや、自然の中に身を置いて感じる孤独性や宇宙の中の自己という壮大な法則へへの畏敬や感動をもって、神秘主義にすりかえてはいけない。

極めて理性的に説かれるからこそ、智慧の教えである佛教。その意味では科学的認識は仏教と親和性が高いと言える。けれども、既に歴史の中で「仏教」が身に着けてしまった諸現象やベクトルについては、きちんと検討しなければならない。(続)









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就職したとき、職場にこの雑誌があった。
 
もちろん高校大学と政治の季節であって、社会を変革しようというエネルギーが全てのジャンルで感じられ多感な青年は、公害問題や部落問題、さらには障害者差別や朝鮮人差別、そして平和運動と、様々なウェーブに引きずられていたのであり、また共産党の香り高き京都にあって、地域子ども会というものを拠り所として、コミュニティの再編成まで視野に入れた大学のサークル活動に、プラグマティックな思想と行動を育てられて。
 
 
だから、大阪の地へ戻った時には、それなりの『部落問題』との出会いがあり自己化されていた。また、狭山差別裁判にかかわっていた野間宏が『歎異抄』を読み込んでいたりして、僧侶の出発点から『親鸞思想と差別からの解放』というのは自明のこととしてあった。
 
さてさてところが。
 
職場で購入されているこの雑誌。どの先生も読まないのである。新刊がきて教頭の机にのり書棚へしまわれる。
 
???である。のちに運動側は購入させて読ませるということをラフに考え、また運動側への協力として市が予算を使って各学校に配布するという、副読本「にんげん」に似た構造が存在することがわかった。
 
現場は、組合が強かったがそれでも土着保守という空気が支配的であって、組合運動を真剣に取り組んでいる人たちは、共産党・民青との対抗が第一義であって、運動の概念ですべてを見るという感じであった。
 
当然、未熟ながらも演劇運動や地域再編運動にかかわって個から組織という発想であったnazunaは、内容によってあるいは運動の趣旨によって共産党系の人と行動を共にして組合主流派を批判したり、或いは問題によっては「自分の身体で感じ頭で考えること」を放棄しているように見える共産党系の人たちに反発して。
 
孤立してわけがわからんようにもなったりして。その間、実は、職場では読み放題の雑誌『解放教育』や、職場や当該市を超えた「大同教」の出版物や実践が指標となった。
 
 
『解放教育』は部落差別からの解放だ、と言い切る先生もいたが、nazunaは僧侶でもあったから、『私たちは時間と空間に縛られてしか生きられない』『そこから生まれてくる様々な苦からどう解放されて、自由感や充足感を感じる今を生きられるようにするか。すなわちさまざまなバインドからの自己解放を目指す自律的な教育が解放教育』であるとイメージしていたので、その定義にはうなずけなかった。
 
 
むしろ『解放教育』のコンテンツとして部落解放があり、民族差別からの解放があると、イメージしてたのであった。当然その当時の大同教のメインは『同和教育指定校』の実践を中心に紡ぐものであって、それを掲げるのに精一杯(共産党勢力や保守勢力、さらに無関心層とのたたかい)。
 
 
しかし、実存と社会という地点でしかものを考えられないnazuna には、乱暴にいえば「一般校は差別する側なんだから『にんげん』をきっちり実践して差別をしないさせない許さない教育を実践しなさい」というテーゼに有効性を感じなかった。
 
 
ところがそういう異議申し立ては「敵」と見なされる空気があって。これは政治というフェイズ(権力支配の争い)なので、関連はするが別問題であるという社会分析が共有されていない以上、無理な相談でもあった。
 
 
そこで、部落問題については些か控えめにしつつ、職場ではもっとも話題となっていない『在日朝鮮人児童生徒の教育』という問題を自分の中から拾い上げた。きっかけは朝鮮籍の転校生がクラスに来たことであった。6年生の担任時のこと(Rさんどうしているだろうか?今、彼女は43歳かな)
 
 
この子の親から学び、人間実践から学び。授業づくりをし学校で公開授業を行い。そこには反発もあり、そもそも『本名を呼び名乗る』ということがなかなか理解されず。Rさんは読みだけが日本語読みで本名を使っていたので、日常では国籍は見えない。そして彼女の核となる『朝鮮文化・歴史』は他者には見えない。
 
 
多くの朝鮮人児童生徒は、その状態で義務教育時期を通過しようとし、14歳で指紋押捺義務を含む外国人登録を受けて、ショック状態に陥る。通過えきないのである。システムがそれを許さない。
 
 
見えないものが「指紋をとられる」ということで外部から(国家社会から)定義されるということを想像してみてほしい。親が活動家ならいいが多数の在日朝鮮人家庭はそういう立場に立っていたのである。
 
そこから、どう解放されていくのか。ここに至って二重の束縛という問題立てがなければ方法が見いだせないことがわかる。
 
すなわち他者(社会制度や歴史性に裏打ちされた外部のまなざし)からのマイナス、そしてそれを内部化してしまって自分で自分を束縛する(朝鮮人であることを隠す・日本人としてふるまう)マイナス。
 
これらをきちんと構造化して、それぞれの解決を目指さなければ、豊かな人生を生み出す教育にはならない。最初の部分は当然、社会運動や政治を伴う。
 
 
そんなときに『外交人登録法における指紋押捺義務の拒否』という一人の保護者の運動に出会っていくのである。そしてこの運動を担うことが、いっしょじゃないけど、敵じゃない。共感共考共同するけど他者です、という立ち位置の表明でもあったのである(続)。

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『うきわねこ』 ぶん蜂飼耳 え牧野千穂 ブロンズ新社(2011) 1470円
 
讃題は同じです。
 
15日の絵本。歌は「光あふれて」「光にみちて」やっと最終日で親鸞さまにたどりつく。

あらすじ)
ある日、えびお(このねこちゃん!)のもとに、おじいちゃんから誕生日のプレゼントがとどく。それは、うきわ!
 
おとうさんやおかあさんにはないしょ。夜になって、そっとうきわをふくらまし、つけてみるとあれあれ。
 
えびおは空へとまいあがる。そこでは不思議体験のオンパレード。同じくうきわに乗ったおじいちゃんが待っていた。
 
おじいちゃんといっしょに、海へ行きお魚釣りをして大きな魚を一緒に食べて…。
 
でも、これは一度きりのこと。うきわはえびおをおじいちゃんと一緒の世界へ連れて行き、またえびおの日常に連れ戻す。それからもう二度とは、空とぶうきわにはなりません。
 
でも、えびおは…。

絵本の展開が、nazunaには往還二回向に思えたもので力技(笑)。おじいちゃんはふつうに実在しているかもしれませんんが、そのあたりは読者に委ねられています。
 
 
お話はオリンピックのことから。
「オリンピックが終わりましたが、日本はメダルを何個とりましたかねえ」
「38こ!」と子どもにお年寄りからも声。
 
 
「じゃあ、日本選手は何人ロンドンへ行きましたか?」
「………。」
 
 
100人ぐらい?200人?
「実は、293人です」「へえー!!!」 
「役員をあわせると518人。そのほかに、各競技ごとにお世話をする人を帯同していますから、相当な人数ですね」
 
 
実は閉会式の録画を見ていてはっとしたのでした。
「あれ、いつのまにかメダルを取った人しかオリンピックに参加していないことになってないか?」と。
 
 
人の話ではありません。人気のある競技はTVに映ります。日常に狎れてテレビの目でしかオリンピックを見ていない私がありました。
 
 
私たちはそのように、知らない間に偏った目で外部を見る。都合の悪いことはなかったことになる。だからこそ、「あなたは不完全なんですよ」「あなたは善悪や美醜、強弱や勝敗という相対的な価値にとらわれてしか生きられないのですよ」と思い知らせてくださる、外部からの声、まなざしに「遇う」ということが決定的に重要なのです。
 
 
ヨーロッパから発祥した近代社会とその価値観は、人間を至上のものとするがゆえに、強固な自我を求めます。しかし、人類は自ら築いたその強固さに縛られて、互いに対立し誇り合うという構造から逃れられません。
 
 
如来が声となり文字となって聞かしめる真実とは、世界を二重に構造化する営みです。現実と物語、シャバと浄土。相互において存在する実存です。
 
 
こんな難解なことを、すーっと絵物語にしてしまうお二人はただものではありませんね。
 
 
何回お墓詣りをしても、この仏法にあわなければ、自我肥大にブレーキはかかりません。「今年もちゃんとお参りした」「ご先祖にありがとうといった」「ちゃんとお寺さんにお経を読んでもらった」などなど、自分を安全に強固にするだけで、自己を疑う契機になりません。
 
 
親鸞さまは、そのような自我に苦しまれつつ、確かに如来に呼び出されたのは「私」であるという実感を持ちながら、日本社会の既存の宗教的認識構造のワクを超えた生涯を送られました。罪悪深重の凡夫が本願力回向によって、現世の正定聚として生かされるという在り様を、その御身で示されたのでした。
 
 
このゆえに、今にいたっても、世界は親鸞さまに追いついておりません。現在のわが本願寺教団ですら、まだ後追いの最中であります。
 
 
2012の最後の紹介絵本。絵のステキさからもオススメ。是非手にとってくださいませ
(未完ながらウサギを主人公にした全く同じテーマのお話を絵本台本として娘に2005年に渡してありました。でも、こっちが先にできちゃった。残念)。
 
 
 
 
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『まほうのカメラ』木暮雅夫 フレーベル館(2012) 1000円
 

あらすじ)といっても、紹介不能。仕掛け絵本です。一枚のページをめくると、まほうのカメラで風景が一変する。小さいお子さんでも楽しめます。リクツぬきで、視点が変わると感性が帰られるという体験ができます。自分の視点が揺さぶられる体験をすることは、仏教入門といっていいでしょうね。 

 讃題:ほとけの誓い 信ずれば いとおろかる ものとても
    すぐれし人と ほめたまい  白蓮華のとぞ たたえます (しんじんのうた)
(一切善悪凡夫人・聞信如来弘誓願・仏言広大勝解者・是人名分陀利華ー正信偈)
昨日はご讃題掲載忘れでした。ゴメンなさい
 
 
2日目(14日)は、『まほうのカメラ』 私たちの「煩悩のメガネ」による偏りについてを話す。
 
竹島問題を語るまでもなく、善悪は人や地域、またその人のおかれた状況によって変わるからやっかいである。
 
 
昨年の地震の後のこと。兵戈無用コンサートに来ていただいた、やなせなな(梁瀬奈々)さんから、現地で感じていることを語っていただきながら、涙の中で学んだ。
 
 
1年たちこの7月にYTVで、彼女の特集番組が作られた(「関西情報ネットten」という番組で、特集はストリーミングでネットで見られるので是非視聴していただきたい)。
その彼女の番組の話から入る。
 
 
今、なお、いろいろな支援が求められている(と他者が感じる)状況がありながら、日常に埋没して、その回路をシャットアウトしている私。
 
 
もちろん、中東の地震があり。豪雨での被害があり。はたまたグアテマラやシリアやら戦闘中の国があり。「見上げてごらん夜の星を」を歌いながら、そこには一人ひとりの人間の「喜怒哀楽」があり、涙や汗があることに思いをはせる。
 
 
私たちが生きるには、そういうものをただの記号として、メモリーにほおりこんでいかなくては、感情への刺激信号が多すぎておかしくなる。知らない間にそういう処し方を繰り返してそれが「あたりまえ」になる。
 
 
如来の願い、すなわち「どんなあなたであったとて、それを問うことなく、全ての命に等しくかけられた、ブッダになってくれ」という願いに、ふれてこそ、そういう頑なで固まってしまった「自己」に目覚めることはできない。
 
 
まほうつかいのパット・トッタ―のカメラは、いわゆる日常のピンチを写し取るがそれを全く違う、なごみや喜びの画面に変える。仕掛け絵本の真骨頂。
 
 
 
パット・トッタら、風景が一変する。そこから新しい地平の人生に変えられる。南無阿弥陀仏をいただくとは、視野が変わるということ。
 
 
念仏して弥陀の願いに生かされるものをば、仏・菩薩さまがたは、プンダリーカ、白蓮華のような人と、お誉めになるのである。 
 
 
最後に、セリ弁のかわりに「光あふれて」をみんなで合唱。
 
 
 
 
 
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