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人が死んだあとどうなるかは、生きている人間の判断。個人がどう考えるかは個人の自由だけれど説得力がない。そこで一定の集団の共通観念が必要となる。そしてそれは、生きている人々の「何らかの手続き」によって、生み出され維持され継承される。 |
仏教をカタル
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コメント(2)
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お盆になると、お寺はあれこれと忙しい。電車に乗ってると、「お盆はいそがしおまっしゃろ?」と話しかけられることも多い。 |
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「浄土の行者は愚者として往生す」 |
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ええと、死んだ人は帰ってきません。生き残った側から言うと、喪失になります。 ですから、「因果」で今を見るという考え方は、結句、死者の声を聞くという行為であると、nazunaは思っているのです。 今、生きている人の声だけで、全てを図ったり決めたりしない。そういう思考法です。私という体系に取り込めない『他者』存在を前提にする。 そういうスタンスでの「見通し」や「ものの考え方」の体系を「浄土の真宗」と名づけられたのが親鸞さま。 関係が持てる他者ならばそこに、同一化の欲望が生まれます。しかし、一旦切れてしまった、あるいは過去世の彼方から(今を生きる私から隔絶した地点から)、反対に私を体系化するはたらきがある。 是は倫理や道徳では、説明できません。論理も反転しなければ展開できません。だから、「不可称不可思議不可説」なんです。 困ったことです。これではフリーすぎて学べない.そこで、一部を倫理化する方向で言論します。これは釈尊の梵天勧請と同質のジレンマです。踏み込めば社会関係化して取り込まれ取り込むという事態になる。かといって踏み込まなければ、意味失う。 まあ、そんな難儀な課題を考える力はないので、他者の声を聞くということでお取次ぎをしています。それは葬儀や年回法要など「死者儀礼」にかかわるからこそ有効なのです。
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父母恩重経というお経があります。親孝行しんさい!というお経です。お盆の原点である盂蘭盆経というお経があります。子どもが親を救いたいと思う話です。 中国でお釈迦様に仮託して創作された、お経であるといわれます。お釈迦様の説教記録であるのか後世の仏弟子の創作か、という視点で真か偽かと見る視点です。 例えば後者。 目蓮さまと言うお釈迦様のお弟子が、お釈迦様の説法に会えず、煩悩のままに生き死んでいった母親のことが心配になった。ということは利他の心境ですから、菩薩として描かれているということです。 すると母親は餓鬼道にいることがわかった。すごい能力ですね。凡夫ではないわけですこの時点でも。で母親に食べ物をもっていく。でも母親がそれを食べようとすると全て燃えてしまい食べられない。 そこで、お釈迦様に相談なさる。母はこの私を育てる為に餓鬼になったのだと。それが目蓮さまの苦となっている。 そこで、お釈迦様は「それならこの夏安居にくるサンガの人々に供養をなさい」と進められる。夏安居とは夏の合宿ですね。報告勉強会です。供養をなさい、の内容は食事を提供することでした。僧たちとともに七世の父母を念じて感謝しなさいと勧められる。そうしてお釈迦様の指示通りにメニューをそろえサンガの人々と共に、目蓮さまは「菩薩道」の歩みを知らず知らず進まれる。サンガに供養をんさっているうちにだんだんソレが楽しくなり悼みや苦が和らいでいく。 さすれば、母親は餓鬼道から救われた。さらに七世の父母も天人界へいくぞとお釈迦様はおっしゃり、目蓮さまはたいそう慶ばれ安心なさったというお話。 これにちなんで「施餓鬼」といって、お供え物をして餓鬼に布施をするという、儀式があります。さらに、お盆にはお墓参りをし盆棚をつくりご先祖を供養するという考えを説く宗派がありますが、皆さんは、お経の内容(コンテンツ)とこの解釈にズレがあるとは思いませんか? 目蓮の目的=母の救済。、目蓮のしたこと=供養と願。結果=餓鬼道脱出。行先は天。親孝行として「供養」をすれば親は天にいく。表面上の論理としてはこう。 さて、ここにその成立ではなく、その内容からこのお経を検討します。 コンパスは四諦八正道と縁起です。すると供養をしたのは目蓮さんであるから、母親の業にはならないこと。さらに、お釈迦様は、「天人」界へいくとおっしゃる。すなわち未だ輪廻の最中です。天は迷界ですからそこでブッダにあい法を聞き解脱するか、500年後人間に生まれてきてからの成仏です。 成仏(解脱)はダルマに従い自業によるという原則は、アラハンであり神通力のある目蓮さまであっても、自身による母親の直接救済が不能であったことから、逸脱されていません。 さすればこの経では、お釈迦様は「菩薩道」の勧めを説かれたことになります。すなわち利他円満の教えですね。苦を忍辱しつつ、仏法に帰依する或いは学ぶものに布施行を精進する。サンガのものが利他を目的とした修行をすることを指示されたお経となる。 目的=母の救済→目蓮の菩薩道入り 六波羅蜜の実践をさせられた。苦を転じて楽とす。釈尊は目蓮を救済なさったことがおわかりでしょうか? こう読むと仏教の根本に合った教えとなります。もちろん大乗菩薩道でありますが。 親鸞さまは経典をこういう読み方で読まれていったようです。表現されている。わが親の幸せという凡夫の囚われを批判したり否定なさらずに、菩薩道へと振り向けられて知らないうちに六波羅蜜の実践をさせられる。この生き方、方向が仏教なんだよとお示しになったと理解する。かといって表面上は目蓮尊者の親孝行の話であり先祖供養の話。これが「仮」という捉え方です。そして「仮」をそのままに「真」とすると「偽」つまり仏教から逸脱していくことになりますよ、というお立場です。あくまでもnazunaが応用した読みですが(諸先達、見逃してくれい!) (余談ですがこうして「盂蘭盆経」の真をいただくと、施餓鬼やお盆の仏教徒としての正しいあり方も示唆されますね。お金に余裕のある人はお金を、無い人は物品を、他者に施す日にするべきです。もちろんお寺に寄付したりお坊さんに布施することはありがたいですが。 お墓参りしたりお飾りをして家内安全を願うなどという小さいことではなく、「父母や七世のご先祖への感謝です」として、思いっきりボランティアをする年に一度の期間。他人に慶んでいただく行事。お盆はこうあるべきであるというステキな結論がでますねえ。)
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