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『やまこえのこえかわこえて』 作・こいでやすこ 福音館書店(840円) 2001
歓喜会、初日の絵本。
あらすじ)
きつねきっこが、夜にお買い物に町へいきます(新見南吉の「てぶくろを買いに」を彷彿させますね)。
野を往くとお月さまがついてきて、山を越えるときからふくろうさんがついてきて、川を超えるといたちさんがついてきてくれます。
あぶらげを100枚買って、みんながしはらいをしたら、おとうふやさんがおまけにもう10枚くれました。
それから、帰り道。耳のとがった、おっぽのふとい、なんだかなあというやつが、「こわいぞこわいぞ」と脅して、あぶらげをかっさらおうとします。そのたびに、お月さまがぴかーと照らし、ふくろうがばたばたと羽であおり、いたちがくっさーい一発をおみまして撃退します。
ここで、よかったよかったではないのです。ここからきっこは一生懸命。なんとあぶらげをたき、ごはんをたいて、「いなりずし」をつくるのです。
秋祭りにやってくるみんなを喜ばせるために、きっこのいなりずしづくりでした。
あら、最後には「なんだかなあ」というような、小さいきつねも、おいなりさんをおいしそうにほおばっています。
盂蘭盆会は、伝来の「おしょうらいさま」と仏教が習合したもの。新暦にしてわけがワカメとなってしまった。
もともとは、1月7月の祖霊祭。門松とたなばたの笹は全く同じ意義。
たなばた→精霊会はセットの行事。星祭や機織女の祭礼である「七夕」とは、別々の行事であった。
仏教側の盂蘭盆経は、夏安居のお話。おしゃかさまが仏弟子のモクレンの苦悩、すなわち仏縁のない三毒に終わった実母の今を嘆いて(餓鬼道におちている)、救いを求めるお話。
おしゃかさまの解決は、安居に集まった僧侶に食事をささげる(これを「供養」といいます)という実践。そうすると、母は餓鬼道から救われたという話。
仏教への認識がないと「権仮」にとらわれて、モクレンの親孝行話になってしまう。また、施餓鬼といって餓鬼に食事をあげて助けるという話になってしまうぞ。
(自業自得という徹底した明晰な認識にたてば、苦しみの主体がモクレンであることはすぐに読み取れる。つまり餓鬼道に落ちている母の姿はモクレンの苦である。だから、おしゃかさまはあくまでもモクレンのいうことを否定せずにその苦を除去されたのである。すなわちモクレン自身が、貪欲と正反対の行為を行い、多くの仲間の「お礼」を受けるという経験をすることで、今ここの私、が問題となる仏教の王道に目覚めて、母への妄想を止めるのである。止めるから救われるのである。自明である。)
ということで、きっこの買い物が「布施行」であることを明示する。アンパンマンのマーチと昨年の地震後の話をからめて。戸田恵子さんがナマ歌で歌って下さった「アンパンマンのマーチ」で初めて、アンパンマンって菩薩さまなんやなあと、気が付いたことをお話。みんなで歌う。
そして、供養の本来の意味を確認。そして、最後にでてくる「なんだかなあ」くんのような、一切善悪に終始する凡夫人も、阿弥陀さまの廻向を受けて(南無阿弥陀仏を聞信して)、念仏する人(いただく喜びを知るものに変えられる)になると、「分陀利華」=プンダリーカ=白蓮華、とほめてくださるのでありましたと、讃題に戻り、
「光あふれて」をみんなで歌う。
ありがたいです。
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仏教をカタル
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花御堂に 甘茶かけ
4月8日 はなまつり。
大人と子どもで40名。
あと町往く人が数十名。
やわらかい陽の光に、花、花、花。
おシャカさまのお誕生を、「降誕会」から「はなまつり」としたのは、ドイツに留学していた日本人たち。
キリスト教文化に触れて、フェスティヴァルを知り、花畑でお生まれになったという出生譚をアクチャル化した。
それから重ねて、教会学校(日曜学校)を真宗はとりこんでいく。
nazuna は、近代を超えていく地平にある当流に帰しているけれども、現実を構成している「近代」や「キリスト教文明との交差や影響」を無視するほどバカではない。
今、私たちが語る「真宗」はやはり、既に近代化された「真宗」である。
今、花御堂に参ってくれる子どもたち。ベイビーもいて、平成23年生まれ。
仏教、2500年の流れが、今、あなたに。
今年も、楽しくおごそかに、そしてうれしく。
住職も、クラルテさんもはりきって。
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当寺ご遠忌 お練り
こちらでは、諸説俗説をとりあげたい。
機の深信のお話をしたときに、
「十悪全部あてはまるなあと、自分で思います」と
具体例をあげて、お話したあとに、お聴聞の方から飛び出したのが、
「私らはそうかもしれんが、お坊さんには徳がありますやろが」と、言う言葉。
今までで聞いたのが二回目だった。
だいたい、ご当流では、「背くお前が捨て置けん」のであるから、お寺に生まれてくるということは、他の人間に比べて、御法義の濃い御縁を恵まれるのであるから、在家のご門徒よりも、罪業が深いといただかねばならない。
「皆さんは、お寺へ通われるのですから、無明を治療される通院患者。私は、通院では間に合わん重症・危篤であるから、入院患者です」と、申し上げたい。
無条件でお坊さんがエライ、ということはどこからうまれるのであろう?
いや、仮に世間がそうおっしゃても、それは私を生かしめて、私を通して発露する「弥陀の本願力」の尊さであるとしか、言いようがない。
法事や月忌参りにいくと、実に立派なお座布団を引いて下さる。座らせていただくときに、ここの家人が「それほどに御法義を尊ばれているにである。私が座るのではない、南無阿弥陀仏がお座りになる」という思いで座る。
御法話・お取次ぎの際は、いったんお座布から下りて、畳の上で、御本尊さま仰ぎつつお話させていただくことも多い。
上記の写真のように、お寺は内陣を豪華に荘厳し、高価で美しい装束を纏う。しかし、それも、ren'ohさまが、よくおっしゃるように、結衆列衆は浄土の菩薩を演じるゆえにである。内陣を阿弥陀様のお浄土であるとして、お荘厳の一部になるということであるから。
だからといって、生身の僧侶が、エライのだ、と言われると首をかしげざるをえない。
「徳」を 辞書で引けば、
(1)修養によって得た、自らを高め、他を感化する精神的能力。
(2)神的・道徳的にすぐれた品性・人格。
(3)身に備わっている能力。天性。
(4)めぐみ。神仏の慈悲。加護。おかげ。
(5)善政。
(6)富。財産。裕福。財力。
(7)富を得ること。利益。もうけ。得。
と、7つの意味が出てくる。
(1)(2)の精神的道徳的能力の高さ、というのは、その人とよくよくつきあってみないとわからないし、まず私にはあてはまらん。
じゃあ、(3)の天分という意味ではと考えると、芸能人でもスポーツ選手でもなれればなりたかったが、現実はちがう。(4)では、施す側ではなく頂戴する側であるから、正反対。政治家でもないから(5)は無理だし、(6)ならすげ〜〜〜のだが、借金はあっても貯金はないし。(7)はんなとか、TOTOとか年末ジャンボとかに期待しているが最高額1万円が今まで一回だけだし…。
ウチ以外のお坊さんは、このどれかにあてはまるというのであろうか????
敬して遠ざけるということではと、nazunaは思う。
ならば、むしろ反対を真宗僧侶は語るべきではないのか? 世間にそのような感覚があるとすれば、『平生業成』の当流は、「僧侶こそもっとも徳の無いものです」と、黙っていないで世間に告白し続けなければならんのでは。
その上で、このように救からんものが救かる不思議の仏法こそ、讃嘆すべきではないのかと。
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梵鐘の型 なんとなくカワイイ
大師匠・広陵兼純師、『日本の放浪芸』に収録された「加典兄弟」。
エミレの鐘ともいい、師の師であられる範浄文雄師の録音も残る。
広陵師の「ま紫の煙をはいた溶銅が〜」というフレーズを想像しながら、工場へ。
土と水で炭粉でこねられできた鐘の型。
さあ、どうどうどうどうと流し込まれる溶銅は???と見ると、ありました!!!
この窯の中で溶けているのです。1500度ぐらいの温度にしてから、1,200度にコントロールするそうで。
なんかこう、床上に通路みたいなのがあって、そこを真っ赤な溶銅がこうつーっと流れていって、地下の型にすーっと流し込まれるイメージは、妄想でした。
この溶銅を注ぐための入れ物、「坩堝大」ですが、ここには藁灰を敷かれる。これは大昔から変わらない技法。不純物を吸着するはたらきと、溶銅の飛沫を防ぐはたらきがある。
大きな実験室にいるようで、職人さんの作業にもわくわくします。
型の方には、炭粉をペイントして準備。順に積み重ねて、最後に上部のドラゴンの部分の型を載せて完了。
熱による金属の膨張と、冷却にによる収縮。これらによって、鐘本体に歪みやキズがおきないように計算され経験の中で継承されてきた細かい技術がそこにある。
仏教伝来とは「テクノロジー」の伝来であるということが、よくわかる。
経典には、紙と墨の技術が必要であり、また保存を前提とした保管の技術も必要とされる。
仏像には木造もあって、これには素材の選定から加工の技能、さらにはやはり保存の技術が、要求される。
これ以外にも、建築・建造のノウハウに、布・衣服の織りや綴り、鳴り物(音楽)に聲明と、ありとあらゆるテクノロジーが「仏教」という塊なのである。
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弥栄節・やがえふ
一、
河内丹南鋳物の起こり (ヤガエー)
今じゃ高岡金屋町エー (エンヤシャ ヤッシャイ) 今じゃ高岡金屋町エー (エンヤシャ ヤッシャイ) ニ、 火の粉吹き出すあの火の下に いとし主さんタタラ踏むエー いとし主さんタタラ踏むエー 三、 タタラ踏み踏みやがえふ唄うや 鉄も湯となる釜となるエー 鉄も湯となる釜となるエー 四、 めでためでたの鍋宮様よ 鋳物栄えて世も映えるエー 鋳物栄えて世も映えるエー 8月7日8日と、富山・魚津、高岡へ。
御門徒さま7名と母を伴い、当寺の梵鐘の火入れ式に、「老子製作所」にうかがった。
前住職(父)の悲願であった、鐘楼と梵鐘。ご門徒さま方のお力を得て、実現となったのであります。
高岡は、大阪・丹南鋳物師の伝統をつぐ町。本願寺の有力門徒でもある「老子製作所」さんは、全国の梵鐘製作において圧倒的なシェアを誇られる。
現在の会社の基を成されたのは七代目次右衛門さん。
銅合金の技術者集団の代名詞となるのが「老子次右衛門」の銘。
高田門徒やその流れを汲む荒木門徒に多数の鋳物師が含まれていたことは、既に歴史が明らかにしている。わが心の師、河田光夫師の「親鸞と鋳物師」である。
梵鐘は、釈尊の頭部である。ぶつぶつのでっぱりは螺髪を表す。したがって鐘の音は、釈尊のお説教である。響流十方、正覚大音。
いやあ、感慨一入のツアーでした。詳細は次へ。
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