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倫理の問題

天台本覚思想。日本独特の仏教解釈でしょうね。

前からこのブログで展開しているように、「宗教が倫理を生み出す母体」であるのですが、あくまでも母体であって倫理ではない。つまり、人間集団が安全かつ相互信頼できうる思考や行動のワクグミを超えているものとして、宗教を見ています。

決して、仏教や浄土真宗をヒイキしようとは思わないので、仏教に対しても一定の距離感をもって見つめる時が(生意気かつ傲慢ですがそうでないと人間やってられません)あります。

そのときのnazunaの思考ワクを批判してみると、「この神が正しい」「この神にしたがう」といってときに、相対的に「他の神は間違っている」「他の神には従わない」と言っている可能性を問題視していることに気がつきます。

娘から前に、「お父さんはすごく倫理的やなあ」と言われて?と思っていたのですが、確かにその時は気付いてませんでしたが、その宗教がどのような「倫理」を構成しうるかという可能性も問題視していますね。

大変残念ですが、例えば「信仰すれば病気が治る」とか「財産が増える」とかいう方向のフレーズが多いとそれだけで入り口から逃走したくなります(笑)。お願いするとお参りすると、福があるというときに裏返し、つまり○○しないと罪になる、災いがくるという「言辞」が、実生活では大嫌いだからでしょう。

宗教というものが得体のしれないもので、どこかで恐怖を煽る記憶があるからです。それは仏教も例外ではなく、○○しないと地獄へいくよ、とか畜生になるよとかの、フレーズに恐怖した子ども時代があるかもしれません。

「悪い事をしたりウソついたらエンマさんに舌をひっこぬかれるよ」「立小便したりミミズが起こってチ※チ※、腫れるよ」とか、「巳さんいじめたら(へびのこと)祟りで足動かんようになるよ」とか、子ども時代に因果の話を大人からいっぱい聞かされました。今時の人はそんな経験ないんかなあ???

エホバの証人の人が何度か来られて、信仰生活に入られた体験を聞かせてくださいますが、やはり他を廃する言辞と「私だけがタスカル」というスタイルになじめません。

倫理とは何かという社会の側の枠(倫理規定といいます)が揺れている現在、個々人が何によって倫理を決定するのか、露骨に言うと「何を人でなしと決めているのか」それは心の奥深いところの何に依っているのか、そこに興味と関心があるように思います、自分では。

戒律をどう思うか?

皆さんは、仏教を学ぶのにはいくつかの約束があって、それを守らなければ教団から追放されることをどう思いますか?

私はそれは大事な事だと思います。複数の人間が場を同じくする。ましてや衣食住を幾日か共にするときには、お互いが不快になったりあるいは全体に深刻な事態起こすことを避けるために、予めルールを守ることを確認してから仲間にするのは当然だと思うのです。

公立学校を例に取り上げてもそういう約束やルールを守らなくてもいいんだという風潮が盛んになっていて、先生方を困惑させています。携帯電話の扱い、髪の毛を染めること、等々。意見が分かれて中々学校側の指示がとおらないのです。

仏教もお釈迦様が直接面授されて仲間となさった外にも、面授された弟子が自分の弟子をひきつれてどっと人数が増えたりしましたので、それぞれの人となりを確認できないまま自称「仏教徒」が氾濫しました。それは社会における仏教やお釈迦様への評価を下げる危険であり、かつ自立した個によるゆるやかな信頼関係に拠る連帯という組織のありようを破壊する可能性を帯びます。

そこで、仏道を修行するもの(サンガを自覚するもの)には「戒律」を与えられたと思われます。問題はそれが十分条件なのか必要条件なのかという理解の違いで於きます。

私は、お釈迦様が男女の性的関係を禁じられたり家庭をもつことを禁止されたとは到底思えません。ほぼ裸体に等しいスタイルで野原で就寝することも厭わないサマナというこの時代の新しい思想家のスタイルでは、男女が共に行動しかつそこに肉体関係や恋愛感情が生じれば、「煩悩を滅ぼす修行」という当初の目的から逸脱する可能性は大ですし、トラブルの原因になる。だから禁じられた。

学校に例えれば学びの目標と、学校集団の規律を確保するために、設定されたのが「戒律」であるという理解です。従って、「女犯戒」を守り結婚しないで修行するというスタイルは、原初のお釈迦様の教団の有様に忠実であるということですから、尊敬いたします。けれども、それが成仏の条件であるとは思わない。

お釈迦様が「どうせそのうちに死ぬんだから生きる意味なんぞ考えてもしかたがないし死後の世界を思ってみても仕方が無い」という態度であるとは思えない。性的関係と家族否定が条件ならば、仏教は一日も早い人類の滅亡が解決であるとしていることになりますもの。「苦行とは究極自殺ではないか。よく生きるための修行が自殺であるというのは本末転倒・因果の否定だと喝破されて苦行を止められたお方ですよ。中道を歩めとおっしゃるのに、在家を否定することを成仏道とされるはずがないです。

カウンセラーとなるなら、ソレを極めるためならば、家族を捨てて時間をできるかぎり観察と思索に使える身軽な身となるべきですというような、サンガの目差す方向性の示唆ではなかったのでしょうか?そういう意味で真理を突き詰めようとする姿勢や切実さの上で、戒律を保つサンガに厚い尊敬を覚えます。しかし、だからといってそういうサンガのお坊さんが全て成仏し、破戒無戒の在家人は成仏できないとは思えません。乞食により生活し仏陀になられるのであれば、それは乞食に答えた無戒破戒の衆生のおかげではありませんか。

日本の仏教界への不満は、法施と財施に依って交通している僧侶と門信徒の相互依存関係そのものを評価できないことにあります。「出家」という形式スタイルやその思想性を貫徹する事が尊いのではありません。その形式で獲得されるものが尊く支えた多くの在家者に分け与えられていくものであることが尊いのです。在家の側にそういう交通感覚がヴィヴィッドにあるようにパフォーマンスできていれば、出家価値があります。しかし、交通感覚がほとんどなくつまり一方的に奪われたり一方的に与えているとした時、「出家」の内実が問われます。結婚して家族がいるのに何故出家ですか?と。

私見ですがその声に、多くのお坊さんはきちんと答えていないと思います。私たち真宗でいえばその逆で、交通感覚が失われれば「出家でもないのに何故お坊さんぶるのですか?」となるでしょう。

仏教を見る基準? 1

nazunaはお寺に生まれましたが、街中の小さなお寺ですから父親は学校の先生をしていました。お祖父さんやお祖母さんや父などから、仏教のお話や浄土真宗のお話を聞かされたりお勤めをいっしょにすることで仏教になじみました。

でも、普通の公立小学校で過ごしましたから、テレビっ子で野球少年でどちらかというと時代の文化つまりアメリカ的なものやキリスト教的なものを「かっこいい」と思っていました。ある時期からお寺や仏教そのものがすごく時代遅れでかっこ悪い古臭いものだという印象を持ったのです。

ですから、世間から期待されるような禁欲的で教えに純粋に生きるというイメージの仏教徒ではありません。今でも。中学生のときにはお祖父さんが往生して、お参り手が無くなったので法衣を着て近所の門徒さんの家に月参りに行かされました。アルバイトです。お小遣いがもらえるからいきました。

父は住職になりましたがお寺としての収入が少なくて、子ども二人を大学にやるのに不安があったので兼職をしてやはり学校の先生を続けていました。いい成績をとって公立学校で進学する。それが一番のことと、子ども心に思っていました。弟もそう思っていたようです。習い事は一切しませんし、おもちゃを買ってもらうことはなく父のものであるクラッシックのソノシートを蓄音機で聞くことと本だけはたくさんあるので読書が趣味になりました。

全く宗教的に価値のない子どもが、やってきてお経を読む。そしてお菓子やジュースを飲ませてもらってお布施(お金)をいただく。世の中が高度成長期であって甘かったのでしょうか?それにしては不思議だなあと思いつつ、中学3年生からは友達とバンドを組みフォークロックスターを夢見ていましたので、楽器やレコードやPAを買えるので、言われるままにお参りしていました。

おそらく多くの方が批判されるように、お参りしてもらう側は誰がということではなく、僧服を来た人がやってきて「お経」を読んでくれることを求められていたのでしょう。命日参りをするということは、家で祭ってある聖なるもの、祖霊に本来それに仕え対話できる存在としての専門家に来てもらって儀式をしてもらうことで1ヶ月の安心を得る。そういう心情が大勢を占めていたのでしょうか?

そのような僧俗の現状を葬式仏教といいあるいは先祖崇拝といいますが、戦後まだ20年。国家神道という慣習化した宗教観は強く、そうであったとしても無理も無いと思います。しかし、中には必ずいっしょに勤行されご文章を読まれる門徒さんもいらっしゃり、そういうおじいさんおばあさんが後ろで熱心に念仏される声を背中から聞いていました。

やがてバンドは解散、多くの挫折にアレルギーも出て最悪の思春期を迎えます。ビートルズの歌詞や映画を見ながら、キリスト教に関心が高まりますが、聖書のお話や教会での説教にはどこか違和感を感じてしまいます。創世記の説明とか処女受胎とかは「そんなわけないやろ」という感じでつっこみたくなる。

さて前置きが長くなりましたが、そこで仏教再浮上。まず無神論であることに共鳴しました。さらに、法と人間という措定のしかたによって、全ての人類がブッダになれる可能性をもっているという平等感。それは逆に言えば釈尊だけが特別ではないことになり、教祖信仰と一線を画す。

そして、今苦を抱えているものへの緊急性という発想。抜苦与楽、そのためには苦の本質を把握すること。こうして四諦にいたる。苦とは外からくるのではなく内部から生み出される。私と言う意識がないと生きていけないのにその「私」という意識が苦のたねになる。自分の尾を食うウロボロスです。

そんな所に猛烈に興味がわきました。ですから、nazunaにおいて仏教か否かは、煩悩を否定していることと(つまり愛欲を肯定しないあおらない)が第一です。次に体験的に言うと劇的な感動(サポーターとしてみんなで飛び上がったワールドカップ初勝利!とかキャッツを観たときとか)とは全く質の違う、孤独であるが孤立ではない喜びを与えられること、実践的には八正道に説かれる真理への従属姿勢を継続していることすなわち「今正しく見れた」ではなく「正しく見れていないのではないか」という疑いを常に自己に対してもつこと、が判断要素です。

質問を考える

日記というのはこっぱずかしいものですねと、振り返って思います。

ここしばらく、この内容が続いているのは、問いという言葉があってそれにこたえるというスタイルで考える作業がすすむということが、ライブだなあと思うからです。でまた、2問。

釈尊がおっしゃったように、「貴方の出した言葉を私が受け取らなかったらどうなるか」という、問いに問いで返すのが本来かもしれません。

1.「大無量寿経」は大乗仏教における創作、つまり、釈迦の考え方とは違うと思うのですが、この経典を信じる根拠は何ですか?

「大無量壽経」が創作であるという根拠と釈迦の考え方と何処が違うのかをご指摘ください。

2.日本人だけが、妻帯する理由、必要性はなんですか?ぜひ、わたくしめと、おばあちゃんをすっきりさせてください。

大乗仏典によれば、その初期からウバイウバソクと表現される妻帯し在世間の信者は存在しますが???サマナ(沙門)集団を財政的に支えつつサマナ集団のカウンセリングを受けていたものです。「日本人だけが妻帯する」という前提が???

インドの時代から、在家の経済的援助のもとで出家教団は成立していたのです。山中で精神修養的に飢え死に覚悟で修行するという事自体、釈尊は体験された上で否定されています。普通の日暮しをしていて仏道は歩めるということを示されたので、尊くありがたいのだと思いますが。

真宗のお坊さんは、在家信者のリーダー的存在ですが、決して頭脳明晰で何でも知っている訳ではない。

また、うさこちゃんが言ってるように「知らない事は知らない」でいいと思うので。その上で。問いがあるということは素晴らしいとおもうし、ありがたいなあとも感じますので、サンガ継続。

「師の教えを守り受け継ぎ実践すること、そしてそれを人に伝える」というシンプルなことでいいのでは?といううさぎ好きの小6さん(仮にうさこちゃんと呼びます)。

阿弥陀さまのみ教えを、親鸞さまのお取次ぎで伝達され、それを日々いただいているので、mnazunaは異論はないですよ。それでいいしそのとおりだと思います。

そのことと宗派や仏教の地域による偏差の存在とどう関係するのでしょう?
「お釈迦様や、百歩譲って、親鸞様の教えを純粋に伝えているお弟子さんは 現代には一人もいないのですか? いないんでしょうね。ぐっすん」と涙ぐんでおられるのは、何故でしょう?

「純粋」と言う言葉に乙女の潔癖性を感じるのはオジサンの悪い癖でしょうか? 親鸞さまは法然さまからの相承で、法然さまは善導大師の相承。そして高僧方は皆、創生されずに「阿弥陀様のお慈悲、御徳」を誉め讃えられた。その阿弥陀さまの教えを説いてくださったのがお釈迦様。純粋といううさこちゃんの評価軸は他者と共有できるもの(客観的な説得力を有する)ですか?

モノサシを勝手に設定して、そのモノサシの妥当性も吟味されないままに、「純粋な弟子は一人もいないんだ(決め付け?)ぐっすん」、と泣かれても困ってしまいます。

釈尊の教えは経典となって(文字情報)広がりました。面受の関係が基本ではありますが、師匠弟子という相伝のみでもやはり偏差はおきます。経典は説教記録で聞書きです。miginejikeさんがいいことを書いておられるので、http://blogs.yahoo.co.jp/miginejike/47181842.html
うさこちゃんはそれも読んでみてほしいのですが、人間の感受作用には個別の偏差があります。「人は見たいものを見、聞きたいものを聞く」のです。釈尊に好意をもって聞くものと悪意を持って聞くもの、ゆったりと思考するものと緊急の救済を求めるもの等、話し言葉は場に依存するので表現が変わる。「対機説法」というものであるが、これが文字資料となると矛盾を内包する。

だから、テキスト批判が起きる。経典の真偽や時代性、さらにどのテキストが本来化という本家論争。仏教同士も論争になる。そういう議論からウチが本家という宗派も実際ある。

nazunaは、経典八万四千種類分の入り口があると考える。目的は同じ(成仏)であるがルートが違うという認識。並立可能だから、大乗。むしろいろいろな解釈や理解があるほうが健全だと思う。ただし、四法印(前回の記事)に矛盾してはだめです。それは「外道」であり「非仏説」で、捨て去る。nazunaの場合はそういう観点から、同じ仏教徒でも理解に苦しむ事は正直あります。織田無道という真言宗の坊さんがTVに出て占をしたり無答であった「霊」について語ったりしていたのには閉口しました。

姿はお坊さんですが、全くの非仏説に生きておられる人もいる。そういう人とは同席したくないので、親睦団体である「仏教会」には出席しません。そういうヒマがあったら、真宗の勉強をしています。

まあしかし、その宗派やその布教は既に私における成仏道ではなくなっているので、関心はあまりないというのが本当のところですが(苦笑)。

うさこちゃんの言うとおり、「ちょー末法」の世であることは、師、親鸞聖人も「末代濁世の悪人」と自覚されていますから。戒律はあっても誰も守らない時代とお釈迦様が予想なさったとおりの世なので、ますます「絶対他力」の法が尊くありがたく思います。

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