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明日は、広島平和記念日、いわゆる70年前に原爆が投下された日である。
戦後70年を迎えるにあたって、いろいろな人から戦争当時の状況を聞いたりしているが、大治町ではどん
な状況だったのか、調べてみた。
●防護団の組織
昭和11年8月、準戦時体制の一環として各町村に「防護団」が設立された。
この団体は、その町村に関係する軍隊・憲兵隊・警察署・消防官などの指示に従って、町村民は行動するものであり、大治町では昭和11年9月30日に設立された。
団長は村長が努め、助役や尋常高等小学校校長が要職に付き、陸軍将校が顧問となり、村役場職員を中心
に評議会が組織された。
●翼賛政治
「大政翼賛会」が昭和15年10月に第二次近衛内閣によって発令され、府県・郡市町村に支部が置かれた。
それを受けて当時の村長は、直ちに「大政翼賛会大治村支部」を結成し、その支部長となった。
●勤労報国隊の結成
昭和16年に各町村に「勤労報国隊」の結成を勅令によって命ぜられた。
これは、14年以上、40年未満の男子、14年以上、25年未満の未婚女子は、勤労報国隊の対象となり、隊員は、年間30日以内の無料勤労奉仕が課せられた。
この団体は、青年部と少年部とあり、青年部は、青年学校生徒が対象。
少年部は、国民学校児童と生徒が対象だった。
「大治村青少年団少年部勤労報国隊」が組織され、農繁期には出征応召軍人遺族の家庭へ勤労奉仕に出かけた。
大治村として、延862人の生徒・児童が奉仕に出かけたことが記録に残っている。
昭和18年6月には、「学徒動員体制確立要綱」の発表により、国民学校高等科の生徒が軍需工場にかりだされた。
動員された学徒のなかで、大都市の空襲で死者が出たという。
●警防団
防護団は、本土が戦場になった場合を想定されて組織されており、防護団の指揮権者は、軍人などであった。戦場が拡大するにつれ国民が軍人として招集された。
そのため、本土の維持・防衛を消防団が一手に引き受けることとなり組織の改正が必要となり、軍事や治安を担当する警防団が組織された。
大治町では、昭和14年4月「大治村警防団」が結成され、消防団員298人を308人に増員した。
具体的な活動としては、空襲時や食糧盗難防止など、めざましい働きがされた。
村民は、銃後の守りとして戦時体制下では食糧生産と主食の供出だった。
大治町も産米割当され、戦後まで供出した。
戦争が激化すると、米・麦・甘藷・馬鈴薯などの主食的な食糧はすべて統制され、供出の対象となった。
生産者には保有米が残されたが、その保有米からも何割か供出され、厳しい状況となった。
また、配給を受けていた消費者の配給量が激減し、栄養失調者が出たという。
さすがに戦時中らしい厳しい生活がわかる。
調べてみて、初めての発見も多かった。
全部細かく書ききれないので簡単に紹介したが、戦後70年を機にいろいろと調査をしたい。
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